(155)レン・シローイッツ氏『名誉の殿堂』入り(下)
1985年、シローイッツ氏は、ニューヨーク・アートディレクターズ・クラプ(N.Y.ADC)から「名誉の殿堂」入りの指名を受けた。DDB育ちのアート・ディレクターではボブ・ゲイジ(1972---この年創設)、ジョージ・ロイス(1978)、ヘルムート・クローン(1979)、ビル・トウビン(1981)らにつづいて5人目であった。
その時、『64th N.Y.ADC年鑑』がシローイッツ氏にあてた4ページを採録し、頌辞の大意を2回にわけて伝えたい。
【承前】
シローイッツは、チャンネル13、CBS ネットワーク・テレビ、グレイ広告代理店、そしてL.W.フレーリッヒ(医薬品専門の広告代理店)でアート・ディレクティングの経験を積んだのち、DDBに来た。
DDBで11年間働きながら、自分自身の広告代理店を起こすという考えにはいつも誘惑を感じていたものの、独立への踏み切りは、まったくとっさの決断だった。
彼はたまたま、ヒュバート・グラフ氏に出会った。スイス航空の広告部長の氏は、「どこかいい広告代理店推薦してくれないか」と問うたものだ。
シローイッツが「ぼくのでは?」に答え、結果、約束が成立、DDBからコピーライターのロン・ローゼンフェルドを誘い、オグルビー&メイサー広告代理店のトム・ローソンにも声をかけた。
こうしてスイス航空は、ローゼンフェルド・シローイッツ&ローソン(RSL)社の最初のアカウントとなった。
新しく誕生したばかりのこの広告代理店は、アルブスの少女ハイジと雪のアルプスを使ったそれまでの広告のおきまりのスタイルを壊し、「ハイジは嘘をついたこと」という見出しで、ビキニでヘソ丸出しのブロンドを出してきた。ABC-TVで流したそのコマーシャル・キャンペーンは、ADC(アートディレクターズ・クラブ)賞を得た。
ハイジは嘘をついた。
ほんとうのハイジは、こんなだった---。
成功している元卒業生を特集したプラット・インスティチュート美術校の新入生募集キャンペーンは、ワン・ショーで金賞を受けた。
コー・チェアマン、コー・クリエイティブ・ディレクターとしてシローイッツは、1971年以来(8年間で)、同社の扱い高を1億4000万ドルまであげるのに貢献した。 同社の優良株の得意先も、マクドナルド、チェイス・マンハッタン(銀行)、スミス-コロナ(葉巻)、ビアトレス、チャンピオン・インターナショナル、チャールズ・オブ・リッツなどがある。
1979年に、ローゼンフェルド・シローイッツ&ローソン社は『アド・ウィーク』紙)に「この1年、最もホットだった中型広告代理店」と書かれた。
知的で人間味にあふれているシローイッツの仕事には、説得力がある。印刷された広告は大胆で、ダイレクトで時にユーモラスで、時にとてつもなく素晴らしく、いつも周到である。傑出している特徴の一つは、最大の衝撃をくりだしために、コピーとアートがどれだけ互いに補完しあっているように見える。事実、シローイッツはアートディレクターとしてもコピーライターとしてもしばしばアイデアを出す。シローイッツの簡潔な見出しスタイルの印刷広告の仕事は無視できないほどニュースバリューのあるメッセージを示す。 同様にシローイッツのTV-CMは清潔で、衝撃力が強い。
シローイッツの受賞歴は赫赫たるもので、ニューヨークADC、コミュニケーション・アーツ、広告協会ニョーヨーク支部、米国グラフィック・アーツ協会、サタディ・レビュー・オブ・ライタレイチャー、カンヌCMフェスティバル、米国CMフェスティバルなどから100個以上の賞を得ている。
モービル、フォルクスワーゲン、ローラ・スカダのコマーシャルは、クレオの名誉の殿堂永久収納された。
ごく最近、母校であるプラット・インスティチュート美術校(1953年卒業)からファイン・アーツ名誉博士号を与えられた。
シローイッツは、本質的にはアートディレクターであり、アイデアマンであり、情熱の持ち主といえる。