創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(434)戻ってきた、19人

先日、大代理店のクリエイティブ部門の上層の方と話していて、いまの20代から30代のクリエイターでDDBを知らないのがほとんどだと聞かされ、オッタマゲるとともに、さもありなんとも思いました。
もちろん、知らなくても広告はつくれます。その人のハードルが低いだけのことです。国際的な水準にまで達しようなんて、考えの外なんでしょう。また、売ることを脇に置いた、言葉あそび、デザイン優先、振り付けのみ---に陥っていても「わがこと、良し」で終わるのかもしれません。

そういえば、DDBが最も輝いていた1960〜70年---[黄金の10年間]---広告の王道の時代を知らないクリエイターは、[クリエイティブ革命]の本質と効果を学んでいないアマチュアに近い人たちとみるのは過激すぎかな。

世界のクリエイターたちは---[黄金の10年間]---をしっかり、ふたたび、勉強しはじめています(当ブログが英文を付している理由の一つもそのため)。ぼくがおセッカイを焼くことはないのですが。

別に論語を借りるまでのこともないけれど---「子曰。攻乎異端。斯害也巳。(子曰く、異端を攻(おさ)むるものは、斯(こ)れ害なるのみ) 宮崎市定訳「子曰く、新しい流行の真似をするのは、害になるばかりだ」(岩波現代文庫現代語訳 論語』)

DDBに親しむ早道は、バーンバックさんをはじめ、ここ数日間に掲示したバーンバック学級卒業生(主要クリエイター)たちの顔写真に親しみ、おぼえることかも。感情移入は勉強のコツです。


戻ってきた、19人


どこへ行ってたの? 訊かれるたびに、ポール・ゾーエリナー写真)は、微笑みながら答えている。「ただ、西海岸でロング・シュートをきめてただけさ」
しかしその間、ポールが、別の広告代理店で、5ヶ月間もアソシエイト・クリエイティブ・ディレクターをやってたなんておもえないのは、「マジソン街時間」のせいかもしれない。
「実をいうとね、DDBで12月に仕上げてから出ていったバンカーズ・トラストとエイヴィアンカビフォーの広告原稿にイニシャルを入れるためにDDBに引き返してきたみたいなものさ」と、予想どおりにつづけた。
「なんたって、クリエイティブな雰囲気がね。ここよりほかにはないから」 そうおもうと、矢も楯もたまらず、2社からの誘いもふりきって、戻ってきたという。
「戻ってこられて、ハッピー」
ハッピーだったと言っている一方で、DDBの外のマジソン街のクリエイティブ畑の人たちは、あの華麗に装った外形の下では持てる力を100パーセント発揮しかねる環境にあると、ポールが思っているということでもある。

そこで、ポールは付け加えた。「DDBへ戻ってきたほかの18人にも訊いてみたら---?」そこで18人(うち7人は、1970年『DDB NEWS』に登場ずみ---chuukyuua注 一昨日のブログ)にも確かめてみた。


ロール・パーカー 1959年に戻ってくる前に、2つの広告代理店を遍歴した帰国子女第1号。副社長,コピー・グループ・スーパバイザー(DDBへは1953年に入社)。


チャーリー・ピッキリロ 1963年から1969年のあいだ、パパート・ケーニグ・ロイス代理店で先任アートデイレクター。現在はDDBで副社長,クリエイティブ・マネジメント・スーパパイザー。


ラリー・レブンソン 1968年に小さな広告代理店に行ったものの、4ヶ月でDDBへ復帰。副社長,クリエイティブ・マネジメント・スーパバイザー。



ジョン・アナリノ写真) マッキャン・エリクソン(サンフランシスコ)のクリエイティブ・ディレクターの地位につくためにDDB(本社)を1968年に去り、1年後にSDDB(ロス)のコピー・チーフ。


コピーライターのディアナ・コーエン 9ヶ月(1967年初め)、大広告代理店の実験的なクリエイティブ部門で過ごした。


コピーライターのティービー・ピアソンは、DDBで秘書をしながらコピーの勉強をし、BBDOでコピーライターに。1969年にコピーライターとして戻った。


コピーライタージョージ・ライク ベントン&ボウルズとウェルズ・リッチ・グリーンの数年後で費すごした。


トム・ガーベット アカウント・マン(AE)として1961年に入社。翌年退社、1963年にDDBにAEで復帰。現在は副社長, マネジメント・スパバイザー。


以下、この数年間に再帰したそのほかの人たち----

アラン・ビュイテカント写真) 副社長、クリエイティブ・マネジメント・スーパバイザー。DDB設立5年目の1954年にブルペン(アシスタントの溜り部屋)から始めた。アート・スーパバイザーに昇格していた1967年、小さな広告代理店の共同設立者となるために退社し、3年後の1970年に復帰。その時彼が言った言葉---「よい仕事はSDDBWDT報いられない」


エド・ブラウン 社長 DDB(カナダ)。 1969年1月にDDB(ニューヨーク)を出てF.ウィリアム・フリー広告代理店の先任副社長、アカウント・マネジャー職へ、そしてその年末にはDDB(メキシコ)の社長として復帰。のち、トロントの現職に。


ラッセル・ハンド DDB(ロス)副社長、マネジメント・スーパバイザー。 1958年以来DDBに。うち60年代の後半の2年間ほどロスの別の広告代理店の共同オーナーとして転出。


ハワード・ジョルダーノ 選任AE。1960年にDDB入社、'60年代の中ごろ3つの代理店を渡りあるき、フランチャイズ運営を試みたが実現しなかった。1970年に再帰。その時の発言「このビジネスで実をあげられる場所は、DDBおいてはない」


ヴェルナー・ブッター DDB(デュッセルドルフ)のコー・クリエイティブ・ディレクター。1964年にDDBへ入る前はジャーナリスト。数年後にドイツ最大の広告代理店の一部門であるスペシャル・チームの共有者になって去るまではコピー・チーフ。当『DDBニュース』が再帰の理由に関連して、DDBの雰囲気がニューヨークのほかの代理店とは異なっているように、ドイツのDDBも特別の雰囲気なのかと訊いたところ、「そのとおりだから---」との返事であった。


ヘルムート・クローン写真)先任副社長、クリエイティブ・マネジメント・スーパバイザー。DDB創立5年目の1954年入社。1969年にケイス・クローン社を創立のために退社したが、1972年に再帰。「ぼくが仕事をする相手は、バーンバックと自分自身しかいないとわかったのです。やはり、ベストの相手はバーンバックしかいないと、そのもとへ帰ることにしたんです」

【参照】ジーン・ケイスとのインタヴュー ←クリック



明日につづく。よろしく。