創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(514)DDBのクリエイティビティ by Mrs.Lore Parker (連結編)


1966年晩秋、パーカー夫妻が休暇旅行先を日本に決めたとの私信を受け取りました。前回は九州だけだったが、今度は東京も旅程に入っていました。
早速、コピー十日会で親しくしていた電通・コピー局長近藤 朔さんにもちかけ、電通主催の講演ということになりました。
翻訳は同社連絡局の山田正冶さん。

季刊『クリエイティビティ』6号に収録されたスピーチを、第3クリエイティブ局次長・安芸研一さんが<アドミュージアム東京>から掘り出してきてくださいました。英文は、パーカー夫人が「好きに使って---」と渡してくれたものです。
43年ほど前のものですが、こういうステップをふんで今日があるということを心得て読めば、軌道修正にも資ししましょう。


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DDBのクリエイティビティの秘密



講演者:ロール・パーカー夫人
DDB 副社長兼 コピー・スーパバイザー
1966年10月15日当時




数ヶ月前、ビル・バーンバック社長が訪日し、DDB社の広告に対する考え方をお話ししました。
あちらは、DDBという広告代理店の経営幹部の視点からお話しになったのです。

chuukyuu注】バーンバックさんの日経ホールでのスピーチは、1966年5月10日午後1時から、招待者を中心に行われた。記録は『日経広告手帖』(1966.6.15号)に収められている。


私がお話しするのは、DDBの内部で働いている人間が、DDBをどう見ているかということです。

ビル・バーンバックは、いわば、船橋に立って乗組員に号令をかけている船長の立場でお話ししたのです。
私は、船底近くのボイラー室で働いているボイラーマン(ボイラーウーマン)の話を聞いていただきたいと思っています。


DDBはどこがちがうか?


DDBで働いていることが、船のボイラー室で働くのと同じように、たいへんなことだと、皆さまがお考えになってください。まさにそのとおりなのです。
DDBには、コピー・ディレクターやアートディレクターとして働きたいという就職希望者がずいぶんやってきますが、中には、 「DDBで働くことが私の一生の夢です。DDBに入社すれば、私がほんとうにやりたいと思っている風がわりで、超モダンの、おもしろくて、人がほれぼれするような、人気のある原稿を作ることに専念できるのだが」と言ってやってくる人も少なくありません。


そして、われわれに見せるために特別に制作した作品を提出してきますが、このような人たちの作った原稿は、風がわりで、モダンで、おもしろくて、人がほれぼれするようなものではありますが、商品を何ひとつ売ることができない広告原稿なのです。


DDBのクリエイティブ部門では、私の知っている広告代理店のどこよりも厳格な規律を励行し、社で作る広告キャンぺーンの一つ一つに、それこそ血と涙と汗を最大限に投入するのです。

広告代理店の中には、強力なセールス・ポインツを発見するのに努力を集中するところもありますが、彼らの努力はそこで止まってしまうのです。

また、他の広告代理店---特に扱いがどんどん伸びている、いわゆる"ホット・エイジェンシー"では、いかにしたら読者の注目率を高め、おもしろく広告を読ませるかの2点に努力を集中して原稿を制作していますが、彼らの努力も、そこで止まってしまうのです。


DDBの組織と仕事の進め方


ビル・バーンバックに、 「実はこのたび日本で講演するように招待されたのだが、わが社の仕事ぶりを説明するのに、何か喋っては困るような点がありますか?」と聞いてみました。
社の秘密事項をもらしたくないからです。


彼は一笑に付し, 「君も知っているとおり、DDBの秘密事項は、アイデアだけである。日本へ行ったら、喋りたいことは何でも話していらしゃい」と言ってくれました。
ですから、DDBでの仕事の進め方のいっさいをお話しします。

はじめに、クリエティブ・デパートメントの組織を説明をします。

クリエティブ・ディレクターの肩書を持っているバーンバックさんの下に、コピー・チーフとチーフ・アートディレクターが1人ずついます。

コピー・チーフの下に数名のアソシエイト・コピー・チーフがおり、その下にコピー・スーパパイザー、アシスタント・コピー・スーパパイザー、コピーライター、ジュニア・コピーライターがいます。

アート部門も同じような構成になっています。

特に目立った点は、ビル・バーンバックの下にいるクリエイティブ部の全員---コピー・チーフやチーフ・アートディレクターをも含めての全員---が、おのおのアカウントを手一杯抱えており、自らからコピーを書いたり、アートディレクションの仕事をしていることです。

われわれの管理者としての職務は、二の次なのです。
DDBで優秀なクリエティブ・ワークを認められて昇格しても、クリエイティブの仕事におさらばして管理職としての職務に専念するというわけではありません。

実のところ、これとは逆に、昇格すればするほど、より重要なクライアントの仕事を自分でやるように任せられるのです。

DDBが新規のクライアントを開拓した場合や、あるいは現在扱っているクライアントから新製品が発表され、そのアカウントの扱いを依頼された場合、その仕事はコピーライターとアートディレクターからなるチームに割当てられます。

しばしば、ビル・バーンバック自らが、このクリエティブ・チームの選定を行ないます。

また、クリエティブのスタッフのほうから、このアカウントには興味があるので、是非ともやらして下さいといって、バーンバックに頼みこむ場合もあります。

しかし、たていいの場合、アカウントの割当ては、コピー・デパートメントのマネジャーとアート・デパートメントのマネジャー(アドミニストレイター)の手で行ないます。


彼らの仕事はチーフ・アートディレクターとコピー・チーフの仕事と種類を異にするものです。
アート、コピーの両チーフの職務はクリエイティブ面の成果を監督することであるのに対し、両マネジャーはアカウントの割振り、昇給、スタッフの休暇といった事務的な面を監督をするのがその職務になっています。

しかし、両マネジャーともクリエティブマンで、副社長の肩書を持っており、われわれ同様、めいめいのアカウントを担当しております。


参照DDBのコピー部とアート部のマネージの実際については、コピー部アドミニストレイターであったメドウ氏と、アート部のスピーゲル氏の対談---当ブログ2007年3月12,13日[コピーとアートの結婚を語る]前編 後編クリックをご参考に。

パーカー夫人の作品



ヤードレーの小さなレッド・ローズを一びんあなたにお届けするのに、私たちは、かぐわしい赤バラの花びらを3,000枚もつみとりました!


with art director: Bert Steihauser


>>(2)「クリエイティブ・チームとアカウント」「古典的傑作『ユチカビール』の発想」


クリエティブ・チームとアカウント


アカウントの割当は、非常に民主的な方法で行なわれます。
副社長の肩書きをもっているアート・スーパーバイザーが、ぺいぺいのコピーライターと組んで仕事を行なうこともありますし、逆に、アソシエイト・コピー・チーフが何の肩書もないアートディレクターと組むこともあります。


組合わせを決定するにあたり、考慮されることは、誰がその仕事に適しており、その仕事を行なう余裕があるかどうかということだけです。


アカウントがあるチームにいったん割り振られますと、もうそのアカウントは完全にそのチームのものになります。そのチームの責任になります。


広告代理店の中には、クリエティブ・スタッフの一群を一つの問題に割り振り、それぞれを競争させることによって、いい作品を生み出そうとしているところも数多くあります。
これは、「自分の考えたキャンペーンが採用される見込みはどうせ薄いのだから、一生懸命になって仕事に打ち込む必要があるのだろうか」という態度を持たせてしまいます。


DDBのクリエイターは、一人一人が任かされたアカウントに責任を取るのは自分だけだという責任感にあふれています。
この場合、アカウントというのは、アカウントの広告活動に使う媒体すべて--- 印刷媒体、テレビ、屋外広告物--- のことを指しています。
印刷媒体担当のコピーライターとか、テレビCMのコピーライターという区別はありません。
もし、あるアカウントが大きすぎて1チームの手に負えないという場合には、製品によってチームを分けます。
一例をあげますと、VWのステーションワーゴンはVWのセダンとは別のクリエティブ・チームが担当してます。
このように、私たちの担当はすべてであり、媒体別ではありません。


古典的撫作ユチカビール


実際の仕事振りはどうなのでしょうか?
コピーライターとアートディターが向いあって坐り、作品を創り出すのでしょうか?
まだまだです。
まず第1に担当の商品やお得意、市場、訴求対象、広告によって解決しようとしている問題点や、広告目的について知る必要があります。


エスビス・レンタカーの「私たちは業界で2位なのです。だから一所懸命にやっています」というキャンペーンなどは、クリエティブ・チームの人たちがエイビスの業界での地位や、1位のハーツとの競合状態を熟知していなければ、とうてい達成することはなかったでしょう。


ですから、クリエティブ・チームがクライアントを訪門し、マーケティング担当者や製造責任者、販売部長と話し合い、工場を見学することもあります。


クリエテイブ・チームはDDBへ戻り、社のマーケティング担当者や調査担当者とディスカッションを重ね、担当の商品に関し、もうこれ以上知る必要がないというまで調べ上げます。


私個人のことになりますが、商品を取りまく状況を完全に理解するまでは、キャンペーン・アイデアのひとかけも心に浮ばさないように、きつくいましめます。
というのは、そうしないと、事実に適したキャンペーンを考えるというより、キャンペーンに事実を合わせてしまう弊に陥るからです。


ときによっては、クライアントの口からキャンペーン・アイデアがそのまま完全なコトバになって出てくることがあります。


ユチカビールのアカウントをはじめて獲得した時のことです。
クライアント側の代表は、創業者一族の後継者だった人ですが、昔ながらの時間をかけたビールの製法---これで、たいへんコクのあるビールができ上るのですが--- の説明をしておりました。
この説明会には、ビル・バーンバックもちょうど出席していたのです。
クライアントが、ふと、「これほどまでにしてビールを作って、ひき合うのかどうか、ときどき不思議に思うことがある」と嘆いたのです。


その言葉を聞くと、ビル・バーンバックは手を叩いて、「それこそがヘッドラインです」と声をあげました。


で、ユチカビールの一番最初の広告には---後に広告の古典的傑作の一つになったのですが---ユチカビールの社長の写真と長文のボディコピーを使ったもので 「ときどき私は、こうやってビールをつくって引き合うのが不思議に思うことがあります」というへッドラインを置きました。


chuukyuu注】ユチカ・クラブ・ビールの、この時にできた広告のことを、バーンバックさん自身が、1966年5月10日の日経ホールでのスピーチで、以下のように語っています。(『日経広告手帖』1966.6.15号より)



信憑(ぴょう)性が重要


次に申しあげたいことは、広告の原則のなかの非常に重要な部分についてです。
それは信憑性です。
前にもお話ししましたが自分のところの製品は他のよりもいい、最優秀だ---とばかり言っても、人びとは信じてくれません。
人びとが信じてくれるようには、どうすれば到達できるでしょう。
その例として投映するのが、ユチカ・クラブというビールの広告です。
このクライアントから話があったときに、この会社へ行っていろいろ話しあいました。
これは当然のことで、新しいクライアントと取引き契約を結ぶときには、必ずそこのビジネスについて知れることをなるべく聞きたいわけです。
ユチカ・クラブ・ビール醸造所の社長は非常な老人で、ションボリした感じを受けました。
なぜなら、過去5年間にビジネスが落ちていたからです。


彼は、いろいろなことを言いました。
ドイツから最優秀な製造設備を持ってきて、原料も最良のホップを使い、経験の豊富な職人を使っていながら、方々のビール会社がいろんなトリックを使って売り上げを上げているのに、うちは落ちている。
ビールをこんなつくり方をして、ほんとうに儲かるのだろうか---彼のこの言い方には怒りがこもっていました。
これを、大衆に対して使えば非常にいい広告になる。
そこで私どもは、「これほどまでにしてビールを作って、ひき合うのかどうか、ときどき不思議に思うことがある」というのをそのまま使いました。
つまり、大衆に向かって、彼の怒りをぶつけたわけです。
そして本文をつくり、そのなかにいろいろなことを書き、創業者である彼の父、またその同僚の写真を入れ、そしてまた、「このような倫理的なビジネスをやっていては、米国ではもうダメなんだろうか」といった怒りをうんと入れ、最後に彼にサインさせました。
これが信憑性というものなんです。
彼は怒りを大衆にぶつけることによって、結果として、信憑性が出てきたわけです。


そして、ビールの売り上けがあがりはじめ、ほうぼうから手紙がきました。
「どうぞ、破産しないで、ビールづくりを続けてください。米国には、あなたのような正直な実業家が必要なんですから---」


5年連続で落ちていた売り上げが、創業60年以来、初めて繁栄に入り、どんどん上がってきました。
人びとは、自己満足の、自分のところはこんなによいのだといった広告を聞きあきています。
消費者は子どもでないから、そんなことで長くだまされないわけです。
この広告が出た直後に別の手紙がきました。その人は、広告コピーを社長が書いたとおもったのでしょうね、
「これで社長さん、あなたはマジソン街の連中のハナをあかせましたね」(会場、笑声)。一部、文体を替えています。


参照】 「ときどき私は、こうやってビールをつくって引き合うのが不思議に思うことがあります」につづくこの時代のビールのうまさの秘密は?(←クリック)のボディ・コピーで、メッセージ内容をご想像ください。

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1960年から80年にかけての20年間におよぶぼくのDDB取材は、この人がいらっしゃったからつづけられたのだと、いま、つくづく、幸運をかみしめています。
DDBのクリエイターたちをごっそりと招いての大ホーム・パーティを2度ももよおしてくださったり、あまり快くなかった元上司のメリー・ウェルズ女史への紹介の労をとり、アップ・ステイツのTVCM撮影現場ので連れていってくださったり、いたれりつくせり、実の叔母でもやってくれそうもないほどの心づくしでありました。


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アートディレクターとコピーライターの関係


さて、アートディレクターとコピーライターは、ちょうど2個のスポンジのように資料をじゅうぶんに吸収した上で、ひざをつき合わせてクリエティブ活動に専念します。
これはほとんどは、アートディレクターの個室で行ないます。


アートディレクターが、コピーライターと話しあいながらザラ紙の上にラフ・スケッチを描きつけることができるからです。


広告代理店の中には、コピーライターが自分で広告を書き上げ、コピーに、コピーライターの考えたラフ・スケッチを添付して、アートディレクターのもとに送りとどけるというシステムを取っているところもありますが、そのようなやり方はしません。


また、アートディレクターのほうで美しい写真を準備して、その下に「ヘッドラインの位置はここ」と、コピーライターに指定するところもありますが、それとも違っています。


DDBでは、2人がパートナーとして、いっしょに働いています。
作業は、2人の会話だけで、それ以外は何もありません。
商品について話し合うだけです。
広告のもって行き方を研究します。
コピーライターのほうからビジュアル面のアイデアを出すこともありますし、またその逆もあります。心に浮ぶアイデアを、編集しないで、ありのまま持ち出します。
パートナーの一人が 「そのアイデアはよくないと思う。その理由は云々----」とか言うこともありますし、場合によっては「陳腐なアイデアだ」とさえ言うこともあります。
しかし、ときによると、「そいつはおもしろい。それを使うと、きっとこうこうなる・・・」
こうなると、しめたもの、こうやってキャンぺ-ンの骨子ができ上っていくのです。


これは、ちょうど、ピンポンみたいなもので、球をサーブし、一方が打ち返し、相手が打ち返すのと似ています。
違いは、我々の場合は、相手が球を落さないよう気をつけるだけです。
自分のアイデアが相手のもとに行き、打ち返す毎に、だんだん形をととのえてよくなって来るのは、たいへんな喜びです。
イデアのピンポン球が打ち返えされていれば、キャンペーンができ上って長時間にわたってきます。
そして、自分と相手の両方がゲームの勝利を納めることになるのです。


あるキャンペーンができ上ってしまうと、チームのどちら側が最初のアイデアを思いついたか思い出すことがなかなかできません。
そのようなことはどうでもよいのです。
DDBで「私の考えたキャンペーン」と言うのは、重い罪悪です。
DDBでは必ず「われわれのキャンペーン」です。称讃のコトバも、みんなで分ち合うと同じに、非難も分ち合います。
私がDDBに入社して以来、ビル・バーンバックが「君たちのうち、どちらがこのアイデアを出したのだね」と質問したのをただの1回も耳にしたことはありません。


バーンバックのOKをとるまで


DDBへの訪問者の中には、私たちの仕事ぶりを見るために、アートとコピーのやりとりに腰をすえて見学される方があります。
腰をおろして、すばらしいアイデアがひらめく「不思議な瞬間」がいつくるか、お待ちになるというわけです。
しかし、少々失望することになります。多分、こういった人たちが期待しているのは、私たちが夢うつつの状態で静かに坐りつづけ、突然、頭の上のランプがつき、ベルがなり出すという状態ではないでしょうか。
見学者が目にするのは、程度の高い会話をしているたった2人の人間です。


キャンぺーン・アイデアというものは、静かに序々に形づくられてきます。運がよければ、2〜3時間ででき上るかもしれません。
が、たいていは数日、数週間、ときには数ヶ月もかかります。


また、人が違えば、仕事のスタイルも違います。
アートディレクターのビル・トウビンは、一晩で難問を解決するのを得意にしていますし、有名なヘルムート・クローン(アートディレクター)はキャンペーンひとつを6ヶ月もかかって、たんせいこめて完全な形に仕上げます。


キャンペーンが誕生しますと、コピーライターの上司とアートディレクターの上司、両者の承認を得なければなりません。
担当者がスーパバイザー自身である場合には、このステップはいうまでもなく、はぶかれます.


次に、できたキャンペーンをアカウント・グループに示します。最後に、ビル・バーンバックのもとへ持って行きます。これがすべてです.
DDBには見る人すべてを喜ばせるかどうかをチェックする---その結果、誰にも何も訴えないようなキャンぺーンを作り出す結果になるのですが---クリエティブ・レビュー・ボードのようなものは存在しません。

がん協会のための、乳ガンの早期発見の公共広告。
アナウンスは、女性ががシャワーのついでに乳房にさわり、異常を発見することは、みだらな行為でもなんでもない---と、自己簡易検診をすすめる。



あなたが女性なら、ご自分の生命が救われる方法を探しましょう。
月に一度、月にたった一度だけ、シャワーを浴びている時とか、体を乾かしたりスプレーする前の時間をほんのすこしだけ割いて、ご自分の胸を押すちょっとした仕草をなさってみてください。
ご自分の躰を大切にするために、乳房をご自分で調べてみてください。これが出発点です。
たいした検査でもありません。面倒なものでもありませんし、あなたを傷つけもしません。
また、そのために要する時間は、ほんの2分間です。
その方法をご存知なかったら、医師にお尋ねください。
あるいは、私ども米国対ガン協会にお尋ねください。
やり方を記した簡単な小冊子をお送りします。
あなたの余生をお考えください。
1ヶ月にたったの一度、たったの2分とは、ずいぶん安い保険でしょう。
そうお思いになりませんか?
恐れることはありません。あなたを傷つけることでもありません。お電話ください。

クライアントのOKをとるまで


それでは、アカウント・エグゼクティブ(AE)の発言権はどの程度のものか、お知りになりたいでしょう。
AEはキャンペーンを却下できるのでしょうか? 
もちろん、できます。
もし、キャンペーンが、商品のマーケティング上の目的に合致しないならば、です。
しかし、 「ぼくの考えに一致しないから」という理由では、却下することはできません。
数年前、ビル・バーンバックとネッド・ドイルの2人が共同で、クリエイティブ・グループとアカウント・グループ両者の責任を規定した、有名なメモを出したことがあります。
アカウント・グループの人間は、何をいうべきかを規定すべきであり、クリエイティブ側の人間は、それをどうやって表現するか完全な自由を持つべきなのです。


アカウント・グループとクリエイティブ・グループの両者の意見が対立して暗礁に乗りあげる場合も数多くあります。


その場合、問題解決の道はただ一つあるだけです。
ビル・バーンバックに決断を仰ぎに行きます。
この点については、後ほどふれることにしましょう。


次の問題は、クライアントのいい分をどこで認めるかです。
「どうもキャンぺーンがぼくにはピンとこないよ」ということができるのでしょうか?
実際には、このようなことは、あなた方がお考えになるほど起こるものではありません。
というのは、わが社のクライアントは---わが社を自分たちのエイジェンシーとして特に選んで採用した---という理由から、我々の仕事にたいへん同情的だからです。


しかし、クライアントもキャンペーンをボツにします。
その場合、私たちは、そのキャンペーンで気に入らぬ点がどこにあるかを問いつめます。
納得できるものであれば、社に帰って別のキャンぺーンを考え出します。
もし、クライアントのいい分が納得できないものであれば、私たちの考え方を納得させるよう努力します。
しかし、キャンペーンを2案、3案、あるいは1/2ダースも提出して、クライアントのほうで好きなのを選んでいただくということは、決していたしません。2案も3案もキャンペーン案を提出するのは、患者に「みどり色」の錠剤や「青」「むらさき」の錠剤を見せて、どれでも好きなのを飲みなさいとすすめるヤブ医者のようなものだと考えます。
クライアントのほうからは、もちろん、どこが悪いか言っもらわねばなりません。
しかし、私たちは診断を下し、処方箋を書く専門家なのです。
もし、使った治療法が患者に合わないとしたら、他の方法をやってみます。
しかし、選択の重荷を患者に負わせるのは、私たちの責任を回避することになると考えます。


テレビCMの制作


次にテレビCMの場合、プロデューサーの権限をどの程度まで認めるかの問題です。
DDBでのプロデューサーの役割に関して、残念ながら誤解があるのではないでしょうか。
世間一般の考えによると、DDBのプロデューサーで幸福なのは才能のない者だということです。
その理由は、アートディレクターとコピーライターがどうしたらいいか、正確に指示してくれるからだというのです。
この考えは、完全に間違っていると思います。プロデューサーは、クリエイティブ・チームの一員です。
CMをよくするのも悪くするのも、彼次第です。
プロデューサーの割わりは、アートディレクターとコピーライターの任命が行なわれるのとほぼ時を同じくして、テレビ制作部長ドン・トレバーが行ないます。


参照DDBのテレビ・ラジオ制作部クリック
ドン・トレバー(Don Trevor)/プロダクション ディレクター


TVCM案は、アカウント・グループに見せる前に、プロデューサーと打合わせが行なわれます。
プロデューサーの側から問題点を指摘し、そのCM案をオクラにしてしまう場合もありますし、あるいはプロデューサーの意見に基いて、CMがよりよくなる場合もあります。
何はともあれ、CMが良くなるかならないかは、プロデューサーによって大いに左右されるもので、彼はいわば赤ん坊を取り出すおサンバさんといったところです。
プロデューサーのする仕事は、見積を各プロダクションから取り、プロダクションを決め、配役・小道具・セットデザインを監督し、制作日程を出し、その他あらゆることに気を配ります。


このようにして、実際の撮影の段階になりますと、DDBの2名のクリエイティブ・チームは、3名のチームに拡大されます。
プロデューサー、コピーライター、アートディレクターの3名はいわば古代ローマ三頭政治のシステムのように、お互いに相談し、提案したり、批評し合いながら、密接に協力し合いながら、作業を進めます。
この3者の代表(スポークスマン)はプロデューサーで、たいていカメラマンのすぐ後に立うており、このプロデューサーにコピーライターとアートディレクターの2人が何やらかんやら注文をつけるという具合です。
注文をつけるのはプロデューサーで、しばしば演出家の立場で行動します。
社外のCMディレクターをやとうことは、殆んどありません。
3名のチームのほうが、お互いに何を望んでいるか、よく知っているからです。


コピーライターとアートディレクターの2人は、もちろん撮影の現場に立合います。このクリエイティブ・チームに最後の最後までの責任があるわけで、多分、これに対して社外の演出家が反対するのでしょう。
しかし、DDBのCMプロデューサーはこのようにして作業を進め、他のどこの広告代理店のCMプロデューサーよりも獲得した賞の数が多いのです。
すぐれたクリエイティブ・チームといっしょに仕事ができるというのは、どのプロデューサーにとってもプラスになることと思います。


超人的なバーンバック


それでは、次にバーンバック社長のクリエティブ活動における役割について説明しましょう。
まず二つのことがらが、常に私を驚かします。


一つは、米国内だけでも60以上のアカウントをかかえているのに、バーンバック社長はわが社で制作する広告原稿やテレビCMのすべてに通暁しているということで、他の一つは、彼は常に門戸を開放して誰とでも気楽に相談にのってくれることです。
たいへん信じ難いこととお思いになるかもしれませんが、1,300名の社員をかかえた年間1億8,000万ドル(558億円)の扱い高の広告代理店の社長が、常にオフィスの門戸を開けているのです。


もし、質問があったり、彼の承認を必要とするキャンペーンなどができ上った場合には、ただ彼のオフィスに入っていけばいいのです。
途中、邪魔するような秘書もおりません。
ビル(バーンバック社長の愛称)は、秘書半人前かかえているにすぎませんし(1人の秘書をネッド・ドイルと共有しています)、また、この秘書は別の部屋におりますから、彼女に会うことなしにビルの部屋へ入って行くことができるのです。
問題は、ビルに会って意見を聞こうとしている他のクリエイティブ・マンたちで、レイアウトや絵コンテをかかえてビルの部屋の外で待っていますから、そのために彼に会うのが遅れることもあるわけです。
クリエイティブ関係者と、コピーや写真の問題について意見をかわすために、ビルが何度か新聞記者に会うのを断ったり、偉い人たちからの電話を断わったりするのを、この目で確めたことがあります。


このようにして、社長が門戸を解放しておりますと、私たち社員全員に素晴しい心理的効果を与えます。
社長のいる26階の部屋から、社員全員が一弾となって働いているのだという気が湧き出てきます。
ちょうど2ヶ月ほどドイツのデュッセルドルフ事務所へ出張した時のことですが、この時は、ビル・バーンバックから3,000マイルも離れてしまい、彼に連絡するには、手紙で1週間もかかりましたから、彼との個人的接触は失なわれてしまい、何だか見すてられたような気持ちになり、よい仕事をするのは、なかなか骨でした。
しかし、これだけではありません。ビル・バーンバックに会いたいと思って、彼の居所を探してみると、アートディレクターの部屋で腰をおろしてクリエイティブ・チームの連中と会っている時なぞがあります。
また、ひまな時には、クリエイティブ・フロアの各部屋に顔を出して、あの仕事はどうだなどとか、この仕事はどうなったかなどと、聞き歩いていることもあります。
彼はまた、誰がどの仕事を担当しているかを正確に知っています。また、全部のクライアントのすべての原稿のコピーを一語一句覚えています。


つい最近、私は、ビルが6ヶ月前のクライアントとの打合わせで、出席者が発言したことを一語一句正確に覚えていたので、驚きました。
クライアントとの打合わせは、たいへん興味深いものです。
ピルは、その打合わせが何であるかぜんぜん知らずに、ぶらりと入って参ります。
そして、打合わせに耳をかたむけ、2〜3の質問をすると、もう会議の内容を正確に把握してしまいます。
すると彼は、司会を受けついで、私たちが1時間もかかって解決できなかったことを、たった10分間で解決しています。
しぶしぶ作品の承認をくれた日など、私たちにとっては意気消沈の1日です。


DDBで働いている人たち


それでは、次にビル・バーンバックの最もすばらしい業績の一つをお話ししましょう。
DDBは、1社のクライアント(オーバックス)の50万ドルだけで創業し、17年目にの扱いが1億8,000万ドルに成長していました。
が、なおかつトップレベルのクリエティブ作品を作り続けています。


これはビル・バーンバックが、どうやったら才能のあるクリエティブ・マンを社に引きつけておけるか、知っているからです。
そしてまた、各人の才能を好きなように伸ばさせているからです。
彼はある種の有名なクリエティブ・マンたちがよくやるように、自分のやり方をおしつけるようなことはしません。
ビルにとっては、クリエテイブの公式や規則はありません。
彼はコピーが長くなければいけないとか、短くなければいけないとか、ヘッドラインには「あなた」というコトバが入っていけないし、クライアントのロゴは原稿の右下にしなればいけない---などとは申しません。


彼が要求することは、新鮮なアプローチを使ってやる気を起こさせ、読者に行動を起こさせるような原稿を作れということです。


次に、DDBの給料がとびぬけて高いかどうか、お知りになりたいでしょう。
ニューヨークの他の広告代理店の多くと比べてみれば、高くはありません。いわば平均といったところです。
実際のところ、前に働いていた広告代理店より低い給料でDDBへやってくる人もずいぶんいるんです。
しかし、2年もDDBで働いていると、彼らの市場価値が上りますから、他社に移って2倍の給料を得ることもできるのです。
このようにして優秀な人材を失うこともありますが、残念です。
私たちの周囲に優秀なコピーライターやアートディレクターが大勢いるということは、考えようによっては、たいへん重荷になることかもしれません。
しかし、この競争が逆に刺激になるのです。
廊下を歩いていますと、アートディレクターの部屋の壁に貼ってある新しい作品を見ることができます。
また、毎月、社で作った新しいテレビコマーシャルの試写を見ることができます。
「どうしたら、彼らに追いついて行けるのか」という代りに、 「もし、こんな新しいアプローチをかけた作品を彼らが作ることができるのなら、私にもできないはずはない」と自分に云って聞かせるのです。


仕事に対する満足がすべて


アートディレクターの部屋には作品がかかげてあると申しました。
DDBには、自分の作品を貼り出してないアートディレクターの部屋やコピーライターの部屋はありません。
ビル・バーンバックは、ときとき新しいお得意にわが社のクリエティブ水準を見せるために、アートディレクターたちの部屋をいっしょに連れて歩きまわることがあります。
現在、印刷媒体よりテレビの原稿のほうが多いので、壁にかかげておく作品が不足してしまっています。そこで、多くのアートディレクターは数カ月前、あるいは数年前の作品を飾っています。
将来は、きっと訪問客に自分の作品を見せるためには、各部屋に専用の映写機を置いて、1日中自分の作ったテレビCMを上映しなければならなくなるでしょう。


自分たちは少々うぬぼれを感じているかもしれませんが、どうぞお許し下さい。
DDBには豪華な事務所もありませんし、私たちの同僚が他の広告代理店へ引きぬかれて取っている素晴らしいサラリーもありません。
DDBでの報酬の殆んどが、仕事での誇りというかたちでやってきます。社の幹部のドイル、デーン、バーンバックの3人は、このことを知っており、できるだけ多くのコンクール---たとえばアートディレクター賞、アンディー賞、全米国際テレビ祭ゴールドキー賞等に参加するよう、奨めております。
仕事上の満足感は、また別の効果をもたらします。
DDBのコピーライターの中で、半分書きかけの小説を机の中に入れておくような人間を見つけるのも、また、早く家へ帰って描きかけの油絵を措き上げるようなアートディレクターを見つけるのも困難です。
9時半の出社から5時半の退社までの問にみっちり働いて、私ちは満足感を得ているのです。
もちろん、私たちも趣味を持っておりますが、これはクリエティブ上の不満のハケ口を見つけるためのものではなくて、ほんとうの意味の趣味なのです。
私たちは、いろんな種頬の人間が混り合っており、お互いに競争心にもえ、自分の仕事には誇りを感じて、満足していると申し上げました。


これにつけ加えることが一つだけあります。
それは、私たちがたいへんだらしない人間であるということです。
社の見学者たちは、DDBの気どらない格好に驚きます。
大きな広告代理店の殆んとは、高級オフィス街に豪華な事務所をかまえています。
DDBは、場末に普通の事務所をかまえているにすぎません。
使っている家具も機能的なものばかりで、装飾も最小限にとどめております。
多分、反骨者精神とでも申しましょうか。私たちは、このDDBの姿に誇りを感じているのです。
また、自分の費用で自分の部屋を飾りたてるということは、皆からいやな顔をされます。
唯一の例外は、副社長の地位に昇格した時で、この時は自分の好みにしたがって部屋を改造するよう、わずかばかりの費用が会社から支出されます。
副社長になったからは、なんらかの「ステータス・シンボル(地位の象徴)」をもらってもよいのではないないかというわけです。


DDBスタイルは変化する


最後にお話ししたいことは、DDBが1949年に創立されてから1966年の現在にいたるまでの過去17年間に、どのような変化をとげたかということです。
創立当時と同じ代理店ではありません。
これは、社の規模や扱い高という点だけではありません。


DDBの「スタイル」が年々変化に変化を重ねてきたのです。


スタイルと云っても、レイアウトや活字のスタイルのことではありません。
むしろ、モノの見方、あるいは消費者に対する態度と云ったほうが適切かもしれません。


消費者が洗練されてくると、同時に市場も変化してきました。
と同時に、DDBも円熟してき、また私たちの作品もそれとともに発展して釆ました。この変化の中で最も重要なことは、私たちが行なった広告表現上の改革が、他の人間によって真似されたということです。
真似をされた以上、何か新しい物をまた見つける必要があったのです。
DDBでは、告表現上のスタイルを、最も全盛期であった年代をとり、「DDB1956年型」「DDB1962年型」と呼んでおります。
ぶどう酒の年代を呼ぶみたいにしています。
私の家には、茶色に変色した広告の清刷のファイルを一杯しまってあります。
私が10年以上の間に作った、すべてを集めたものです。
しかし、見たくはありません。
5年あるいは3年前に自慢していた作品でも、今見ると当惑します。
このことは健全なしるしではないかと思います。
私のクリエイティブ水準が、他のクリエティブ水準と共に年々向上していることを示しているからです。
前のほうで、ビル・バーンバックが彼のリーダーシップのもとに働くクリエテイブの人たちを育て上げたと申しました。
ビルもまた、DDBと共に変化してきたのです。


ビルはもはや反逆者でも偶像破壊者でもありません。
立派な政治家になりました。
つい最近のこと、情けようしゃなく競合商品をこきおろしたコマーシャルを見せたところ、それはいけないと言って、彼が拒否したのを見て、たいへん驚きました。
彼が言うには、「良い広告よりも、もう一つ重要なものがある。それは、お互いに紳士でなければならないことです」と。
ビル・バーンバックの広告代理店は、もはや広告界の神童ではありません。私たちには中年初期の円熟さが出て釆ました。
人間の歳で云えは、DDBは40歳といったところでしょう。私たちはジョン・F・ケネディの世代に属しています。ケネディが好んで使ったコトバは、「活力」です。このコトバこそDDBの今日をよく表わしていると思います。


DDB出身の広告代理店


ここ数年間(注:1960〜66)、ニューヨークのいたるところに、想像力に富んだ新しい広告代理店が讃生してきました。
業界紙はこういった広告代理店がDDBにとって、手ごわい競争相手になると報道しております。
しかし、ほとんどの人が理解していないのは、こういった広告代理店で活躍している人たちは、以前DDBで働いていたということです。
パパート・ケーニグ・ロイスもそうです。
ジャック・ティンカー&パートナーズもそうです。
また、ウェルズ・リッチ・グリーンもそうです。
ギルバートもそうです。


DDBで働いていた以前の友人たちが、これらの新しいクリエティブ・エイジェンシーでの指導灯になっているのです。
このような優れた若い広告代理店が、あちこちに生れたということは、たいへんによいこといです。
もはやDDBだけが賞を独占するわけにはいかなくなったことは、たいへんよいことです。
そして、DDBの人間たちは、賞を受りとる代りに、選考委員に指名されたり、大学で広告の講座を教えたり、講演をしたりしています。
(おわり



参照ロール・パーカー夫人とのインタヴュー
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