(461)[陽気な緑の巨人]の創造(2)
ジェリー・デラ・フェミナ著『広告界の殺し屋たち』の第7章の抜粋です。
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DDBはビールではまあまあであったが、ウイスキー類では完催にうまくやった。
なぜかは知らない。DDBの連中はウイスキーしかたしなまず、ビールには関心がないのかもしれない。
DDBはごく当たり前のスコッチ、シーバス・リーガルに評判と気どった主張を与えた。
シーバス・リーガルは7ドル50セント払っても買うだけの価値があると信じこむようにしむけたのだ。
シーバスの広告は美しく、エレガントにデザインされていた。
シーヴァスがなくなったのではない。
友が増えたのだ、
そんなふうに考えてください。copywriter: Mike Mangarno
art director: Bill Harris
友人にシーヴァス・リーガルを出さなくても、軽んじられることはないでしょう。
でも出せば、尊重してもらえるでしょう。
ニューヨーカー 1971年2月13日号
もう一つ、ロン・ローゼンフェルドによってつくられた、カルパートの「ソフト・ウイスキー」のキャンペーンもすばらしかった。
「ソフト・ウイスキー」なる意味は今にいたるもはっきりしないが、この言葉はたしかに2級ウイスキーを喉に流しこんでいた男たちには効き目があった。
「ソフト・ウイスキー」は狂ったように売れた。
私が覚えている酒類キャンペーン用の最低のアイデアは、数年前シェンリー社で考案されたものだ。
シェンリー社のマーケティング担当重役は代理店にマスコットを考えさせた。
そのマスコットの名はサニー・ザ・ルースターといった。
サニー・ザ・ルースターをふりそそぐ朝日の香りに象徴させようとしたのだ。
マーケティング担当重役は、二目酔いなしで翌朝も気分爽快だということを伝えることができればたくさん売れると確信していた。
言おうとしたかった……そしてできなかった……ことは「相棒よ、もし私たちの酒を飲んだら、朝起きて財布をのぞきこんで自分が誰なのかと、そういったナンセンスなことを考えないでいられるよ。
私たちの酒を飲めば、完全にいい気分になるよ」といったようなことだった。
彼らはサニー・ザ・ルースターをブラさげて代理店7社をうろつきまわった。
代理店7社にこの朝の陽ざしの香りと爽快感にもとづいたキャンペーンを思いつかせようとしたのだ。
彼らはサニー・ザ・ルースターを山のようにつくりだした。
ありかたいことに、このキャンペーンは日の目を見なかった。
試作した代理店が悪かったのか、サニー・ザ・ルースターが早目にその首を切り落としておくべきクレージーな考えでしかなかったか……誰にもわからない。
たくさんの代理店がこのサニーでは大金を浪費してしまった。
偉大なキャンペーンは効果を現わし、客をひき寄せるが、時にはあなたを殺しかねない事態をもひき起こす。
スカリ・マケーブ・スローブスという自分の代理店を持っているエド・マケーブは、以前カール・アリー代理店で働いていた。エド・マケーブはこの街のトップ・ライター五指に入る男である。
アリーにいた頃、ホーン&ハーダート(簡易食堂チェーソ)のキャンペーンをつくったが、すばらしい広告であった。
多くの注目を集めた。
ペテイースーという名の娘にさえ……。ベティ・スーはノースーカロライナ州ニージャークからニューヨークヘ出てきて、私がいた頃のDKG(デルハンティ・カーニット・ゲラー社)で働いていた。
スーはすばらしい娘だったが、いかんせん英語に少少問題があった。
話せるとはいえなかった。
彼女は話しているつもりなのだが、相手には理解できなかった。
ある月曜の朝、彼女は言った。
「ジェリー、私、ホーン&ハーダートの広告をヨンタの」
「ああ。ホーン&ハーダートの広告を読んだのね」
彼女は言った。「それで私、ホーン&ハーダートに行ってみたんです。私、豆を試したんだけど、とおーってもおいしいの。それから、レモンムラング・パウも試したら。これもおいしーの。それからコーヒーもとてもおーいしかったわ、そしたら前に坐ってた男が、チンポコを露出したーの」
残念ながら、これはエド・マケーブが直面したいくつかの問題のうち一つであった。
ベテイ・スーのような娘にまで読まれるせりふを思いついたのはよかったが、ホーン&ハーダートヘレイ
ンコートで入ってきて、下卑たことをやらかす男まで引きつけてしまった。
とはいえ、マケーブは名せりふを書いた。
そして多くの人の足をホーン&ハーダートに向かわせた。
【参照】
ロン・ローゼンフェルド氏とのインタビュー
(1・2・3・4・5・了)
あるDDBのコピーライターのクリエイティブ人生
業界専門誌『プリンターズ・インク』1965年7月23日号
ミズ・ヘレン・クルーガーの記事から抄訳
【参照】
ソフト・ウイスキー解説
1962年冬、シーグラム社は影のうすい製品カルバート・リザーブを中止して、新製品のライト・ウイスキーを作ることを決めました。
アメリカ大衆の好みが、ライト・ウイスキーに向いていると見たからです。 このとき、DDB のカルバート・チームは、「ソフト・ウイスキー」という新語を作り出しました。
これは、カルバートの伝統ある中性のスピリットを発展させた、じつにうまい新語です。
この新語を伴った広告が出はじめると、カルバート・エクストラの売上げは、前年のカルバート・リザーブのそれよりも35% も増加したのです。
このときのDDBのクリエイティブ・チ-ムは、コピーライターがロン・ローゼンフェルド副社長(アソシエイト・コピー・チーフ)で、アートディレクターがレン・シローイッツ副社長(アート・スーパバイザー)という、おなじみのコンビでした。
新規のクライアントや新製品がもちこまれると、2人はいっしょに工場へ出かけて行って、そこで調査関係者や生産関係者と話し合うのが習慣です。
カルバート・ウイスキーのときはこうでした、二人がカルバートの醸造工場を見学してくるまでは、一語のコピーも一枚のサムネイルも書かれなかったといいます。
工場で、シローイッツ氏は写真をとり、ロン・ローゼンフェルド氏はノートをとりました。
彼らは、特ダネをさがしている記者のように、あらゆることに興味を示し、しかも数多くの質問を発して取材をつづけました。
カルバートは、よりマイルドで、しかもアルコール度数はそのまま---という新しいウイスキーとして登場しようとしていたのです。
2人はついに、この製品から「ソフト・ウイスキー」というコンセプトをひき出したのです。
そして、消費者の広告不信感を克服するために、「広告らしい広告」を作らないように細心の注意を払ったといいます。「私たちは、それが、製品アイデアではなく広告アイデアと見られることを避けたかったのです」とロンは言っています。
このキャンペーンは成功しました。
それでも、ロンは、謙虚にこう、クライアントを賞賛しています。
「この工場は、 《ソフト・ウイスキー》というアイデアを採用してくれ、実際にいっそうそうなるように努力してくれたのです。
それからあの人たちは、前代未聞のことをやってくれました。
驚くべき犠牲をはらって、旧製品であるカルバート・リザーブ・ウイスキーのぴんを、棚から全部回収してくれ、新しいキャンペーンにマッチした販売努力をやってくれたのです」
コピーライターにとって、クライアントの信頼は100万の味方を得たようなものであり、売上げが伸びたというニュースは勝利の美酒であり、そして賞をとることは強い自信となります。
カルバートのキャンペーンは、ニューヨーク広告ライターズ協会から、1964年「銀の鍵」賞を贈られました。
(『繁栄を確約する広告代理店DDB』1966.10.1 より転載)