創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(438)トミ・アンゲラーとの対話(3)


タツムリに追い抜かれないように
(つづき)-------


凧の創作とそれを揚げることが数ある趣味の一つ------


        ●


トミが3歳の時、父のテオドールが死んだ。


トミの心のなかに、父についてのどのような具体的な印象が残っているのか、彼は私に語らなかった。
彼が語った父は、彼の母が教えこんだ英雄化された父であった。
このような伝承の仕方が、少年の心に与える影響についても私は判断することができない。
とにかくトミは、父の掌の暖み、ひげの濃さ、肩の広さや腕の太さについて、なんの記憶も持っていないようだ。
いまの彼が、彼のひとり娘である5歳(1971年当時)のフイービィに与えているような具体的な印象は---。


トミに連れられてニューヨークのバークサイドの彼のアパートを訪ねた日はちょうど日曜日であった。
金髪のフィービィは、カナダのモントリオールから帰ってきたばかりの父を待っていた。
トミは、彼女を抱き上げ、手を引き、金髪をぐしゃくしゃにするほどなでた。
肌と肌を按することて伝わる感情の交歓である。
私たちは ミッチズ・ジャガー・ハウスというドイツ料理店でおそい昼食を共にした。
料理が運ばれてくるまで、トミはメニューを2つに折って折り目を器用に破り、三角なくちばしをつくって顔にあて、紙を動かしてくちばしを開閉させながら、フィービィに即興の物語を話してやっていた。その時、それが瞬間的なトミの創作であるのか、あるいは記憶の再来によるものか・・・と考えていたが、どっちであろうと、どうだっていいことだ。


私の耳には今でも、トミの物語をききながら、キャッキャッと笑いころげていたフィービィの明るい声が残っている。



フィービィは、父トミの胸をたたき、ひげをひっぼり、もたれかかって甘えていた。
私は、フィービイに残酷な質問をしてみた。
「フィービィ、ダディのこと、好きかい?」
彼女は急に気むづかしい表情にかえり、
「プレゼントをくれる時のダディは好きよ。いっしょに遊んでくれない時のダディは嫌い」
そして彼女は、トミに向い、「ねえ、どうしてダディはいつもフィービィといっしょにいてくれないの?」
彼女の素朴な質問には、トミも困ったようであった。
この時のトミは、モソトリオールで映画をつくる仕事と、世界博の仕事をもっていたので、ほとんどの時間をカナダで過ごしていたのである。


フイービィが成人した時、この日の記憶はまるで残っていないだろう。
けれども彼女は、父トミの掌の暖かみ、痛いひげ、タバコの匂いについては覚えているにちがいない。
トミには、フィービィのような父についての記憶がない。
父が生存中の日曜日、両親は4人の子供たちと幸福な時間を過ごしたという。
それも、9歳上の姉の証言によると、昼間は神父もまじえてかくれんぼをして遊び、裾の長い法衣を着た神父が机の下にかくれる姿を覚えているということだが、同時に夜は子供たちにとって不幸な日曜日であったという。
というのは、夜になると父はバイオリンを、母はピアノを弾いて音楽を楽しむのが習慣であったからだそうだ。


この姉の証言にも、父の生存中と死後の日曜日の記憶の混合を感じるのだが、それもどっちでもいいことだ。


要するにトミには、父についての具体的な印象が残っていないようだ。


     ●


父の死後、一家は母の生家であるロジェラッハに移り住んだ。
ロジェラッハはストラスブールから7Oキロばかり南にあたり、コルマールに近い小さな町である。


母の実家はロジェラッハで綿紡工場の工場長をしていた。
そしてトミは、このロジェラッハの町で12歳ぐらいまでの約10年間を過ごした.
この間に起きたさまざまのことのうち、トミの心に深く影響したであろう2つの事件について書き記
しておこう。


その1. 6歳であったトミの身のまわりの世話は、15〜16歳になっていた姉たちの手によってなされていた。


トミの思い出を語る実姉(生家の客間で 1971)
Tomi's sister talking about fis memory(at his parents' home in 1971)


彼女たちにとって、トミは手ごろな人形のような存在であった。
彼女たちの少女期特有のいたずら心のすべては、トミに向けられた。
彼女たちのうちの1人が、白い糸で大きな襟を編んだ。そしてそれはトミの服に縫いつけられた。
トミはその服を着て登校し、学友たちからさんざんからかわれた。
こんなこともあった。
トミの髪のくせがどうも気にくわないと思った姉たちは女中の提案に基づいて、砂糖水でくせを直すことにした。
一夜明けると、砂糖で固められた彼の髪は針ねずみの針のように逆立ち、水で洗ったぐらいでは元にもどらぬほどになってしまっていた。
トミはそのままの頭で登校した。


少年の心に反抗精神が芽生えないと思うほうがどうかしている。
しかもその反抗精神は、正常に発露し得ない姉たちに対してであったことを思うと、その傷は大きかったろう。
もちろん成人してしまっているトミが、姉たちのこのいたずらに対してとやかく言うはずはない。
けれども、トミ少年は反抗精神を身につけたはずである。


その2.トミが8歳になった時、ドイツとフランスの間に戦争が始まった。それから4年後にドイツが敗れるまでの経緯については、第2次世界大戦史が教えるとおりである。
ストラスブールコルマールが属するアルザス・ローレン地方は早くからナチに占領された。


トミに「少年時代い出は?」と質問したところ、彼は即座に「戦争。嫌な、こわい思い出だ」と答えた。
1870年の普仏戦争によってドイツ領となったアルザス・ローレンは、もともとゲルマン系のアルザス語を使っていたが、この時以来, ドイツ語圏に組みこまれた。
しかし第一次世界大戦後は、またフランス領となり、フランス語教育が行なわれた。
したがってナチがこの地を占領した時、 ドイツ語を話す世代とフランス語を話す世代がいたわけである。
こうした奇妙なアルザスの人びとに対して、ナチがどのように対処したか、残念ながら私は知らない。とにかく、トミにとっては「嫌な、こわい思い出」しかない占領時代であったのである。


当時の彼が描いた絵を、生家で100点近く見せてもらったが、そのほとんどは戦争を主題にしたものであった。
考えてみると、4歳の時のいたずら描きからほとんどそっくりと思えるほどにトミの年少時代の絵が保存されているのは驚嘆すべきことだ。
それらは、ノートの切れ端、ぴんせん、ありとあらゆる紙片の類に描かれたもので、きちんと日付が添えられてあった。


姉の解説によると、どうやらナチの狂暴さをトミに吹き込んだのは彼女たちであったらしい。
彼女たちがどのような言葉でトミに話したのかは知らない。描かれた絵はトミの心をとおして物語化された戦争に変わっていた.
姉はこう言った。「トミは話をきくと、それから想像した別の絵を描きました」
1点1点は、ナチに対する少年らしい反抗を空想化したものが多かった。


少年期のトミの絵(1943) ドイツの自由---「ありがとう、今日は、さよなら」をフランス語で言ったために
Tomi's drawing done in his boyhood(1943) 'Cermanie Liberty---because we said merci,bon jour,au revoir'



少年期のトミの絵(1943)
Tomi's drawing done in his boyhood(1943)

母と姉はそれらを公開することを拒んだ。
国対国の問題になるこを危倶しているらしかった。
私はねばった。
少年時代のトミの画才を提示するためではない。幼年時代に姉たちに向けて芽生えた反抗精神がナチという多分に伝説化された化物に向かって育ったことを例示たかったからである。
トミは反抗することでエネルギーを燃やす人間になっていたのである。
反抗する対象は、その時代々々によって変わっていったとしても、この2つの事件にくらべれは、肉身たちが私に打ちあげてくれた次の2つのエピソードはほとんどとるに足りない種類のものだ。


その1.コルマールの中学に通っていた頃のことである。
トミは12歳になっていた。彼が名付け親に書き送った手紙で判明したことであるが、下校の途中、級友が「強力なのりを持っている、君の頭につけていいか」とトミに話しかけ、トミの「いいよ」との返事でその紋友はたっぷりと塗りつけた。
トミは驚いて、急いで知り合いの家にかけ込み、髪を洗ったが、一房の毛が抜けおちたそうだ。


母親にすれば、トミの人のよさの例にしたかったのだろうが、私にはなぜトミが「いいよ」と答えたのか、いまだもって分からない。


その2. 母アリスが当時たくさん飼っていたニワトリの餌もなくなった---と戦時らしく食糧不足を嘆くと12歳だったトミは、ニワトリの足をひもで連ねて麦畑まで引っぱって行ったそうだ。
当妙のアイデアだし、愉快なエピソードではあるが,
ただそれだけの意味しかないように、私には思える。


しかし、ニワトリのエピソードは、 トミのロから別の意味のことが語られた。
「12歳の時、私は米国軍の飛行機による機銃掃射を受けたよ。米軍機は生きているものならなんでも射ってきたからね。たとえば私のペットのニワトリといっしょに畑に出ていた時など---収穫が終わったあとのコーンの落ち穂をニワトリに食べさせるために畑に連れて行っていたのさ。この時米軍機が急降下してきて機関銃を打ちはじめた。3回も繰り返してさ---」
12歳のトミは、コーン畑で死と直面したのである。
彼には理解できないことであったに違いない。ナチによって、ヒットラー・ユーゲント訓練を強制されて反発していたその彼を、友朋米軍機が射つのだから---。もちろん当時はこのような事件はフランス内のいたるところで起きただろう。
リヨンの友人も同じような恐怖を私に語ってくれたから----。
大人なら理解できたであろうこのような事件もトミ少年の心には理不尽なこととして焼きつき、戦争への不信として残ったようだ。


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