創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(435)戻ってきた、19人


ちょっと、趣向を変えてみます。今日のトップに紹介することになったミズ・モーズリーの肩書きはアートディレクター&アーチストとなっていますね。
米国で「アーチスト」とふられたら、画家、イラストレイター、マンガ家などをさすことが多いのです。で、彼女の場合は、日本文のあとにつけたしたイラスト。広告代理店で働く人たちの姿をアイロニカルに描いています。『DDB NEWS』1973年1月号から1,2点を拝借(ひょっとしたら、36年後のいまごろは、巨匠になっているかも)。



戻ってきた、19人 (下)


ケース・モーズリー写真) アートディレクター&アーチスト。ニューヨークへやってくる前の4年半、DDB(ロス)に。ニューヨークでは大広告代理店に1ヶ月いて、すぐにDDB(本社)へ。


コピーライターのハンク・ボルカー写真)は、DDBに9ヶ月在籍しただけで、1968年にコンプトン広告代理店へ移った。3年間そこにいて、1972年6月にDDBへ逆戻り。「なぜ? って、これまで働いてきたなかで、最良の働きばしょだからですよ」


テレビ・プロデューサーのナンシー・キャンベル DDBに2年半いて英国へ。この4月にDDB(ニューヨーク)へ。


アート・スーパバイザーのチャーリー・ジェナレリ写真)彼は、オグルビー&メイサー広告代理店のアートディレクター・グループ・ヘッド4年半と、ノーマン・クレイグ&クンメル広告代理店のアソシエイト・ クリエイティブ・ディレクターを経て再帰。復帰の弁、「そりゃあ、どの代理店にだって、その社なりの基本(フィロソフィ)はありますよ。でも。ても、ぼくの広告制作の理念はDDB流なんです」


ほかの広告代理店りの社誌では、出ていった人のほとんどは「ノー・リターン」だろうから、こんな特集記事は、とてもじゃないが組めないでしょうね。




chtuukyuu補】上記にあるとおり、ミズ・モーズリーは笈(おい)を背負ってニューヨークへやってきた。前職場と才能が幸いし、DDB本社に席を得ることができた。この冒険を、彼女は「もし、このとき決行しなかったら、老年になってから、毎日、後悔の涙にくれていただろう」と。DDB本社の印象を聞かれて「とても刺激的。ヘルムート・クローンさんにほんとうの人間的な生き方を見ました」



コピーライター「コーヒーにいい日」「今日こそコーヒーにふさわしい」「コーヒーの日は今日---今日のコーヒー」
「む---コーヒー・デイ、コーヒー・デイがいま再来---」

「あのなー、コピーライター見習いが、まず、最初に覚えなきゃならんのは、アカウント・マンをいいくるめる術よ。コピーの上手・下手じゃねえんだよな、そこんとこ、間違えねえように---奴らは、俺たちのせっかくのアイデアをいとも簡単に蹴っとばしては俺たちを滅入らすのよ---」(以下、いろいろ)


明日からはトミ・アンゲラーとの対話