創造と環境

コピーライター西尾忠久の1960年代を中心としたアメリカ広告のアーカイブ

(289)DDBの本、あれこれ


新書版の新著『クルマの広告』(仮題)の11月初旬をめざして上梓のあれこれをすすめていることは、すでにご報告しました。おもわぬ障碍が発生しました。「巻末解説」の形の11ページ分の原稿をCD渡しで指定どおりに仮組みしてもらったら、なんと、31ベージにもなったのです。21日の土曜半日、ゲラの3分の2に、[トル][ツメ]の朱を入れ、宅急便で送り返しました。せっかく書いたので、陽の目をみることもなくなった、元稿31ページ分を記録しておきます。


巻末解説に代えて---。


「40数年前のものを、なぜ、いまごろ?」

えっ? いくつかの図版をご覧になって、「面白いね」ってお感じになったのではなかったのですか?
40数年前にぼくが感じたのも、それだったのです。だから、10数年間、集めつづけたのです。

そのころ、ぼくは、現役バリバリのコピーライターでした。
(東京コピーライターズクラブから「名誉の殿堂」入りをさせていただいてもいます。コピーライターの生ける化石ってわけ)。

40数年前には、コピー・ライティングのいい手引書もありませんでした。
そこで、神田の古書店をめぐって『ライフ』誌や『ニューヨーカー』誌をごっそり買いこんで、夜な夜な自分が気に入った広告を切りぬき、独習したものです。

この方法が、よい広告を選ぶもっとも簡便かつ有効な方法であったことは、のちに知りました。もうちょっとあとでお話しします。

切りぬいた広告で、どんどんたまったのがVWビートルの広告でした。切りぬくたびに興奮したものです。

ビートルの広告の第一陣は、『ライフ』誌の1959年8月1週号に載りました。この本の[あれこれ]ブロックのトップ(000ページ)のものです。

【参考】


フォルクスワーゲンは変わるでしょうか?


答えはイエスです。
フォルクスワーゲンは、1年を通じて間断なく変化しています。1959年だけでも80ヶ所も変わりました。
しかし、どれも目には見える変更ではありません。私たちは、はやりすたりをよいことだとは思っていません。
私たちは変更のための変更などはしません。
この勇ましくて小さなフォルクスワーゲンの外形は今後もずっと変わらないでしょう。不恰好なししっ鼻も、ずっとこのままでしょう。
この車は優秀ですが、さらによいものにするような方法を、私たちはいつも探しています。たとえば、ドレイン・プラグに永久磁石を取り付けました。金属粉はこの磁石にくっついてしまうので、オイルの汚れが防げます。
シフトは、いうまでもなく、世界中でいちばん優秀です。しかし私たちは、これをもっと滑らかにする方法を発見しました。クラッチ・プレートに特殊鋼のバネをつけたのです。
フォルクスワーゲンは過去11年間という歳月以上に変化しています。しかし、その心臓や外形は変わっていません。
VWのオーナーは何年も乗りつづけています。自分のVWが新車とほとんど同じ価値があることをご存知なので、安心していられるのです。


【注】『ライフ』誌1959年8月第1週号掲載のDDB制作キャンペーン第1号の広告


古雑誌だったとはいえ、第一陣のものから切りぬいていたわけだから、目をつけたのは、かなり早かったといえましょう。

ということは、図版の収録順序は発表順ではなく、主題ごとということです。

VWビートルのこのシリーズは、20世紀最高の広告キャンペーンと、米国ほかで評価されています。

それまでの広告の常識を一変させたからです。


「つくったのは、どんな人なの?」

それそれ、人がもっとも興味を覚えるのは、人なんです。
ぼくも、VWビートルの広告をつくっている人に強く興味をおぼえました。

米国の広告業界紙で、つくっているのが、DDB(ディー・ディー・ビー)---正確にいうと、ドイル・デーン・バーンバック社---だと分かりました。
ニューヨーク市で1949年6月1日に創業した、まだ、小さな広告会社でした。

バーンバックさんが社長兼制作部の責任者でした。
バーンバックさんは、いまでは、このVWビートルのキャンベーンのほか、広告革新にもっとも貢献した人として、尊敬されています。
ご興味が湧いたら、インターネットで、William Bernbach で検索なさってみてください。

創業当時---ということは半世紀も前ですが、広告は千三つ---とまではいいませんが、誇張のしすぎ、あるいは虚偽に近い訴求をするものもあり、疑いの目で見られることが少なくはなかったのです。
そんなとき、バーンバックさんは、正直な広告をつくるために、自分たちの会社を興したのでした。

会社は大きくならなくてもいい---大きくなろうとすると、依頼主におもねった広告をつくらなければならなくなることもある---そうまでして、会社を大きくすることはない、と考えていました。

これも、純粋さを愛する若い人たちの目標になりました。

広告主の中には、バーンバックさんの考え方を好む経営者もいました。
そんな依頼主のために、バーンバックさんたちは、清潔で、正直で、かつ人の興味を引きつける広告づくりをつづけたのです。

それが、VWビートルとDDBが結びつくという幸運になりました。
VWビートルとDDBの幸運ばかりではありません。

ぼくは、ビートルのシリーズから、広告の本質を学びました。
あなたも、この本の図版で、広告には信用していいものもあるとお考えになったのではありませんか?

読者---消費者も、あなたと同様、この広告が出るたびに、パーティで話題にしました。

キャンペーンが始まって1年目には、S・ベイカーという著名な広告評論家が称賛文を書きました。

「今では知らない人のいないVWの広告は、自動車の歴史をつくった。小さいことを理想とする人びとに対して、この車は、生産が追いつかないぐらいの速さで売れた。
また、VWの広告は、広告の歴史もつくった。米国VW社が称賛しただけではなく、今では、すべてのコピーライター、すべてのアートディレクターがこの広告を崇拝している」(『アートディレクション』誌 1960年8月号)

「小さいことが理想 Think small」は、[シンプル・フレイズ]ブロック(000ページ)に掲載しています。エピソードはのちほど。

【参考】

小さいことが理想

きっちりつめたら、ニューヨーク大学の18人の学生がサン・ルーフVWに乗れました。
フォルクスワーゲンは、核家庭向きに考えて大きさが決められています。おかあさん、おとうさん、 それに育ちざかりのこども3人というのが、この車にふさわしい定員です。
エコノミイ・ランで、VWはリッターあたり 平均21km強の記録を出しました。あなたには、ちょっと無理な数字です。プロのドライバーは商売上のすてきな秘けつを持っているんですから(お知りになりたい? ではVWBox #65 Englewood, N.J.へお手紙を下さい)。 ガソリンはレギュラー、また、オイルのことは次の交換時期までお忘れください。VWは在来の車より全長が4フィート短くできています。(とはいっても、レッグ・ルームは同じくらいあります)。 ほかの車が混雑したところをぐるぐる巡りしている間に、あなたはほんの狭い場所にも駐車できるんです。
VWのスペア部品は格安です。 新しいフロント・フェンダーは(VW特約店で)21.75ドル、シリンダー・ヘッドは19.95ドル、品質がよいのでめったに必要とはしませんが。
新しいフォルクスワーゲン・セダンは1,565ドル、 ラジオ, サイド・ビュー・ミラーのほか、あなたがほんとうに必要なものは全部ついています。
1959年には12万人の米国人が、小ささを考えてVWを買いました。ここのところを考えてみて下さい。

バーンバックさん自身の言葉で---

DDB創業20周年の同社の社内報に載っていた、バーンバックさんへのインタヴューから、このあたりの感じを読み取ってください(『DDBニュース』1969年6月号より)

問「DDBの成功以後、〔クリエイティブな広告代理店〕と称して、2人あるいはそれ以上のクリエイティブ分野出身の人物をトップに据えた広告代理店が創業していますね。20年前にあなたが同じようなふうに創業さなっていたら、どうなっていたでしょうね? 」

バーンバック「私の場合は、私がうまく処理できない分野のことを受け持ってくれたパートナーがいたおかげで、とても得をしてきました。

もし、私自身が経営していたり、クリエイティブ分野の人と組んでいたら、この広告代理店はきっと破産していたでしょうね---クリエイティブ面では成功を収めていたとしても、破産していたとおもいますよ。

マックスウェル・デーンとネッド・ドイルが財政面をしっかり見てくれました。

この2人が一致協力してくれ、そして私たちのクリエイティブな仕事ぶりを効果的にしてくれたのです。

私が制作という仕事そのものに専念できたことそして2人のパートナーが、広告というものに対する私の目的を自由に追求させてくれたことを、私はいつも幸運と思ってきました。

私は異常視されることなく広告哲学を発展させることができました」

問「その哲学が、この20年間、変わることなく続いたとおっしゃるのですね。では、その哲学を要約していただけますか?」

バーンバック「じつに簡単明解なことです。2つの部分から成っておりましてね。

第一は、売ろうとしている商品についていわなければならない重要なことを発見すること---です。その商品が、競争商品に立ち向かえるだけの優秀性、あるいは相違点を真剣に追求すること---です。
それがない場合には、クライアントと相談してそれをつくるのです。私たちは、何度もそうやってきました。偉大なコピーライターの一人がこういっていますね。
『いうべきことがあったら、よりよいことがいえる』
私たちは、常にいうべきことを捜し求めます。私たちが創業した当時は、いうべきことを見つけたら、それで仕事は終わったと考える代理店がほとんどでしたが、私たちの信念はそうではなくて、その段階だと、仕事は始まったばかりだとしかいえないと考えていたのです。

そこで、私たちの広告哲学の第二の部分はこうなります。
いうべきよりよいことを発見したら、それが記憶され、行動を起こさせるように、覚えやすく、芸術的で、説得力のあるいい方をしなければならない---ということ。

私たちは、それを独創的で、新鮮で、想像力を豊かに表現する方法を捜し求めます。前にも使われたようないい方をしたのでは、せっかくの衝撃力を台なしにしてしまうことになります。

私たちは、このような哲学を持って会社を創設したのです。それは哲学というよりも、強い確信でした。ですから、広告には規律ある芸術的手腕の完全な意味づけをやったのはDDBだと私は断言できます。

もちろん、芸術的手腕なるものは、非常に測りにくいものです。手に触れて感知することのできないものです。

しかし私たちは、この測りにくく感知しにくいものを使って、クライアントのお金に最高の衝撃力を与えること---すなわちアイデアで売るといった、得心の行く仕事をしてきました。

たぶん、現代では、それは前にも増してずっと感知しやすく、測りやすいものになってきています」



VWビートルがDDBへたどり着いた経緯は---

1958年11月中旬、VWドイツ本社のノルトホフ社長が米国で休暇を過ごすために、ニューヨークのアストリア・ホテルに宿をとりました。パーク・アベニューに面した由緒ある高級ホテルです。

60歳の氏は、薄いブロンドの髪と温和な口調でインタヴューに応じました。デトロイトのコンパクト・カーに対するVWの施策を期待していた記者連に向かって、
「『マイ・フェア・レディ』と『ウエスト・サイド物語』をブロードウェイで観ました。どちらかというと、『ウエスト・サイド物語』のほうが好きです。モダンで、私にもよく理解できました」

ノルトホフ社長は、ドイツへ帰国するや、翌春早々に、米国VW社の総責任者として、のK・H・ハン氏を送り込みました。生粋のオーストリア人で、まだ30代半ばの若さでした。

着任早々、ハン氏は、新しい広告代理店を物色し始めました。
ソニーの盛田副社長(当時)から聞いたところによると、ハン氏は1年分の雑誌・新聞をめくって、自分が気に入った広告をどんどん切り抜き、それらの広告をつくった広告代理店を秘書に調べさせたと。
切り抜かれた広告の70%がDDBによってつくられたものでした。

こうして、20世紀最幸なカップルが生まれました。
両者をとり持ったのは、VWの有力ディーラーの社長だったといわれています。かつてDDBがこのディーラーのために仕事をしたことがあったのだそうです。
人間、個人的にもビジネス上でも、人とのつき合いがいかに大切か。

とにかく、DDBは米国VW社に求められたのです。DDBから米国VW社へ頼んだのではないのです。
ということは、あるていど、DDB側にクリエイティブの自由があるということです。もちろん、大人同士のビジネス社会のことですから、ゆずりあいがあるのは当然です。


DDBVWチームは、ドイツのVW工場へ

バーンバックさんは、VWチームを編成しました。

アート(ビジュアル)面の責任者にヘルムート・クローン氏、コピーの責任者にジュリアン・ケーニグ氏が指名されました。DDBの制作部でも幹部級の2人です。
2人とバーンバックさん、それにチームの何人かが、ドイツの工場へ飛び、見学とレクチャーを受けました。広告クリエイターにとって必須のことです。

例示した図版の三分の一のアイデアは、この時の生産工程の見学とレクチャーから発想されています。
(あとの三分の一は、ドイツ本社と米国VW社をはじめ各地ディストリビューターやデイーラーのハウス・オーガン(社内報)から。のこりはクリエイターの人生経験から)。

その時のことを、あるスピーチで、バーンバックさんがこう話しています。
「私たちがこの広告を引き受けた時、最初にしたことはドイツのウルフスブルクにある工場で多くの時間を費やすことでした。
技術者や製造陣、幹部連や流れ作業の作業員などと話し合って数日を過ごしました。溶けた金属が固くなってエンジンになるのといっしょに歩き、そして、すべての部品が最後に定められた場所に納まるまで歩きつづけました。
最後に、一人の人がハンドルをとって、生まれたばかりのかぶと虫に最初の生命を吹き込み、それがはじめて動き出すのを見ました。

私たちは、フォルクスワーゲンの造り方をすっかりのみこむことができ、テーマを何にすべきかを知ったのです」
それは、「これは正直な車だ」ということでした。


「未亡人を、たくさん、つくってくれ」

バーンバックさんの基本命題を受けて、クローン氏がやったことは、まず、キャンペーンの視覚的フォーマットをつくることでした。当時は、テレビ・コマーシャルではなく雑誌広告が主体でしたから(日本と異なり、新聞ではなく、米国では雑誌が全国媒体なのです)。

つくったのは、いわゆる、記事スタイルのフォーマットでした。
正直で信頼できる車---なら、広告スタイルでなく、記事スタイルの誌面づくり、というわけです。
誌面の上三分の二がイラストレイション(写真と絵のことです)、その下にへッドライン(見出し)とボデイ・コピー(本文)。
(へッドラインのことを、キャッチ・コピーという人もいますが、和製英語もいいところです。たぶん、テレビCMのきめ言葉の呼び方に困ったすえの造語でしょう。新聞の見出しを、新聞記者はキャッチ・コピーと自らいいますかね。キャッチ・ガールっぽい造語で、嫌ですね)。

クローン氏は、そのボデイ・コピーのいくつもの文節末尾をカミソリで切り捨て、ケーニグ氏に示し、
「グレイ・マスじゃなく、ガードルードの詩のように、ウィドウ(未亡人)を多くつくった文章を書いてくれ」

未亡人というのは、文節末尾の空白のことです。日本の印刷関係者は「クワタ」と呼んでいます。
美術大学でのデザイン学生のクラスで、卒業後までこの未亡人をおぼえさせておくために、
「Merry widow って歌もあるんだよ」
そしたら、生意気ざかりの学生が、
北斎にも、[色ごのみの後家]って題した春画がありますね」
さいわい、美術大学にくるような女子学生はお嬢さんぶりませんから、ことなきを得ました。

じつは、図版の英文の未亡人に目をとめていただきたかったのです。
40数年前の配慮ですが、未亡人が多いほど、読みやすい文章になっていますね。
これって、ブログの文章にぴったりでしょう?
すでに、やっていらっしゃいますよね?

ぼくのこの文章の、文節ごとに行間をあけた文章も、ブログで使っている書き方なんです。


主語・述語・目的語の短文のつながり

クローン氏のインタヴューも『DDBニュース』 (1968年8月号)から引用してみます。

問「あなたが広告の外見を変えたのはフォルクスワーゲンの広告でしたし、コピーの置き方も変えられましたよね」

クローン「ええと、まず、こういわせてください。ぼくは、VWビートルについて自分たちは新しすぎていることをしている、と強く感じていました。もちろん、ぼくもあの広告に三分の一の貢献はしていたのですが---。

それで、3本の広告をつくりあげると、意気消沈してセント・トーマス島へ出かけて休暇を過ごし、2週間して戻ってきました。

すると、ぼくはスターになっていたのです」

問「三分の一の貢献とおっしゃいましたが、半分じゃないんですか?」

クローン「ぼくが三分の一、バーンバックさんが三分の一、コピーライターのケーニグ氏が三分の一ということです (注:ケーニグ氏は、VWのキャンペーンのスタート後、早ばやとDDBを退社し、自分たちの代理店を創設した)」

問「バーンバックさんが貢献したということは、どういう意味で?」

クローン「主として、ぼくをほかの仕事から解放してくれたということで。また、簡潔に、明確に、バーンバックさん独特の魅力を加えて、語るという全体のコンセプトですね。それを車に適応したということ以外には、フォルクスワーゲンの広告アイデアは、とくに新しいとことは何もありません」

クローン氏は別なところで、バーンバックさんの功績を、主語・述語・目的語の短文でボディ・コピーをつなぐことを指示してくれたとも告白しています。

これも、ブログの文章を正確に、分かりやすくするコツの一つですね。


〔クリチック〕はVWビートル調

最初のコピーライターのケーニグ氏が、はやばやと退社していったことはすでにお話ししました。
後任に抜擢されたのが、VWのカタログのコピーを担当していたロバート・レブンソン氏でした。高校の教師からコピーライターに転向した人です。

このレブンソン氏のインタヴューが創業30周年記念の『DDBニュース』(1979年7月号)に載っていました。

ついでなのでつけ加えておきますが、掲載図版のコピーは、こほかに10人近いコピーライターの手になっています。区別がつきにくいですが。

ぼくは、ケーニグ氏の分だけはわかります。〔クリチック〕---東欧ユダヤ系の俗語で「捨て科白(ぜりふ)」とでも訳しておきますか---がほとんどないのです。掲載した図版の多くの最終行がこれにあてられています。

問「VWの広告の創始者ではありませんね?」

レブンソン「ええ。それに私にはとても追い抜けなかった広告がたくさんありますよ。[小さいことが理想]、[不良品]とかをどうやったら追いぬけますか?

でも、声とかボキャブラリーの調子は、私が手を染めてから少し鋭くなったとは思います」

問「あなたがなさっている『親愛なるチャーリー』のアプローチについて説明してください」

レブンソン『ここ数年、ぼくはコピーで行き詰まった人びとに『親愛なるチャーリー』から始めるよう示唆してきました。

ぼくが彼らにいっているのは、こういういうことなんです。

君たちが話しかけているのは、その製品については君よりもうといが、じつに聡明な友人だと思いこめ。それをし終えたら、『親愛なるチャーリー』なる冒頭の一行を抹殺しろ、そうすれば少なくともとっかかりはできるだろうと。実際、白紙から始めるよりずっといいんですよ。絶対に失敗しません」

問「〔クリチック〕は?」

レブンソン「〔クリチック〕は多分大きなミスでした。ひどく誤解されました。
でも〔クリチック〕はVWだけで使ったコピーでした。VWには向いているようでした。

人びとは、あの一連の最終行をおぼえてくれて、『他の車は変わり続けて、同じまま。VWは同じままで、変わり続ける』なんか、ぼくが今まで書いたどの文より反響が多かったですね。

揶揄っぽい言いまわしか、滑稽なエンディングづくりという仕事が始まったという感じです。

広告業界には、意味があろうとなかろうと、とにかく笑いでしめくくらなければ仕事をしたとは言えないなんて感じる人も出る始末。
以来、文の脈絡とは全く何の関係もないくだらないジョークでしめくくるコピーが続出しました」

いまの日本のテレビ・コマーシャルの〔捨て科白〕や奇妙な身ぶりもそうでなかったらいいのですが。


[小さいことが理想]、[不良品]ができたエピソード 


レブンソン氏も「まだ、追いぬいていない」と告白している、20世紀につくられた広告の世界的傑作---[小さいことが理想](000ページ)と[不良品](000ページ)の広告ができた裏話を。

DDBVWの広告をつくりはじめた初期のころ、コピーライターのケーニグ氏は、小さな経済誌の載せるための広告のアイデアをたてる仕事をかかえたまま、列車で帰途につきました。
同じコンパートメントの向いの席のビジネスマン風が、丸めて読んでいる雑誌の記事の表題に、当時(50年前)のビジネス界の合言葉「Think big (でっかく考えよ)」が書かれてありました。

米国人は Think big と浮かれている。VWは小さい---Think small だ。
翌朝、そのへッドラインをクローン氏にわたすと、かぶと虫の写真をうんと小さく、誌面の左上においたビジュアルをつくりました。

「でっかいことはいいことだ」が常識みたいになっていた米国人は、この広告から強烈な衝撃を受け、心ある人たちは反省し、生活態度を変えはじめました。

もっともすぐれた広告は、読み手の人生観を変える力をもっているのです。
いいブログというのも、アクセスしてくださった人の考え方に影響を与えます。

[Lemon レモン]---[酸っぱい]---[腐りかけている]---[不良品]となるのでが。

当初、この広告のヘッドライン(見出し)は、ボディ・コピーの一行目に置かれている「このVWは船積みされませんでした」だったのです。

クローン氏は、そのスケッチを個室のボードに張って検討していました。そこへ、友人の女性コピーライターが挨拶にきて、チラリとスケッチに視線をやり、
「あら。レモンね」
女性だけに、食品売り場で新鮮か否かのチェックに馴れていました。
狂喜したのはクローン氏です。世間の人たちの使っている言葉を捕まえたのですから。

「レモン」というヘッドラインだから、この広告が生きてくるのですね。

【参考】


不良品。


このVWは船積みされませんでした。
車体の1ヶ所のクロームがはがれ、しみになっているので取り替えなければならないのです。およそ目につくことがないと思われるほどのものですが---K・クローナーという検査員が発見しました。
当社のウルフスブルグの工場では3,338人が一つ作業にあたっています。VWを、工程ごとに検査するために、です。(日産3,000台のVWがつくられています。だから車より検査員の方が多いのです。 )
あらゆるショック・アブソーバーがテストされます(部分チェックではだめなのです)。ウインドゥ・シールドもすべて検査されます。何台ものVWが、肉眼ではとうてい見えないような外装のかすり傷のために不合格となりました。
最終検査がまたすごい! VWの検査員は1台ずつ車検台まで走らせていって、188のチェック・ポイントを引っぱりまわし、自働ブレーキ・スタンドへ向けて放ちます。それで50台に1台のVWに対して「ダメ」をだすのです。
この細部にわたる準備が、他の車よりもVWを長持ちさせ、維持費を少なくさせるのです。(中古VWが他の車にくらべて高価なワケもこれです)。私たちは不良品をもぎとります。あなたはお値打ち品をどうぞ。

こんな幸運な例は、毎日のブログにはなかなかやってきません。でも、この例をしっているだけで、捕球のチャンスを逃さないですむかも。



「シリーズは効果をあげたのですか?」

DDBによるVWビートルの米国での広告は、1959年から17年間つづいたのですが、数字は、残念ながら、10年分しか手元にありません。ま、それだけでもご覧ください。ビートルが売れた台数です。

1959年   84、677台
1960年  112、027台
1961年  148、340台
1962年  167、019台
1963年  209、797台
1964年  251、806台
1965年  288、583台
1966年  296、624台
1967年  314、343台
1968年  423、008台

この実績を、どう評価するかは、あなたの人生基準いかんです。
自分に甘く、他人に厳しいのは、世の常ですから。

「なのに、どうして、ビートルは空冷式リヤ・エンジンを止めたの?」
申し訳ない。ぼくは、DDBの人間でもないし、ましてや、VWとは過去・現在、まったく関係をもったこともありません。

単に、DDBの広告を独習の教科書にしてきただけなんです。