創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(460)[陽気な緑の巨人]の創造(1)


広告革命][クリエイティブ革命][黄金の10年]---といわれ、19,20世紀を通じて米国の広告世界がもっとも輝いていた時期、その光輪の周辺にいて、冷静に皮肉っぽく観察していた男がいた。名はジェリー・デラ・フェミナ(写真下)。コピーライターとして筆が立った。その著『広告界の殺し屋たち (西尾忠久・栗原純子共訳 誠文堂新光社 1971.4.30は、ニューヨークでベスト・セラーになった。
その第7章の転載です。5日間ほどつづきます。


          


新しいクリエイティブな代理店は失敗をしないかというと、そうでもない。
失敗することだってある。
元も子もなくしてしまうほどマズってしまうこともある。
クリエイティブか、そうでないかによって。


数年前、2人の男が新しい代理店を設立した。
ウィリアム・エスティ代理店をつくるつもりであった。ウィリアム・エスティは今をときめく代理店である。年間の扱い高が1億4000万ドルという大変な代理店だ。
そしてウィリアム・エスティは、聡明なコンセプトを持っている。
たくさんの広告主を扱うのではなく、限られた数の大きくて優れた広告主だけを扱う主義である。
エスティにはサン・オイル、コルゲート、ナショナルー・ビスケット、アメリカン・ホーム・プロダクツ、バンツ・ウェッソンのほかには2、3の広告主かおるだけだ。
つまり10〜15の広告主しか扱わないことにしているのだが、それも優秀なものばかり。
広告主に割り当てられた従業員の数はこの街でも最低だろう。
扱い高100万ドルあたり8入というのが普通だが、エステイは6人でやっている。
効率的な経営をやっている代理店で、しかも完璧に扱い、失うということを知らない。
エステイではお金しかつくらない。
会社の評判なんかも一切気にしない。
気を入れているのは、札束の勘定だけである。


彼らはその広告主を固守している。
人数が少なければ、それだけ広告主に注意を払わなければならないからだ。
計算してみるがいい。社長は毎日10〜11社の各広告主の状態を知るために毎日10〜11社を訪問する。


2週間に一度の割で広告主の会長たちと昼食を共にするエステイは顧客に注意を払い、顧客が満足しているかどうか確かめる。
ほんとなのだ。


それはともかく、数年前に代理店をつくった2人に話をもどそう。


仮にマニーとモウと呼ぶことにする。


マニー&モウ(注・PKLのこと?)は扱い高ゼロから出発したが、すぐにホットになった。


1年目の終わりには扱い高600万ドルに達し、2年目は若干伸びた程度だったが、3年目に入ると、まったくホットになった。
扱い高が2000万ドルに達したのだ。
4年目はたしか4000万ドルにまでふえたと思う。
4000万ドルにまで伸びたが、その後、死んでしまったのだ。
完全な死である。


私はこれまでにこれほど大きなビジネスを失ったものは見たことがない。
『タイムズ』の広告界消息欄には連日マニー&モウから去っていく広告主の記事が出ていた。


マニー&モウがエステイのような代理店をつくる時に、彼らは決心していた。
「オレたちも優秀な広告主だけを扱って金をつくることにしようぜ」
ところが彼らは一つ忘れていたのだ。
顧客は入ってきて、そして出ていってしまうということを。


その代理店に飽きた広告主と長期間の関係を維持することはたいへんになってくる。
マニー(注・PKLのパパートのこと? 彼は銃砲キャンペーンやボブ・ケネデイのキャンペーンに力を入れた)は、世の中を救うような気持でいた。
商売がうまくいってれば、それも良いだろう。

PKLがかかわったボブ・ケネディ州知事


ボブ・ケネディにニューヨークのために働いてもらおう


モウ(注・PKLのケーニグのこと? 彼の競馬好きは有名)は競馬でもうけてやろうと決心した。
これは世を救うよりもずっと大変だ。


マニーは銃砲所持制限キャンペーンと政治キャンペーンに熱をあげていた。
それはいい。
だが注意をしてかからねばだめだ。
マジソソ街にもピストルを持って、あなたをやっつけようとやっきになって走りまわっている男がいるのだから。


コピーで厄介な問題をかかえて、マニーを待っている広告主がいたとする。
広告の扱いをまかせた時、マニーが自ら担当すると約束した。
マニーはどこへ行った? 
今マニーはジャツクソンーホールの給士頭選に立候補している男の選挙キャンペーンをつくるため、ワイオミングのジャクソソ・ホールヘ出かけている。
マニーはこの男には政治的将来性があると考え、重要な場へ彼を送りこもうとしているのだ。
すばらしいことだ。
だがあなたが広告主でなかったらの話だ。


マニーに会いたかったら、ワイオミングヘどうやったら行けるかを考えなければならないとしたら……。

モウはどこへ行った? 
新しい競馬レース形式の研究にまで手を出した。
モウは前に双眼鏡をぶらさげて会議に現われる唯一の代理店社長だったろう。
次第に競馬場につめっきりになり、自分の代理店でどんなことが起きているか知らないほどであった。
媒体係が「予算をどう使いましょうか?」と聞くと、モウは言ったもんだ。
「何ファーロング(注・一ファーロングは8分の1マイル)だって?」


経営なんてまったく存在しなかった。
社長代行を雇ってはいたが、その男は留守番以外の何者でもなかった。


マニーぱ広告を通じて世を救おうとしていた。
そしてモウは競馬場で連日文無しになっていた。


広告主は客間で何時間も待たされたものだ。
クリェイティブーマンたちが彼らを部屋に招き入れ、待つ間コーヒーを入れたりした。
広告主だって人間である。
ついにマニーとモウに言うにいたった。
「いい加減にしろ。お前のとこの広告はもう何の役にも立ちゃしない。こんな虐待に耐えられるか!」 
この代理店は、1、2年前に店をたたんでしまった(注・PKLは首脳陣を入れかえて再出発した)。


>>[陽気な緑の巨人]の創造(2)に、つづく


既出章---訳者あとがき(↓第2章1.をクリック
第2章 「スピーディーアルカセルツァー」の死 (.)

第6章 クリエイティブ生活 (.)