創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(314) ボルボの広告(7)


1967年10月、「ボルボ」という車を取材するためにスウェーデンのイェーテボイ市にあるボルボ本社を訪ねました。その時、広告部長のラグナール・スベンソン氏から、米国ボルボ杜の広告代理店がカール・アリー社からスカリ・マケイブ・スローブス社へ変わったことを聞かされました。


スベンソン部長は「私たちは、常に新しいアイデアを欲しているのです」とだけしか説明してくれませんでしたが、スカリ氏の名を耳にした瞬間、「アア、ヤッタカ!」と思ったものでした。


その理由はあとで説明するとして、エドワード・マケイブ(Edward McCabe)氏の存在を意識したのは、この時からだったといえます。


それから1年後、ニューヨークを訪ねた時、マケイブ氏とのインタヴューを思い立ちました。その成果は、拙編著『劇的なコピライター』(誠文堂新光社 ブレーンシリーズ 1971.3.10)に、10人のコピーライターとともに入れました。


話題が、あちこち、前後しますが、米国におけるボルボの広告は、それほど時の話題だったということで、一筋縄では語りつくせなかったのです。ま、日記形式のブログなので、あきらめて、おつきあいください。




スカリ・マケイブ・スローブス(Scali, McCabe,Sloves,Inc.)社
副社長兼コピー・ディレクター
エド・マケイブ氏とのインタヴュー(1968年)


会った印象を、こんなふうに寸描しています。


米国人にしてはきゃしゃで小柄(165cmぐらい)の彼は、32歳で齢を数えるのを止めてしまったそうだが、それにしても紅茶や空気清浄のための市民団体の広告を書いた時は26〜27歳だから、ずいぶん早く大成してしまったものである。自分の代理店を設立し、成功させたのは30歳の時だったのだからこれも早い。


実際には、リサーチマン、マーケティングマンを含めた5人で---


chuukyuu「この代理店をお開きになったのは、いつでしたか?」


ケイブ氏「1967年5月1日です」


chuukyuu「スカリさん、スローブスさんとの知り合いはいつごろ、どこで、どうして始まったのですか?」


ケイブ氏「そうですね。そのことを説明する前に、このことを知っていただかなければなりません。


この代理店を始めたのは、社名になっている3人だけではないのです。ほかに、ハルトグランとぺスキーを含めて、5人だったのです。


代理店を始めるのに5人もいらないじゃないか、という意見もあるかと思いますが、単にクリエイティブな代理店をつくり、良い広告をつくるだけのためなら、アートディレクターとライター、そしてアカウントマンがいればいいかもしれませんが、私は広告にはそれ以上のものが必要だと思うのです。


だから、5人のうちの1人はリサーチ中心に活動し、もう1人は消費者用パッケージ製品のマーケテイングに詳しい人間です。


つまり、クリエイティブマン2人のほかに、優秀なアカウントマンとマーティングマンと、 リサーチ・メディアマンで代理店を始めたわけです。そして、これは広告代理店が絶対に備えていなければならないメンバーだと思います」


ケイブ氏がいっている意味は、ここ数年(1965-70年)の間にニューヨークでどんどん誕生しているクリエイティブが売りものの代理店(通称=クリエイティブ・ブティック)にたいする新しい問題提起だ思だといます。


米国の広告代理店誕生の形態を調べてみると、つぎの3つに分けられるようです。


第1期---金もうけの好きなビジネスマンが創業した時代。1900年ごろのロード&トーマス社の例に見られるように、優秀なコピーライターを雇って、広告制作のサービスの差で代理店間の強弱関係をつけるようになる。


第2期---1920-30年ごろから、ビジネスマンとコピーライターが共同経営者となった形の広告代理店が生まれてくるようになる。ヤング&ルビカム社の誕生がその好例。後期に至って、リサーチマンが幹部として加わるようになる。


第3期---第2次大戦後の特徴として、アートディレクターが幹部として加わるようになり、1955-60年に至って、コピーライターとアートディレクターが共同経営者となった形の広告代理店が続々と誕生し現在に至る。


もっとも、この分類はまだ十分に検証していませんので、はっきりこうだと主張するわけにはいきませんが、だいたいのところは間違っていないと思います(今後、米国の経済史などと対応させつつ例証してみる必要がありましょう)。


一度外へ出た人は、また、出るクセがつくから---


chuukyuu「5人で代理店を始めようと決心なさった動機やエピソードを、すこし具体的に話してください」


ケイブ氏「そうですね。ほんとうのことをいいますと、これは私のアイデアではないのです。私は、カール・アリー社で仕事をしていて、それに十分満足していましたから。もちろん、そんなことを考えたこともありましたが、チャンスがありませんでした。


ハルトブランとぺスキーとスローブスが、このアイデアを考えついたのです。彼らがスカリに声をかけ、スカリが私に声をかけて、突然この5人が集まることになったのです。


6ヶ月もかけて、いろいろなことを話し合い、決めました。第一、これは、すぐに飛びつく種類のことではありませんからね。


すごく精力的に考えたのですよ。というのは、一度そういうことをやりますと、『いつでもまた、ほかのところへ行けば働ける』なんて気持になりがちですからね。


自分で仕事を始めるのはたいした問題ではないのですが、外へ出て自分でやるという性格を持った人は、えてしてまた別のところで働くなんてことを平気で何回も繰り返すものですから、そういう点にすごく気を使う必要があるものです」


ケイブ氏がいっていることは、私には他人ごとと思えないぐらい、よくわかりました。私自身、大学を出て以来9年近くも勤めていた会社をやめて日本デザインセンターに移ったこと、また、 4年後に仲間とともに自分たちの会社---制作プロダクションをつくった経験を持っています。


そして、いっしょに会社をっくった仲間のうちからすでに出て行った人もいます。出ぐせがつくとはいいませんが、そういうことになりがらなのは、自分の心をじっと分析してみると、心のどこかに、うまくいかなければ---といった考えがあるのに気づきます。


もちろん、会社をつくる時には共通の理念もありましょうし、現時点の環境に対する不満もありましょうが、今いる会社を出てまで自分たちのものをつくるという人は、性格的に普通じゃないところを持っているのではないか---と、私は思います(これは、他人を推測していっているのではなく、私自身を見つめていっているのですから気がラクです)。


ケイブ氏が「考えたこともありましたが、チャンスがありませんでしたといっているのは,正直な告白でしょう。この人の心のどこかにも、私と同じような、普通じゃないところがあるのでしょう。だから、結果として、十分に満足していたカール・アリ-社を出ることになったのでしょう。


Y&Rではとても幸福だったが、カール・アリー社へ移った


ケイブ氏「そうですね。エピソードといえば、代理店を始めた時、私たち5人と秘書一人が、ゴッサム・ホテルに陣どりました。


クライアントを1社もなしで始めたものですから、ゴッサム・ホテルに陣どって、電話が鳴るのを今か今かと待ち受けていました。


そして、だれかが電話をかけてくるかもしれないので、いつも一人は電話のそばにいて、すぐさまその仕事のために飛び出せるようにしていましたよ」


chuukyuu「あなたは以前、カール・アリー社にいらっしゃったわけですが、いつからですか? どんなアカウントを担当していましたか?」


ケイブ氏「3年間いました。1964年から1967年の5月までです。


カール・アリー社では、ボルボとSAS以外のアカウント全部をやっていました。ハーツ・レンタカー、アメリカン・ホ-ム・プロダクツ、ファーマクラフト、チンザノ、ホーン&ハーダート、空気清浄のための市民団体、コ一二グ陶器など、すべてです。アソシエイト・コピー・チーフをしていましたからね。そして、代理店に起きるすべての問題にも責任がありました」


カール・アリー社については、 すでに私が『アート派広告代理店』(ブレーン別冊・1968年刊)で詳しく報告していますから、改めてここでご紹介することはやめますが、1962年7月に「ボルボ」のために誕生した代理店であることだけは記憶にとどめておいてください。


chuukyuu「カール・アリ一社以前の経歴も簡単に話してください」


ケイブ氏「たいして面白い経歴ではありませんよ。いろいろな代理店で働きましたね。


まず、1954年にシカゴのマッキャン・エリクソンを皮切りに、シカゴの2,3の代理店で働き、1959年にニューヨークへ出てきました。この時からがほんとうの始まりでしょうね。


まず、小さな産業広告の代理店で働き、それからペントン&ボウルズへ入りました。


そのつぎにマーショークへ入り、それからY&Rに移ったのです。Y&Rでは、私はとても幸福で、ずっとそこにいるつもりだったのですが、Y&Rに入って8ヶ月後にカール・アリー社が設立されましたので---。


この時のほうが自分の代理店を開く時よりも、ずっとたいへんな決心を要しましたね。給料が減ることは確実でしたし、安定した大代理店でクライアントともかなりうまくやっており、給料もよく、居心地よく働いていたコピーライターが創造的な良い仕事をすることに全神経を傾けており、まだやせてお腹のすいた小さな代理店に入るんですからね。


当時のカール・アリー社は、約200万ドルの扱い高しかありませんでした。


やめる時には2,300万ドルになっていましたがね。もちろん私の力でそこまでにしたというのではありませんよ。ちょうどいい場所へちょうどいいタイミングで入ったのですよ」


chuukyuu「コピーライターになった動機は?」


ケイブ氏「私が好きなのは、これしかなかったからです。


でも、偶然でもあったのですよ。私は広告代理店で働くようになるまで、コピーライターになりいと思ったことなどなかったのですからね。代理店に入って、私はそこで働いている人びとをひとわたり見まわしてみました。そして、コピーライターがいちばん面白そうだと思ったわけです。そこでコピーライタ一になる決心をしました」


ケイブ氏がコピーライターになろうと決心した頃というのは、第2次世界大戦後10年目ぐらいの時ですから、米国の広告界にもようやく発展の目やすがっいた時期です。


私が日本でコピーライターになったのも1953年(昭和28)で、民間のラジオ局などが開局されて、いよいよ---という時期で、人材が大いに求められていました。


chuukyuu「自分にコピーライターとしての才能があると自覚されたのは、いつごろですか?」


ケイブ氏「そんなこと---今でも才能があるかどうか不確かなものですよ(笑)。日増しにそれがわからなくなっていくぐらいですからね。でも、たぶん、最初に広告をつくった時は、私にとってたいしてむずかしい仕事じゃないと思いました」


(>>明日につづく)


(これまで紹介した米国ボルボ社の広告で、モノクロ分はカーリ・アリー社の制作、カラー分は、スカリ・マケイブ・スローブス社による制作。きょうのこれは、N.Y.ADCによる第57回(1974年)展〔One Show〕でゴールド・メダル受賞)


ボルボの新発見:
雨は後部
ウインドゥにも降る。


ボルボは後部ウインドウにも標準装備としてワイパーとワッシャーをつけるという先見の明あるワゴンメーカーでした。


格好よく見せるためにワゴンを買う人はいません。物を運ぶためだということもボルボは発見しました。


そこでボルボのカーゴ部分は流行のスタイルに合わせて低く、きゃしゃに作ることをしませんでした。高く、実用的に設計しました。2mもあるソファ、2列の座席に合わせて(後部シートを上げた時)。


ボルボの後部にはたくさん入るだけでなく、ロットもついています。別個の暖房換気装置、3支点シートベルト、後部ウインドウ・テフォッガー、カーベット色ガラス、子供がいたずらできないドアロックがついています。


そして、ボルボバックドアは上へ開きます。お腹やひざに一発くらわせることはありません。


私たちのワゴンに考慮されていることは大学の修士課程をとっていなくとも、よく分る


ことばかりです。もしあなたの車の後部がボルボのように考慮されていなかったら、他の部分は?考えただけでわかろうというものです。


考える人々のためのワゴン
ボルボ


媒体『アトランティック』1974年3月号