[6分間の道草](607)『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』解説(上)
もう、たびたび書いていますが、ぼくの処女編・著は『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』(美術出版社 1963.6.15)でした。
あれから47年経ったのに、いまだにこだわっているのは、その後、ビートルのシリーズが20世紀を代表するキャンペーンとして、世界中で認められたからです。
鑑識眼を自慢しているわけではありません。じつは、6月9日---満80歳の誕生日なのです。80歳を真言宗では「寿量」と呼ぶそうです。釈迦が入寂した年齢だったと。仏から授かった年齢量を使いきったからと、勝手に解釈しています。空海は、40歳に達したとき、寿量の半分(中寿)に達し、なにか残さなければと眦(まなじり)を決したそうです。
寿量を迎えた今朝のぼくは、中寿前に処女著・編に付した[解説]をこのシリーズの中途にアップしようとおもっただけでした。
ご寛恕のほどを。
★ ★ ★
ニューヨーク・タイムス(1960.08.01)にDDBが出した1ページ広告。
『ニュース・フロント』誌の最初の賞
1960年8月1日のニューヨーク・タイムスに、ドイル・デーン・バーンバック(DDB)代理店の1ページ広告が載りました。
この広告によって、私は、DDBという代理店への関心を強め、ひいてはフォルクスワーゲンの広告の研究に取り組むことになったのです。
その広告というのは、
「過去10年間における、最もすぐれた広告キャンペーン10」
という見出しで、『ニュース・フロント』という経営者向けの雑誌が選出したものの紹介でした。
本文で、 『ニュース・フロント』誌が大代理店100社の代表的なクリエイティブ・ディレクターに投票させた」と説明していますが、この広告は、10のベスト・キャンペーンのうちの、四つはDDBが創造したものであることを宣言することでした。
選ばれた10のベスト・キャンペーンのリストは、
ハサウェイ・シャツ
マルボロ煙草
ポラロイド・カメラ
ロールス・ロイス
スミルノフ・ウォッカ
ELAL航空
ピルスバリー・ケーキ・ミックス
オーバックス百貨店
シュエップ・トニック
フォルクスワーゲン
(太字はDDBが創造したキャンペーン)
これらのキャンペーンのうち、フォルクスワーゲンを除くと、私には馴染のある広告ばかりであったので、私は、私のほとんど知らなかったVWのキャンペーンを調べてみようと思ったのです。
当時、私がフォルクスワーゲンのキャンペーンについてあまり知らなかったのは、その後、DDBのVW担当のアカウント・マネジャーであるマクネイリー(Edward R.McNeilly)氏からの手紙で、それが当然であることがわかりました。
マクネイリ一氏は、この記事が載った『ニュース・フロント』誌の1960年5月号を送ってくれ、こう自慢しています。
この投票があったとき、VWのキャンペーンは、始まって5ヶ月しか経っていなかったのですよ。
いいですか、過去10年間というのが選出基準であったのにVWは、たったの5ヶ月で選び出されたのです。
なるほど、氏が自慢するだけのことはあったようです。
送られてきた『ニュース・フロント』誌の記事は、 「この10年間に"腕をふるった" トップ広告10点」という見出しで、 「多額の予算よりはクリエイティビティ----これが、10年間の広告のうちの"最高"と産業界が折り紙をつけた広告の特徴である」というサブ見出しをつけています。
その本文は、
一つの広告に、突如、巨大な力を与える魔法の働きとは、何なのであろう---その力は、一国の経済に活を入れ、一夜のうちに空路を開き、セールズ・リーダーに得体の知れない薬液を注入するのである。
どの広告にそれがあるのか、そしてなぜあるのか?
偉大なキャンペーンは、銘柄の個性を創造し(または変え)、 めざましい販売曲線をつくり、市場のリーダシップを現製品のために確保し、新製品またはアイデアを紹介する。
これは、よくあることだし、あり得ることなのだが、さらに、よく記憶されて、会話の端々に---家庭で、あるいはコメディアンの利かせ言葉になって現われてくる。
この10年間の……"偉大な"キャンベーンは何か? 選出にあたって、『ニュース・フロント』誌は、一流代理店100社の代表的なクリエイティブ・ディレクターたちに、彼らの好きなものを選んでくれるように依頼した。
彼らが選んできたリストは、クリエイティブ・マンのリストであった。
どのキャンペーンも販売面では成功している。が、その成功はクリエイティビティ(創造性)、 新鮮なアイデア、 新鮮なやり方に起因しているもので、大量販売の猛威とか、販売網の強さとか、無限の予算とかには、あまりたよっていないものであった。
事実、大多数は、少ない予算のキャンベーンで、個々の広告は、一つで10の働きをするほど、すぐれたものであった。
天文学的な広告予算を組む代わりに、これは非常に重要なことである。
ハサウェイの"黒眼帯をつけた男"のキャンべーンは、非常にパンチが強くて小さな広告で数倍の効果を出すという広告キャンペーンを創造した。
ハサウェイ・シャツは、一夜のうちに名をなし、売上げが最初の年の2倍になり、この興味津々の人物は、模倣者をつくる本家となったことが、一般にも知られている。
「黒眼帯の男」を創ったオグルビー・ベンソン&メイサー(Ogilvy,Benson & Mather) 社のダビッド・オグルビィ(David Ogilvy)社長は、 これを回想して、不思議なほどあっさりとこういっている.
「私は自分のモデルを憶えやすくしたかったし、男の顔に黒眼帯をつける以上に面白く見せるものは、何もほかに思いつかなかった」
(注1 ハサウェイ・シャツのキャンペーンについてもっと詳しくお知りになりたい方は、当ブログ『効果的なコピー作法』第7章 「コピーと調査」およびオグルビー氏のインタヴューをクリックしてください)
VWは、カタログ流の詳細さではなく、ある一つの思想をとりあげてそれを強力に打ちだした。
DDBが伝達したいと望んだもう一つの考えは、ここにナンセンスさの全然ない、掛け値なしの車があるということであった。
一つ一つの広告が、一つのポイントを打ちだし、単純なレイアウトと強力な文字組み、確固とした調子のコピーが使ってある。
『ニュース・フロント』誌が、なぜ、こんなコンテストを催したのか、私は知りません。
あるいは、この10年間にアメリカの広告界に起こったいくつかの傾向の転換を、経営者たちに知らせるためであったのかもしれません。
あるいは、大広告予算時代に、放任されたままになっている広告予算管理を、クリエイティビティによって行なってみることを警告したのかもしれません。
それにしても、この『ニュース・フロント』誌の記事によって、その後、フォルクスワーゲンの広告が得たかずかずの広告賞の、最初の賞が与えられたことだけは確かです。
キャンペーン開始後、たった5ヶ月で・・・・・・。
キャンペーン開始まで
5ヶ月前・・・・・・すなわち、1959年の8月第1週号のライフ誌に第1弾の広告が出たのが、アメリカの一般読者がVWの広告を目にした最初です。
この年の8月のライフ誌は5週分が発行されました。
ビートルの広告は、その各号に、白黒1ページずつ、 5週連続で掲載されました。
すなわち、
8月3日号 フォルクスワーゲンは変わるでしょうか?
10日号 なぜ、エンジンが後部にあるのでしょう?
17日号 フォルクスワーゲンがいつも品不足なのは、なぜでしょう?
24日号 198ポンド(>>Google Books)
31日号 ゲルハルト・べッケルが、フォルクスワーゲンについて教えます。
'59年にはあと2点,
11月16日号 フォルクスワーゲンに必要な水は、洗う水だけ。
23日号 ジョーンズ一家は、何年型の車を運転しているのでしょう?(>>Google Books)
といった順序で載りました。
これらのVWの広告が人びとの目の前に現われてきた、その舞台裏をご紹介しなければなりません。
訳出したブックレットのとおり、VWがアメリカに正式に輸入されたのは、1949年の2台でした。
1949年に、U.S.A.で2台のフォルクスワーゲンを売りました。
その2台のVWのオーナーは、ずいぶん笑われたようです。
でも、2人には、それを受けとめるだけちゃんとした理由があったのです。
1ガロンあたり32マイル、凍りついた丘でも自分たちを(そして、動きのとれない隣人たちを)乗せて登ってくれるリア・エンジン、沸騰したり凍ったりが決してない空冷式エンジン。
いつも物笑いのタネになったのに、2人はそのかぶと虫を敢然と守り、この型がやがてクラシックとして愛されるようになるのを見たのです。
そしてとうとう、物笑いにした人たちが次々にフォルクスワーゲン派に宗旨を変えるのを見て、なんともいえない満足感を味わいました。
1960年に、どれほど大勢のアメリカ人がフォルクスワーゲンを買ったかを、この'49年組の2人が知ったら、きっとうなってしまうでしょう。約185,000台(ステーションワゴンとトラックを含めて)。'59年の23%増です。
そしてもし、12歳になったはずのVWを今も持っているなら、アメリカ中どこのフォルクスワーゲンのディーラーにも乗り入れることができますし、取り替え用部品がその場で揃うこともわかっていたはずです。
フォルクスワーゲンは依然として、基本的には同じなのです。ただ、人びとが変わったのです。
C/W ダヴィッド・ライダー
A/D ヘルムート・クローン
ライフ誌 1969年12月26日
(この広告は"The NEWYORKER"には出稿されませんでした)
In 1949 we sold 2 Volkswagens in the U.S.A.
What a kidding the owners of those two Volkswagens must have taken.
But they had something to sustain them.
32 miles to the gallon. An engine in the rear that carried them (and their stranded neighbors) up icy hills. An air-cooled engine that never boiled over or froze.
They fiercely defended the beetle shape against a thousand jokes, and sow it become a beloved classic.
And finally, they had the sweet satisfaction of seeing one kidder after another turn up with a new Volkswagen of his own!
We think our two '49ers would get a kick out of knowing how many Americans bought a Volkswagen in 1960. Around 185,000 (including station wagons and trucks.) That's 23% more than in '59.
And if they still own those 12 year old VWs, they can drive into any Volkswagen dealer in any part of the U. S. and find replacement ports on hand.
The Volkswagen is still basically the some. But people have changed.
C/W David Reider
A/D Helmut Krone
LIFE 1969.12.26
それから徐々に伸びて、1958年には、78,588台のVWが売れるところまできていました。
もちろん、アメリカの輸入車の約半数近くがVWだったことはいうまでもありません。
ところが、競争相手のルノーなどが1958年に広告キャンペーンの準備を始めました。
また、アメリカ・コンパクト・カーが軌道にのり始めたのもこの年です。
アメリカ・フォルクスワーゲン社(Volkswagen of America lnc.)は、ここで、第1回の広告を行なうのが賢明だと考えたのです。
当時の事情を、アメリカ・フォルクスワーゲン社のリー(Paul R. Lee)前宣伝部長は、こう述懐しています。
それは決して容易な決心ではなかった。
ともかく、そのままでも売上げは上昇していたからだ。当社の重役の幾人かは広告をすることによって、VWに対する関心が高まりアメリカ中のVWディーラーが受注未納伝票の山をかかえこむようなことになれば、当社はのれんを失うかも知れないと発言した。
販売が進行している1949年からの10年間、まるで広告が行なわれなかったというのは夢のような話ですが、事実だったのです。
VWは、金をかけた広告をしなかっただけで、広告をしていないとは考えていなかったのです。
リー宣伝部長はこういっています.
「VWが不格好で、小さなかぶと虫であることは、みんなが知っています。
そして間もなく私たちが広告の中でそういっても、だれも驚かなくなるでしょう。
しかし、朝から晩まで広告をしているという点では、VWにたちうちできるものはないでしょう。
また、その外観という点についていえば、だれかVWを持っている人にきいてごらんなさい、きっと、だんだん好きになるとおっしゃるでしょう」
フォルクスワーゲンは不恰好でしょうか?
フォルクスワーゲンは内側からデザインを始めました。
どの線も機能が生みだした「結果」です。ししっ鼻は風の抵抗を少なくしてくれています。車内も内部の活動を考えてつくられています。出っ張るものも何もない。
ある英国人はフォルクスワーゲンのことをこういいました。「驚くべき簡素なデザイン」
米国のオーナーで、また違ったことをいう人もあります。「どうも、だんだん印象が変わってくるんですよ。はじめは、いままで見たこともない、ぶざまな奴だと思う。だがすぐ、その形が好きになる。しばらくたつと、ほかの車がみんなおかしく見えてくる」
VWは古さなんて気にしません。1950年と'61年のがっちり型、どちらがどうかを見分けるのはちょっと無理でしょう。これを変えるということは、オーナーに対して異端の罪を犯すことになります(だれも卵の完全な形を変えようとはしないでしょう?)
でも、私たちは目に見えないところでだんだん変えています。たとえばアンチ・スエイ・バーはカーブでの揺れをなくしました。1959年以来、こんな改良は無数にあります。でも、基本的デザインには一切なし。
VWは不恰好でしょうか? あなたの見方にしだいです(それから乗ってる期間にも)。
C/W ボブ・セルダン
A/D ヘルムート・クローン
ライフ誌 1960年11月7日
(この広告は、『ニューヨーカー』には出稿されていません)
Do you think the Volkswagen is homely?
The Volkswagen was designed from the inside out.
Every line is a result of function. The snub nose cuts down wind resistance. The body lines hug the interior workings. Nothing protrudes.
One Briton called the Volkswagen "a marvelous economy of design."
An American owner put it differently. lilt's funny," he said, "how she grows on you. At first you think she's the homeliest thing you ever saw. But pretty soon you get to love her shope. And after awhile, no other carlooks right."
The VW defies obsolescence. You can hardly tell the doughty shope of a 1950 model from a '61. To suggest altering it is heresy to owners. (Would you change the perfect form of on egg?)
But we are continually making changes you cannot see. Example: a new anti-sway bar eliminates sway on curves.
Over a hundred such changes since 1950, but never in the basic design.
Is the Volkswagen homely? If depends on how you look at it land how long).
C/W Bob Seldan
A/D Helmut Krone
LIFE 1960.11.7
つまり、アメリカ・フォルクスワーゲン社が広告をしていると判断した根拠は、これだったのです。
VWのオーナーによる口伝えのキャンペーン。
VWは、1958年に広告を開始しました。
総額わずかに30万ドル。
これは、トラック系列における業界誌向けキャンペーンでした。
1959年のはじめ、生粋のオーストリア人であるハン(Carl H. Hahn)が西ドイツのウォルフスブルグにある本社のセールス・プロモーション・オフィスから、アメリカ・フォルクスワーゲン社に派遣されてきました。
まだ30代半ばの彼は、活動力にあふれ、実行力に富んだビジネスマンでした。
間もなく彼は、副社長となり、ドイツにあるVW本社以外の所では最高の執行部のポストであるゼネラル・マネジャーを兼任しました。
アメリカの広告事情を短日時のうちに調べつくしたハーンは、直ちに行動を開始しました。
すなわち、広告代理店を物色したのです。
ここのところは、アメリカと日本の広告事情の差を知っておかないと、よく理解できないことですが、アメリカで広告主が直接に広告活動を展開することはほとんどなく、すべてを広告代理店に委託するわけです。
前節で解説したベスト10広告キャンペーンで、それをつくった代理店に賞讃の声が捧げてあるのも、そういった事情からです。
また、あとで詳しく述べますが、広告代理店は、一つ一つがそれぞれ異なった哲学を持っており、その哲学に従って広告を
創造していますから、代理店を選ぶということは、表現まで選択してしまうことになるのです。
ハーンは、いろいろと調べたあげく、つぎの二つの代理店を選びました。
ドイル・デーン・バーンバック社
その独創的な制作態度をかい、VWセダンとステーション・ワゴンの広告をまかす。
フラー&スミス&ロス社
工業広告における経験をかい、VWトラックと中古車の広告をまかす。
代理店の任命は5月に公表されました。
それから2ヶ月後、ハンは、リーを引き抜いてきて初代宣伝部長にすえました。
リーはシボレーのセールスマンを経験したのち、キャンベル・エドワード(Campbell-Edwald)広告代理店でシボレー部門のアカウント・エクゼクティブをやっていた男です。
リーが初代宣伝部長とはいえ、全く新しい仕事というわけではなく、その前の年にスチュワート(Harvey Scott Stewart) というPRマネジャーがVWトラックのキャンペーンをやっていたのです。
リーはスチュワートから仕事を引きつぎました。
スチュワートはペンシルヴェイニアのアレンタウンに移ってVWのディーラーとなった男です。
リーのアシスタントには、シュミット(Helmut Schmit)というドイツ本社から派遣されてきた青年があてられました。
アメリカ・フォルクスワーゲン社では、各部門でドイツ人とアメリカ人が共同して仕事をしています。
リーとシュミット、輸出マネジャーのヒンク(Manuel Hink)とハンは、今後の広告キャンペーンのための目的と哲学について討議を重ねました。
リーはいいます。
「第一の目的は、つまらないことのようにきこえるかも知れないが、正直にキャンベーンすることだった。
われわれは、VWという車は、車それ自身のためにつくられているのだという評判をバック・アップしようと考えた」
正直に(honestly)広告をすること---広告には誇張がつきものです。
善意の誇張ということもあります。
誇張という言葉が悪ければ、強調といってもいいのです。
広告が用いる強調のレトリックに対して悪感情を持っている青年が、ひとたび広告の仕事に関係するや否や強調論者に転向してしまうのを、私は数多く見ました。
正直にやること---簡単なようでいて、非常にむずかしい態度です。
けれど、リーたちはこのやり方を選んだのです。そして二つの代理店にこの旨を指示しています。
DDBのマクネイリー氏はこういってよこしました。
「私たちの基本的態度は、VWという車を、正直に、シンプルに、インフォマテイブリーに表現することだ」と。
改良至難な形だってあるんです。
雌鶏にきくまでもありませんよ。
タマゴ以上に横能的な形をデザインすることはできません。
そこで、私たちも、フォルクスワーゲン・セダンを、そっくりタマゴに似せてつくったのです。
でも、私たちがそれで満足したなんて、早のみこみしないでください。
(実際の話、フォルクスワーゲンは、3,000回近くも変えられているのです)。
ところが、さすがに、その基本的なデザインを変えることはできませんでした。
タマゴのように、それは、中味に対する、完ぺきなパッケージであるからです。
そこで、私たちは、努力を内部に注ぎました。
ガソリン消費はそのままで力を上げること。ロー・ギアをシンクロメッシュにすること。ヒーターを改良することなどです。
その結果、私たちのバッケージは、おとな4人とその荷物を運ぶのにレギュラー・ガソリンでリッターあたり13km走り、タイヤは64,000kmも保つようになりました。
もちろん、私たちは外観も少し変えました。
たとえば、プッシュ・ボタン式のドア把手がそうです。
タマゴ以上といえますね。
C/W 不明
A/D 不明
(推察だが地方紙用のクリエイティブ・チームか)
Some shapes are hard to improve on.
Ask any hen.
You just can't design a more functional shape for an egg.
And we figure the same is true of the Volkswagen Sedan.
Don't think we haven't tried.
(As a matter of fact, the Volkswagen's been changed nearly 3,000 times.)
But we can't improve our basic design.
Like the egg, it's the right kind of package for what goes inside.
So that's where most of our energy goes.
To get more power without using more gas. To put synchromesh on first gear. To improve the heater. That kind of thing.
As a result, our package carries four adults, and their luggage, at about 32 miles to a gallon of regular gas and 40,000 miles to a set of tires.
We've made a few external changes, of course. Such as push-button doorknobs.
Which is one up on the egg.
さて、この目的の一部として、リーとシュミットは、VWの広告の主張は、いかなる場合にもまず第一に、フォルクスワーゲン社のサービス部門のことをはっきりさせて制作されなければならないと考えました。
リーの言葉を借りると、
「ブルン(Herman Brun)の監督のもとに、当社のサービス部門の人びとがいかに慎重であるか、つぎのような事例からもおわかりになるだろう。
たとえば、タイヤの平均寿命をチェックするためにセダンをテストする場合、われわれは6万マイルというのが正確な平均値であると判定した。
サービス部の人びともわれわれの判定に賛成したがブルンはそれを広告に使うときには、その数字を4万マイルにカットさせた。
彼のスタッフは、それよりもっと下回る平均値を出した人にも反対を唱えようとはしなかった」
フォルクスワーゲンのガソリン消費率に対する主張も、もう一つの例でしょう。
サービス部では、広告するに際して 1ガロンあたり32マイルという数字を明らかにしましたが、コピーには正確を期するために、「普通のガソリン、普通の運転で」という但し書きをつけるように申し入れてきました。
コンシューマー雑誌のテストでは、もう2〜3マイル伸びるという結果を発表しているのですが---。
リーは、こうした要求と同時に、広告というものは、読者の心をつかまなければならないのだから、表現のテクニックで少しぐらいは飾ってもいいと、代理店を訪れていい渡しました。
これが、VWの広告にみられるユーモアかも。
VWの宣伝は、雑誌キャンペーンに限られました。
『ニューヨーカー』、『ホリデー』、『ライフ』、『スポーツ・イラストレイテッド』、『サンセット』が選ばれました。広告は1ページ。
黒白でした。
フォルクスワーゲンは、機能的な車です、ムダな設計は一切やらない車です。
従って広告でも、ムダな色刷りはやりたくなかったのでしょう。
【chuukyuu注】アメリカでは、全国通し媒体としては、雑誌が主体。
制作スタッフ
アメリカ・フォルクスワーゲン社と取引きを開いたDDBは、早速、VW担当のチームを編成しました。
アカウント・エクゼクティブにファイン(Robert Fine)、アカウント・マネジャーにマクネイリー、アートディレクターに
はセダンの一般広告をクローン(Helmut Krone)、ワゴンの一般広告をロイス(George Lois) と決めました。
クローンは、副社長でもありアートディレクターでもある、1925年生まれの働きざかり。度のきつい眼鏡をかけた意志的な顔立ちの男性です。
副社長でもありヘッド・アートディレクターでもあるゲイジ(Robert Gage)、副社長兼アートディレクターのトウビン(William Taubin)とともに、DDBの看板アーチストでもあります。
VWのチームに編入されるまでは主としてポラロイド・ランド・カメラのアートディレクターをしており、第38回のニューヨーク・アートディレクターズ・クラブ展では最高賞であるメダルを受賞しています。
ロイスは、1931年のニューヨーク生まれ。朝鮮戦線から復員後はCBS-TVでドーフスマン(Lou Dorfsman)、H.S&L代理店ではルバリン(Herb Lubalin)というアメリカきっての第一級グラフィック・デザイナーの下で働いて、DDBに移った新進気鋭のアートディレクターです。
これを見てもDDBがいかにVWに力を入れようとしたかがわかります。
このほかカタログ、ダイレクト・メール、屋外広告のアートディレクターとして、ヤコブス(MurrayJacobs)、ラム(SILam)などが起用されました.
また一方、コピーライターには、セダンの一般広告に ケーニグ(Julian Koenig)、ワゴンの一般広告にコピー・スーパバイザーのレブンソン(Rober Levenson)が起用されました。
レブンソンは当時32歳。彼は2度にわたってドイツのウルフスブルグにあるVWの工場を訪ねて、9日間、生産工程や設計ぶりを研究しました。
VWの広告のもとになるアイデアの多くは、このときの経験から生まれたといわれます。
DDBのお得意のレッグ・ワーク(legwork)です。
もっとも、コピーライターがコピーを書くまえに工場を見学したり、設計技師たちと話し合ったり、販売店を訪問したりすることは、どのコピー・ライティングの教科書にも載っている原則です。
が、実行することは、いろいろな事情から困難です。
ケーニグは、当時38歳。コピ-ライターとしては最も円熟した年代であったといえましょう。事実、彼のアイデアはこの本に収めた広告の最初の10点ぐらいしかありませんが、VWのコピーのフォーマットとなっているのです。
こうした優秀なメンバーで編成されたVWチームは、みごとな広告をつくり始めました。
そして僅か5ヶ月で、セダンの広告が先述の『ニュース・フロント』誌の選に入ったのです。
ところが、1960年の初め、ちょっとした事件が起きました。
というのは、コピーライターのケーニグと、アートディレクターのロイスが退社してしまったのです。
彼ら自身の広告代理店を設立するためでした。
なぜ、彼らはそうしたか、その理由ははっきりしません。
が、その後、ロイスたちがつくる広告を研究したり、その言葉から想像するに、ロイスがゲイジ副社長と、俗にいう「性が合わなかった」と見えるフシがあります。
ロイスは、先ほども書きましたように、チャキチャキのニューヨークッ子で、恵まれたコースを歩んできたアーチストです。
一方ゲイジは、DDB設立時からバーンバック社長の右腕として今日のDDBを盛りたててきた功績者です。
しかも彼の制作哲学はDDBの哲学ともいえるほど、社内で重要視されています。
『アート・デイレクション』誌のゴットシャル(Edward Gottschall)氏からの手紙によると、ゲイジという人は、公けの場所ではあまり話したり書いたりしない人だそうです。
ということは、彼の注意のほとんどは自社でつくる広告と自分がつくる広告に向けられているのでないかと想像できます。
才気換発のロイスにしてみれば、このゲイジの存在が重っくるしく感じられたのかもしれません。それともうーつ、ルバーリンやドーフスマンの下で学んだロイスのグラフィック・デザインに対する考え方と、VWのフォーマット尊重主義がどうしても折り合いがつかなかったのではないでしょうか。
また、ケーニグのことをさしていったのではないと思いますが、彼と組んでいたアートディレクターのクローンが、私の友人、中島洋君(インターナショナル第一広告)に「お互いにおとなであるんだから、コピーライターとアートディレクターがアイデアの点でもめることはない。もし、そうなったらどちらかが辞めるしかない」と話したといいます。
一種クレージーなところもあるケーニグが、クローンとやりあったこともあったであろうと私は、今、想像しています。
そうはいっても、新しい代理店パパート・ケーニグ・ロイス社を設立してからのロイスの言動を調べてみますと、実に多くの影響をゲイジから受けていることがわかりますが、これは本書のテーマではありませんから詳述を避けます。
要するに、DDBという代理店は、自社の広告哲学をスタッフ一人一人の胸の底までたたきこんでしまうようだとだけいっておきましょう。
で、ケーニグのあとは、バーンバック社長自身とライダー(Dave Raider)がコピーを書き、のち、ライダーとレブンソンの担当となりました。
ロイスのあとはヤコブスが兼任しました。
つくられた広告からは2人が辞めたことは全然感じとれないぐらい、外観は変わりませんでした。
この点について、マクネイリー氏からの手紙によると 「私たちは、アートディレクターとコピーライターがつくっている途中に干渉することはありません。私たちは、できた広告の中から、実際に使用するものを選ぶだけです。ただ一つ、私たちが留意するのは、すべての広告がVWの広告らしく見えるかどうかという外観だけです」ということです。
ここのところを、日本のデザイナー、コピーライターは考える必要があります。
日本では、制作者が変わると広告の外観がガラリと変わることが多いのです。
原因はいろいろありましょう。
彼らは自己の個性をもって広告の個性を成立させているからだともいえましょう。
が、結局は、同じ代理店、同じ制作プロダクションに属しながら、共通の哲学を持っていないからではないでしょうか。
代理店、プロダクションに哲学がない---といってしまえばそれまでのことですが、実は、そういってすましてはいられないのです。
広告のアプローチの仕方、外観が変わるということは、それまでの広告投資をゼロに帰する結果を生みかねないからです。
さて、現在のスタッフは、つぎのとおりだとボブ・ゲイジの秘書であるラーマン(Andrey Lehrman)嬢が手紙をくれました。
○コピーライター
レブンソン---セダンとステイション・ワゴン
ハーツ(Steve Herz)---トラックと業界誌
ビンガム(Dan Bingbam)--- 同上
○ アートディレクター
クローン---セダンとステイション・ワゴン
シローイッツ(Len Sirwity)--・同上
ラーセソ(David Larsen)---トラック業界誌
ゴーリッチ(Ron Ghoelich)--- 同上
なお、セールス・プロモーション関係の印刷物は、
○コピーライター
エスバーグ(Carol Esberg)---セダン
シュウェイデル(Renee Schweidel)---ワゴン
メイヤーズ(Wayne Meyers)--・トラック
○ アートディレクター
ヤコブス---セダンとステーションワゴン
カーソン(Ken Carson)---トラックと業界誌
クライン(Dick Kline)--- 同上
エプスタイン(Lee Epstein)---同上
いつのころからか、フーラー&スミス&ロス代理店から、トラックと中古の広告までがDDBへ移り、こうした大編成のスタッフが組織されたのでしょう。
お断り:敬称略。
お断り、もう一つ---1963年の段階で、ぼくはアメリカの土を踏んだことはなく、すべて手紙のやりとりでまとめました。はじめてDDBを訪問したのは、本書の上梓の4年後でした。
したがって、ロイス氏、ケーニグ氏のDDB退社の経緯も、太平洋をへだてての単なる憶測にすぎません。
とくにお見せするものはありません。
'62年型フォルクスワーゲンはいままでと同じ。
'62年型のフォルクスワーゲンにお乗りになっても、これが最新型とはどなたもお気づきにならないでしょう。
(ひょっとすると、目ざといご近所の人は、'61年型にくらべてテール・ライトが少し大きめになっているのに気づくかも知れませんが、変わったといえば、とくにこの部分だけ)。
なにもかも'61年型そっくり、もちろんお値段も1,595ドルすえ置きです。
外はとにかく、内はずいぶん変わっています。時間と努力をタップリ使った改良です。
'62年型VWは、いっそう静かに走ります。新しいクラッチとブレーキを採用しました(新しいステアリング回りの部品も同様)。すべて手入れはご無用です。ヒーターの温風が前と後から出て車内をくまなく暖めます。
そのほかにも、実に24ヶ所も改良されています。
その一つはガソリン・ゲイジがついたこと。
ガンコ派の人たちの中には、スポーツ・カー的なところがなくなったと、コボす人があるかも知れませんが、ガソリン・ゲージは予想外に便利なものです。ガソリン・タンクがいっぱいか、空っぽかを知らせてくれるだけでなく、これが'62年型の象徴でもあります。
1962年はフォルクスワーゲンの歴史の中では、大変化の年となるかも知れません。
C/W ボブ・レブンソン
A/D ヘルムート・クローン
ライフ誌 1961年9月8日これも『ニューヨーカー』誌には出稿されていません。
No point showing the '62 Volkswagen. It still looks the same.
No head will turn when you drive a '62 Volkswagen home.
(Maybe on eagle-eyed neighbor will notice that we've made the tail lights a little bigger. But that's the only clue.)
Everything is right where we left it in '61. Including price: $1,595.
Inside is another story.
We've put all our effort into improvements that matter.
The '62 VW runs more quietly. there are new cluch and brake cables las well as new steering parts) that never need maintenance, Heater outlets front and rear for more even heating. Easier braking.
And 24 more.
One change is literally a gasser.
We've added a gas gauge. Our first.
A few die-hards may think we've stolen some of the VW's sporting flavor. But the gas gauge may be more useful than you'd imagine. It will not only tell you whether your tank is E or F; it will prove you're driving a '62,
It could make 1962 go down in VW history as the year of the big change,
C/W Bob Levencon
A/D Helmut Krone
LIFE 1961.09.08This isn't appears in [The NEWYORKER] magazine.