創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(432)戻ってきて、本当によかった

ほくが最初に語り会ったニューヨーク本社のDDBerは、なんども書いたように、1967年の秋、最初の渡米でのロール・パーカー夫人であった。彼女は、ご主人のジョージ(ベル電話会社プロセッシング部長)と、最初の日本旅行を意図していたから、バーンバックさんが、そういう手ハズをしてくれたのであろう。
当時、副社長でコピースーパバイザーだった彼女は、DDBの出戻り者第1号であることを、あっけらかんとした口調で---いや、誇らしげに、「わたしが馬鹿だったのよ」といいながら告げてくれた。
以来ぼくは、DDBerの出戻り者に関心をもった---というより、「DDBのこの環境を捨てて、他所に行くのは、なぜか?」を知りたいとおもった。
きょうのコンテンツには、そのことは追求されていない。が、パーカー夫人の言葉から推察すると、ほとんどがお金の問題であったようにおもわれる。。
DDBブランドを着ているクリエイターを欲しがる広告代理店は、それこそ、雑木林のように多い。
この章は、拙訳編『DDBドキュメント』(ブレーン・ブックス 1960.11.10)に収録したものである。つづいてもう1,2回、試みたい。


戻ってきて、本当によかった。



……以前働いていたところ…… 甘い感傷で思い出すところもあれば、そうでないところもある。
だが、たとえ、甘い感傷で思い出すところでも、必ずしももう一度そこで働きたいと思えるような場所でないことが多いものだ。
DDBは違う。ここでは以前働いていて、また戻ってきて働いている人は、どんどんふえている。そういう人たちの話からすると、戻ってくるのに、すばらしい場所なのである。

 
家へ戻るような気持でうれしかった


チャック・ドレマス写真)は、1966年5月年にDDBのフィルム・ライブラリーで最初の仕事を始めた。
1969年4月にアソシェート・プロデューサーの肩書でDDBをやめ、テレ・テープ・プロダクションで、プロデューサーとなった。 
「あそこでは、とてもたくさんのことを学びました」とチャックはいう。「でも去年の夏、DDBのテレビ部門が再構成されて、私にプロデューサーとして戻ってきてくれといわれた時は、うれしかったです。家に戻るような気持でした」


DDB史で最初の再帰者となったのは、たぶんロール・パーカー写真)だろう。
ローリーは1953年に駆け出しコピーライターとしてDDBに席を得た。1956年にDDBをやめ、ほかの代理店へ移った。


【chuukyuu注】パーカー夫人の来日しての電通でのスピーチ[DDBのクリエイティビティの秘密]を参照 ([) ←数字をクリック


まもなくその代理店は、彼女ががまんならないような代理店と合併してしまった。そこで彼女は別の代理店へ移った。
だがそこも、がまんできないような代理店と合併してしまった(1950年代後半期には、代理店の合併は、今日新しい代理店が誕生するのと同じくらい日常茶飯事だったのである)。
ロールは1959年にDDBに戻ってきた。そして現在(1970)は副社長兼コピー・スーパバイザーである。


アートディレクターのチャーリー・ピッキリーロ(写真)は、1963年から1969年の6年間DDBを離れて、PKLでエグゼクティブ・アートディレクターをしていた。


しかし再帰者の多くは1年以内に戻ってきている。


ジョン・アナリーノはDDBニューヨーク本社を1968年にやめて、サンフランシスコのマッキャン・エリクソンでクリエイティブ・ディレクターとなったが、1年後にDDBロサンゼルスヘ戻ってきた。


DDBロサンゼルスには、ジョン・ウィザーズがいる。彼は1968年3月にDDBニューヨーク本社をやめ、ジャック・ティンカー&パートナーズにはいった。
だが12月にはジャック・ティンカーをやめ、ロサンゼルス支社のクリエイティブ・ディレクターとなった。


1969年初めに戻ってきたスティーブ・ピアソンはこういっている。
「DDBをやめた時は秘書でしたが、コピーの経験を十分積んでライターとしてDDBへ戻ってきました。長い長い一年間でしたわ」


「タイプを打ったらどうだ」といわれたので……


ラリー・レブンソン写真)はDDBで2年間コピーライターをしていたが、1968年4月にやめて、ある小さな代理店へ行った。そこで彼は指導権をにぎらせてもらえるはずであった。
「とはいっても、実際の指導的活動なんてあそこにはありはしなかったのです」と彼は感慨をこめて語っている。
「役員の一人がオフィスのドアの前に立って『タイプを打ったらどうだ』というような場所でしかなかったのです。4ヵ月間そこにいましたが、人事課ではご丁寧に休暇扱いにしてくれました。あれは、はかない錯誤じゃないでしょうかね」


別の代理店で奇妙な経験をしたコピーライターはほかにもいる。
ディアナ・コーエン写真)は、1967年の初夏にDDBをやめ、代理店のエキスペリメンタル(実験的)クリエイティブ部門に加わったが、9ヵ月でDDBに戻ってきてしまったのだ。どうしてだろうか?
「それは、私たちの唯一の仕事は、クライアントを呼び入れ、黒い靴を買わせるための、ウィンドーに飾ったみどりの靴になることだったのです」とディーナはいう。「私たちはクライアントに『アア』とか『オオ』といわせるためのキャンペーンをつくりました。でもそれは、クライアントが『アア』とか『オオ』といった時、その代理店の制作者たちをレギュラー・クリエイティブ部門の平凡なキャンペーンへ引き戻すためのものだったのです。
その時です。バーンバックさんがいつもいっていた『よい広告をつくるにはよいクライアントが必要だ』という意味が本当にわかったのは。ほかの代理店で経験してみるまではクライアントをほめるためにいっているのだと思っていました。でも今は、チャンスをつかむのを恐れているクライアントは、きっとつまらない広告でしめくくりをつける、ということがわかってきました」


1年以上DDBを離れていた人びともいる。コピーライターのジョン・クロフォードは、たったの16ヵ月間DDBにいたあと、1967年5月にやめて新しい代理店設立に参加した。2年後に戻ってきた。


ここに書ききれないほど、再帰者はもっといることだろう。
だが、最もよく知られている復帰は、ジョージ・ライクであろう。
「私が戻ってきたのは」と彼はいう。「ほかの人たちがそう要求しただけのことなのです。ベントンとか、ボウルズとか、メリーとかいった人びと(そういう人びとがいればのことですが)は、いつも私にこういい続けましたよ。『トム、なぜDDBへ戻らないんだい?』『そんなに簡単には行かれないよ』と、私は答えたね。『そうだろうね』と彼ら。そして彼らは、靴磨きのフランクを呼んで、コトを運んだというわけさ。私は結局、最後には勝ったわげだ。ベントンは、結局百姓となって終わったし、ボウルズは、インドヘやられたし、もう一人はどうなったか知らないけどね。                                    (DDBニュース1970年4月号)


>>戻ってきた、サンタクロース