(639)[ニューヨーカー・アーカイブ]を基にエイビス・シリーズ(番外2)
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『アート派広告代理店−−その誕生と成功ーー』(1968.10.15 ブレーン別冊 誠文新光社)の第1章ともいうべき位置にカール・アリー社を置いたのは、エイビス対ハーツのレンタカー広告合戦のまっただなかで、ハーツの広告を引きうけたのがカール・アリー社だったからです。
ここ数年来
マジソン街は
カール・アリ一社に注目している
1966年の11月にニューヨークを訪ねたとき、多くの広告人から、
「ハーツの新しい広告をどう思う?」
「カール・アリー(Carl Ally) が始めたキャンペーンを見た?」
と聞かれ、正直のところ返事に窮しました。
マジソン街人士が騒いでいるほど、ぼくはハーツ・レンタカーの、
『ここ数年来、エイビスはハーツがNo.1だと言い続けてきました。
いまこそ、その理由をお話しましょう』
という広告を、高く評価してはいなかったのです。
もちろん、それもエイビスの広告、
『エイビスは業界でNo.2のレンタカーです。
だから一所懸命やります』
に比べて---のことなのですが。
「少なくとも、No.1のやる広告じゃないな」と答えた私に返ってきた、2つの返事をご紹介しましょう。
一つは、DDB(Doyle Dane Barnbach)の副社長でコピー・スーパバイザー、パーカー(Lore Parker)夫人の言葉で、
「でもねえ、新進の広告代理店というものは、自分たちのための広告をしなきゃならないものなのよ。わかってやらなきゃ」
というのでした。
カール・アリー会長自身も、
「私たちのような代理店を見いだしてくれる最後のグループが、クライアントであるのは残念なことです。
最初は、ほかの代理店のクリエイティブな人たち。
そしてその次が、消費者。
クライアントは最後です」
と告白しています。
もう一つはカール・アリー代理店のハーツ担当のAEの言葉。
「ハーツとエイビスの利益の差がどれくらいまで縮まっていると思う? 5倍だって? いつの話? 冗談じゃない。
いまは、2倍もないんだぜ」
確かに、DDBが創造したエイビスのためのNo.2キャンぺーンに対抗するハーツのための広告をつくることは、至難の業です。
「もし自分がその立場になったら---」と、多くの広告人の悩みのタネであった----と『ニューズウイーク』誌が報じています。
それをカール・アリーがやったのですから、拍手喝采を得ました。
レンタカー業界では、エイビスはNo.2の弱い立場を公言して同情をひきましたが、広告面ではハーツのほうが弱く、広告業界からは同情をひきやすい雰囲気になってもいたのです。
しかし、それはあくまでも内輪の話です。一般の消費者にはなんの関係もないことです。
たまたまぽくがニューヨークに着いたすこし前の(1966)10月26日からハーツのキャンペーンが始まったので、この騒ぎに巻きまれてしまいましたが、じつはぼくがカール・アリー社に注目したのは、1962年7月6日号の『プリンターズ・インク』誌で、[活気とボルボのアリー代理店]と題するコラムを読んで以来なのです。
「多くの広告人たちが夏期休暇をとり始めるこのごろ、活動的な38歳のべテラン広告人カール・J・アリー氏は、氏にとっては初めての彼自身の看板を掲げるのに忙しいことだろう。
カール・アリ一社は、ニューヨーク五番衝630番地に最初の、そして当分の間は唯一のアカウントであるボルボ自動車をもって出発する。
ボルボの広告予算は約100万ドル、かなりの額である----」
なぜ、カール・アリー社に注目したかといいますと、アリー氏はそれまで、PKL(Papert Koenig Lois)代理店でアカウント・マネジャーをしており、プジョーやプロパー椅子などを担当していた人だからです。
そしてプジョーの広告部長であったマール(Jim La Marre)氏がボルボの広告・マーケティング部長に移り、「アリー氏のプレゼンテイションをほかのと一緒に見ることに同意した」という記事を読んでいたからです。
そこには、新しい広告代理店が誕生するときのなんとも形容しがたい悲愴なドラマを感じました。
ボルボが頼んできたから
3人で
代理店を始めた
ぼくは、三番街711ビルにカール・アリー会長を訪ね、4日後には日本へ行く....という氏に、まず、こう尋ねました。
chuukyuu「PKLを辞めて、ボルボのための代理店をつくろうと決心なさったときのことを話してください」
アリー氏 「ボルボが私に頼んできたのです。『私たちのアカウントを君に頼みたいから、代理店を始めないか』って....。
で『オーライ』って引受けたわけです」
chuukyuu「ボルボが代理店をさがしているというので、それで引きうけたのではないのですか?」
アリー氏「いいえ、私の評判を聞いて、彼らが私のことを知ったのです。それで頼まれたのです。私は立候補しませんでした。いままで、こちらから頼んで出たことはありませんでした。みんなむこうからきたのです」
chuukyuu「DDBやPKLと同じですね」
アリー氏「そうさ。よい仕事をすれば、むこうからやってきますよ。悪い仕事をすれば、こちらから行かねばなりません」
そういえば、ハーツも、この代理店がつくったサラダ紅茶のコマーシャルに感心してここを指名したと聞いています。
その後調べたところでは、カール・アリ一社創業の事情はこういうことでした。
まず、ボルボがPKLに関心を示したけれど、幾つかの競合という条件がついていたため、アリー氏は別の代理店をすすめたのです。
ところが、ボルボは再びもどってきて、
「どうだ、チャーリー。やってみないか」
と言いました。
アリー氏が、
「競合だって言ったじゃないか」
と問い返すと、
「君だよ。カール・アリーにやってもらいたいんだよ」と答えました。
そこでアリー氏は、旧友のダーフィー(James M. Durfee・・・現社長)氏とガルガーノ(Amil Gargano)氏を呼び出し、
「どう思う? 私はいまだと思うけど・・・」
と相談しました
そしてアリー氏は、給料を3分の2に減らしても独立することにしたのです。
chuukyuu「独立するにあたって、奥さんに相談されましたか?」
アリー氏 「ええ, 『いつまでも使われているのはいやだ』って言いました。そして『うまくいくと思う』って・・・そしたら彼女は『いいわ』と承知してくれましたよ(笑)」
chuukyuu「奥さんが『いやよ』と答えていたら・・・?」
アリー氏「『いいわ』って言う女房に替えたな(笑)」
冗談でこんな質問をしたのではないのです。アメリカの広告人が広告代理店を始めるときの心構えを確かめてみたかったのです。
chuukyuu「アリーさん。経歴を話してください」
アリー氏 「第2次世界大戦では飛行士としてヨ-ロッパ、北アフリカなどを転戦しました。戦後、ミシガン大学を卒業し、ゼネラル・エレクトリックの広告部にはいりました。それから予備役将校だったので、朝鮮戦争へかり出されました。
除隊後、マスターをとるために大学へもどり、1年後に、デトロイトのキャンベル・イワルド(Campbell Ewald)代理店の社長アシスタントとして新規クライアント開拓に従事しました。のち、ニューヨーク支社に移され、スイス航空とユナイテッド・エアクラフト社をスーパバイズし、1960年にPKLに移ってゼロックス、プジョー、ヘラルド・トリビューンなどのマネジメント・スーパバイザーとして働きました。それから、ここです」
アリー氏が話さなかった部分をすこし補うと、氏は1924年3月31日にミシガン州の小さな田舎町セント・クレア・ショアで大工道具づくりの子として生まれました。トルコ系アメリカ人です。ある時期までトルコ風にAliと綴っていたのはそのためです。
(ぼくの推測ですが、たぷん、ユダヤ系トルコ移民の出でしょう。というのはユダヤ系広告人協会員ですから・・・)
ミシガン大学を卒業するまでは「広告については何も知らなかった」が、GEに広告と教育計画の一員として月270ドルの契約で入社しました 「最近の若者は、広告をののしり自分は広告以外のもっとよい仕事をするために生まれてきたのだとロにするのが当世風だと思っているようですが・・・、私は、広告をやるために生まれついたと信じています」というわけで、その後、ずっと広告畑で働くことになりました。
chuukyuu「いまニューヨークで『ホットな代理店』と言われているところの多くは、クリエイティブ出身の人がボスになっていますね。あなたはアカウントの出身・・・」
アリー氏 「いいえ、半分半分です。私は、広告人としての経歴のうち半分はコピーライターとして働いたのです。半分はアカウントマンとして過ごしました。いまやっているのは、簿記係です(笑)」(以下、今回は略)
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【参照】2008.11,05[ボルボの広告](13)(14)(20)(24)
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