創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(424)ジュリアン・ケーニグ氏[名誉の殿堂]入り(了)


【用法】薬効は「他言無用」---とあったら、親友には「ここだけの話」とささやけ、ということ。薬効「絶大」---とあったら、効き目は薄いということ。(パーキンソンの偽法則)


米国の広告人をインタヴューしたときのぼくは、あるときはコピーライターとして質問し、また、あるときはアートディレクターの仮面をかぶり、そして、ときには経営者のふりをしました。なにしろ、日本の広告取引きの現実は、米国から見て、どこか違う---という時期でしたから。そうか、そのことはいまもたいして変化してないか。




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ジュリアン・ケーニグ氏[名誉の殿堂]入り(了)
創造性、野球、競馬がケーニグを[名誉の殿堂]へ駆け込ます(抄訳 了)


『アド・エイジ』誌 1966.4.18号


ケーニグ氏はニューヨーク生まれ。今でも市内の上方のイースト・サイドに住んでいる。
家系は弁護士や検事などの法曹一家で、ケーニグ自身も1941年にダートマスを卒業し、コロンビア大学の大学院ロー・スクールから法曹畑に飛び出るつもりであった。
「驚くことはないですよ」とある友人が言った。「驚くべきは、彼がロー・スクール(法科大学院)へ入ったといういう事実のほうです」
が、不思議なのは、大学時代から野球大好きであったケーニグ氏が、球を打ち返すことでまったく満足していたということであろう。
野球シーズンは終わった。
再びパパートの評言。「われわれは、かの君(くん)を知っているという人によく出くわします。私の義兄ものその一人です。義兄はたまたま、ダートマスでルーム・メイトだったんですよ。このことを、いっしょに仕事をするようになるまで知りませんでした。
別のとき、わが社はあるアカウントを手に入れました。そのとき、クライアントが入ってきて、ケーニグ氏を見て、子どものころ、いっしょにキャンプへ行ったことがあるということがわかりました。誰もが彼を知っています。
あの人は、多くの人を、そして、なんでも知っています。
博学で、人ずれしており、たんさん本を読みます。
それでいて、よく、こう言うんです、『解らない』と」
別の友人の言。「彼は最初の代理店をクビになりました。というのは、コピーライターを組織化しようとしたのです。有効的な方法で組織化したのではなく、クラスが努力して前進するような形に組織したのです」
熱心な読み手、そしてバカ騒ぎが好きなケーニグ氏は、毎日、モーニング・テレグラムを見る時間を持っている。さらに、レース馬を持っている。
「一度、彼がオージアスの牛舎(ギリシャ神話。3,000頭の牛を飼いながら30年間一度も掃除をしなかった)と呼んだ。しかし、牛が抵抗した」らしい。
ケーニグ氏の競馬キャリアの見せどころは、ナショナル・エアラインのコマーシャルでヒアレー(フロリダ州の都市)でレースを見せるシーンにうまく生かされている。
フレッド・カポセラ(高名な競馬実況アナウンサー)の大きく明瞭な声で「ミッドナイがトップを走ってます---」
ミッドナイトはケーニグ氏の持ち馬で、レースで名前が呼ばれたのはこのときしかない。
ミッドナイトは、ついに先日売られた。
競馬場でも、オフィスでも氏はリサーチを尊重する。
広告においてさえも。
「しかし、彼は、リサーチは昨日の広告を書くのには助けになるが、明日の広告を書くことはできないと信じている」とは、パパート氏の断言。
ケーニグ氏の目の中には、リサーチやマーケティングからのファクトなどは、「ある点まではあなたを連れていくことはできる」ように映る、が、「広告スペースへの創造的な飛跳は、それ以上のなにものかを必要とす----それは、才能のある、クリエイティブな、こわがらない人びとの内的なものである」


ナショナル航空解説


chuukyuu「パパートさん、あなたは、ニューヨーク証券アナリスト協会の会員の人たちに1964年4月30日の会見で『PKLは創業以来、12のアカウントを失いました。私たち、そしてPKLの株主たちもそうであったでしょうが、その中の2社だけについて、ほんとうに残念だったと思っています』とおっしゃっていますが、 この2社というのは、どこなんですか?」


パパート氏「たくさん失ったので忘れました(笑)。が、1社は、ナショナル航空です」


chuukyuu「ナショナル航空は、半年後に、またPKLの扱いになりましたね」


パパート氏「ええ、帰ってきました」


chuukyuu「失った12のアカウントの中には、PKLが創業間もなくのときのクライアントで、まだ小さなアカウントが多かったのでしょう? 現在のPKLのように中型代理店に成長してしまうと、小さなクライアントはかえって邪魔になるばかりではありませんか?」


パパート氏「そうですね。1963年には、PKLには26のアカウントがあり、扱い高は2,100万ドルでした。
今日では、15のアカウントで4,500万ドルです。そして来年には12アカウントで7,500万ドルにしたいと思っています。
アカウントの数が少なければ少ないほど私たちは、よりよい、そしてより適切な仕事ができます」


例の証券アナリスト協会員との会見で、パパート氏はこう断言しています。
「私たちは、現在のクライアントのリストに、新しいクライアントを1社もつけ加えることなしに、 PKLの今後3年間の扱い高を2倍にすることも可能です」


chuukyuu「創業時の小さなクライアントというのは、コスト倒れになることもありましょうね?」


パパート氏「代理店を開いたばかりのころは、私たちも小さなアカウントをもっていました。そして、私たちはそれらを手放したくはありません。それらは、創業時には、私たちに対して、とても義理堅かったですからね。ですから私たちは、今さら彼らに義理を欠きたくありません。
しかし、小さなアカウントでは、たいしたお金にならないことも事実です。
でも、ビジネスには儲けを度外視したセンチメントな面もあるものですからね。
人生には、ある程度のセンチメントは必要ですよ。
コスト倒れになるからといって、創業時の小さなアカウントと手を切るというのは、よっぽど非情なヤツでないかぎりできません」


対話でおわかりのように、ナショナル航空は「PKLはクレージーすぎる」といちどはPKLから去ったのですが、半年後には、また舞いもどってきたのです。
これは、アカウントの移動の激しい米国の広告界でも珍しいケースです。
ところで、競馬狂のケ一二グ社長がナショナル航空のコマーシャルで、愉快ないたずらをしているので紹介しましょう。
かつて氏は、一度も優勝したことのない馬ミッドナイトの持ち主でした。
そして、コマーシャルの中で、このミッドナイト号にトップを走らせたのです。


明日からは、DDBのVWとエイビス・レンタカーのキャンペーンのアートディレクターとして有名なヘルムート・クローン氏が、ニューヨークADCの総会で行った'63年のスピーチ。