創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(487)パーカー夫人のスピーチ(1)

1966年晩秋、パーカー夫妻が恒例の休暇旅行先を日本に決めたとの私信を受け取りました。日本は2度目です。前回は九州だけだったが、今度は東京も旅程に入っていました。
早速、コピー十日会(東京コピーライターズクラブの前身)で親しくしていただいていた電通・コピー局長近藤 朔さんにもちかけ、電通主催の講演ということになりました。
猿橋経由(雨で富士山は望めなかった)で、箱根の電通の寮で近藤さんに紹介して夕食。翌日講演。
翻訳は同社連絡局の山田正冶さん。

その間ぼくは、ご主人のジョージ(ベル電話会社のプロセッシング部長)と浅草寺参詣。

季刊『クリエイティビティ』6号に収録されたスピーチを、第3クリエイティブ局次長・安芸研一さんが<アドミュージアム東京>から掘り出してきてくださいました。英文は、パーカー夫人が離日時に、「好きに使って---」と渡してくれたものです。
43年ほど前のものですが、こういうステップをふんで今日があるということを心得て読めば、軌道修正にも資ししましょう。


【楽屋落ちエピソード】英文草稿を渡してくれた時、パーカー夫人曰く。「chuukyuu、わたしたち、休暇中なのよ」つまり、休暇中には仕事はしないのだと。


7日ほどつづけます。




DDBのクリエイティビティの秘密(1)



講演者:ローリー・パーカー夫人
DDB 副社長兼 コピー・スーパバイザー
1966年10月15日当時




数ヶ月前、DDBのビル・バーンバック社長が訪日し、DDB社の広告に対する考え方をお話ししました。
あちらは、DDBという広告代理店の経営幹部の視点からお話しになったのです。

chuukyuu注】バーンバックさんの日経ホールでのスピーチは、1966年5月10日午後1時から、招待者を中心に行われました。スピーチの記録は『日経広告手帖』(1966.5.15号)に収められています。


ここで、私がお話しするのは、DDBの内部で働いている人間が、DDBをどう見ているかということです。

ビル・バーンバックは、いわば、船橋に立って乗組員に号令をかけている船長の立場でお話ししたのです。
私は、船底近くのボイラー室で働いているボイラーマン(ボイラーウーマン)の話を聞いていただきたいと思っています。


DDBはどこがちがうか?


DDBで働いていることが、船のボイラー室で働くのと同じように、たいへんなことだと、皆さまがお考えになってください。まさにそのとおりなのです。
DDBには、コピー・ディレクターやアートディレクターとして働きたいという就職希望者がずいぶんやってきますが、中には、 「DDBで働くことが私の一生の夢です。DDBに入社すれば、私がほんとうにやりたいと思っている風がわりで、超モダンの、おもしろくて、人がほれぼれするような、人気のある原稿を作ることに専念できるのだが」と言ってやってくる人も少なくありません。


そして、われわれに見せるために特別に制作した作品を提出してきますが、このような人たちの作った原稿は、風がわりで、モダンで、おもしろくて、人がほれぼれするようなものではありますが、商品を何ひとつ売ることができない広告原稿なのです。


DDBのクリエイティブ部門では、私の知っている広告代理店のどこよりも厳格な規律を励行し、社で作る広告キャンぺーンの一つ一つに、それこそ血と涙と汗を最大限に投入するのです。

広告代理店の中には、強力なセールス・ポイントを発見するのに努力を集中するところもありますが、彼らの努力はそこで止まってしまうのです。

また、他の広告代理店---特に扱いがどんどん伸びている、いわゆる"ホット・エイジェンシー"では、いかにしたら読者の注目率を高め、おもしろく広告を読ませるかの2点に努力を集中して原稿を制作していますが、彼らの努力も、そこで止まってしまうのです。


DDBの組織と仕事の進め方


ビル・バーンバックに、 「実はこのたび日本で講演するように招待されたのだが、わが社の仕事ぶりを説明するのに、何か喋っては困るような点がありますか?」と聞いてみました。
社の秘密事項をもらしたくないからです。


彼は一笑に付し, 「君も知っているとおり、DDBの秘密事項は、アイデアだけである。日本へ行ったら、いいから、喋りたいことは何でも話していらしゃい」と言ってくれました。
ですから、DDBでの仕事の進め方のいっさいをお話しします。

はじめに、クリエティブ・デパートメントの組織を説明をします。

クリエティブ・ディレクターの肩書を持っているバーンバックさんの下に、コピー・チーフとチーフ・アートディレクターが1人ずついます。

コピー・チーフの下に数名のアソシエイト・コピー・チーフがおり、その下にコピー・スーパパイザー、アシスタント・コピー・スーパパイザー、コピーライター、ジュニア・コピーライターがいます。

アート部門も同じような構成になっています。

特に目立った点は、ビル・バーンバックの下にいるクリエイティブ部の全員---コピー・チーフやチーフ・アートディレクターをも含めての全員---が、おのおのアカウントを手一杯抱えており、自らからコピーを書いたり、アートディレクションの仕事をしていることです。

われわれの管理者としての職務は、二の次なのです。
DDBで優秀なクリエティブワークを認められて昇格しても、クリエイティブの仕事におさらばして、管理職としての職務に専念するというわけではありません。

実のところ、これとは逆に、昇格すればするほど、より重要なクライアントの仕事を自分でやるように任せられるのです。

DDBが新規のクライアントを開拓した場合や、あるいは現在扱っているクライアントから新製品が発表され、そのアカウントの扱いを依頼された場合、その仕事はコピーライターとアートディレクターからなるチームに割当てられます。

しばしば、ビル・バーンバック自らから、このクリエティブ・チームの選定を行ないます。

また、クリエティブのスタッフのほうから、このアカウントには興味があるので、是非ともやらして下さいといって、バーンバックに頼み込む場合もあります。

しかし、たていいの場合、アカウントの割当ては、コピー・デパートメントのマネージャーとアート・デパートメントのマネージャー(アドミニストレイター)の手で行ないます。


彼らの仕事はチーフ・アートディレクターとコピー・チーフの仕事と種類を異にするものです。
アート、コピーの両チーフの職務はクリエイティブ面の成果を監督することであるのに対し、両マネージャーはアカウントの割振り、昇給、スタッフの休暇といった事務的な面を監督をするのがその職務になっています。

しかし、両マネジャーともクリエティブマンで、副社長の肩書を持っており、われわれ同様、めいめいのアカウントを担当しております。


参照DDBのコピー部とアート部のマネージの実際については、コピー部アドミニストレイターであったメドウ氏と、アート部のスピーゲル氏の対談---当ブログ2007年3月12,13日[コピーとアートの結婚を語る]前編 後編クリックをご参考に。

パーカー夫人の作品



ヤードレーの小さなレッド・ローズを一びんあなたにお届けするのに、私たちは、かぐわしい赤バラの花びらを3,000枚もつみとりました!


with art director: Bert Steihauser


>>(2)「クリエイティブ・チームとアカウント」「古典的傑作『ユチカビール』の発想」




参照ロール・パーカー夫人とのインタヴュー
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