創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(262)ハーブ・ルバーリン氏とのインタヴュー(2)

(写真はぼくと松本達氏によるアイデア別冊『ルバーリン作品集2冊目』1988.11.10。 下記は2冊目に書いたエッセイ[1冊目のインタヴューでいいつくされているのだけれど20年ぶりに、2冊目のために2、3 書きそえる]の一部)。
ハーブ・ルバーリン夫妻が東京デザイナー学院グループの招きで来日し、東京と京都で講演したのは、1971年で、あの巨星と夫人のシルヴイアがともに53歳のときだ。あれから、もう、17年たったのだ。そして、巨星は、その10年後の1981年に、63歳で逝った。あのときの招聘は、もちろん、東京デザイナー学院の安達理事長の大英断で実現したものだが、ルバーリンほどの超多忙なグラフィック・デザイナーが、よくも、極東くんだりまできてくれたものだと思う。当時、物価の安かったヨーロッパのグラフィック・デザイナーはともかく、米国の現役が本来の仕事ぬきで何週間も日本にくるなど、想像の外だった。それまでにぼくが何度も巨星の仕事場を訪問し、誠意をつくしていたのがよかったのか、あるいは、20年前に本誌の1冊目を編んだ労に対するお返しのつもりだったのか。ルバーリン氏の寡黙ぶりは神話的ですらある。3人の息子たちが生まれてこのかた、父親と交わした言葉数は、合計で700語程度だそうだ。それからすると、ぼくなどは訪問のたびに、親しく話しかけてもらったから、特別待遇だったのだろう。


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育ちとクーパー・ユニオン校時代


chuukyuu  あなたはいつ、どこで生まれましたか? 生家のことも話してください。


バーリン  ニューヨーク市で生まれました。父はニューヨーク・フィルハーモニーのすばらしい音楽家でした。ふたごの兄と、姉がおります。


chuukyuu  少年時代のエピソードについていくつか。


バーリン  今思い出せるのはたった一つしかありません。クーパー・ユニオンに通っていた時のことです。私は才能が全くなく、最初の2年間は非常にできの悪い生徒で、もうすこしで学校を追い出されるところでした。私は両手使いでした。ある時、学校でカリグラフィで本をつくるということになりました。カリグラフィは、アングルの関係上、右手をつかって書かなければならないのです。ところが私がいつも左手を使って描き、左手しか使わなかったものですから、学校中の者が私は左ききだとばっかり思っていました。ですからこの課題が出された時、先生は私を呼んでこういいました。
「君は、左ききだが、この仕事は右手でしなければならないから、君はかなりのハンディキャップを背負うことになるが、どうしても右手でなければならない。君としては右手を使う練習をしなければならないぞ」
私は、書くことは全部右手でやっていることを、わざと先生には内緒にしておきました。カリグラフィは、ハンド・ライティングですから、課題はわけなくやりとおすことができました。提出すると私はクラスで最高の点をとりました。私がクラスでいちばん良くできたからではなく、先生が、私がこのハンディキャップ打ち勝ち、なれない右手でこの仕事をしたのだとばっかり思ったためだったのです。多分これがある種の自信を私に与えてくれたのかもしれません。それ以来ずっと優秀な生徒になりました。
数年前にクーパーユニオンから、プロフェッショナル・アチープメントのためにメダルを贈られて、学校で記念のスピーチをした時に、私が学生時代にこのごまかしをやったためにアートの職業につくことになったことを暴露しました。


chuukyuu  あなたがデザイナーの道を選んだ直接間接の動態は?


バーリン  私が大学に進む時に、父は私を医者にしたかったらしく、母は弁護士にと望みました。私はといえば、とりたてて何になりたいというものがありませんでした。家にはお金がなく、無料の学校を見つけなければならないことに気づきました。そこでニューヨークのシティ・カレッジ(市立大学)を受けましたが、高校時代の成績が十分すぐれたものではなかったため、落ちてしまいました。そこでブルックリン大学を受けてみましたが同じように落ちてしまいました。クーパー・ユニオンを見つけるまでは、無料の学校がなく、はたとゆきづまってしまっていました。高校時代の美術の時間はかなり優秀だったのですが、アート・キャリアを踏もうなどは一度も思ったことはありませんでした。ですが単に無料であるということのためにクーパー・ユニオンを受けることに決めたのです。この仕事に入った動機らしい動機といえばこれぐらいですね。
学校を出た時は、私の競走相手が全部軍隊に入っていましたが、私は非常に若くして結婚し子供がいたために兵役を免れました。だから他のデザイナーがヨーロッパにいる時に私は国内でデザイン活動をしていたわけです。おかげで他の人びとよりも少し先を歩むことができたのです。


chuukyuu  デザイナーにならなかったら、なんになっていたとおもいますか?


バーリン  今もしデザイン活動をしていなかったら、私は小さな骨とう店を開くか、船の金物店か、ユダヤ料理店を開いていたでしょう。この3つが私の第二の恋人です。それとも下手くそな音楽家になっていたかな?


chuukyuu  クーパー・ユニオン時代に得たものは?


バーリン  クーパー・ユニオンでのエピソードは、お話したとおりですが、クーパー・ユニオン時代には、たくさんの人びとと知り合いになりました。この人びととは今でもなんらかの形で関係しています。私の妻もその中の一人で、彼女は私のクラスにいて、結婚いたしました。もう1人は、CBSのルーイス・ドーフスマンですが、彼も同じく彼のクラスにいた女性と結婚しました。彼とは25年たった今でも仲の良い友達であり、たいへん緊密なつきあいをしています。
どんな生徒だったかもお話しましたが、最初の2年間は学校最低といってもいいぐらいの生徒で、後の2年間は学校最高ともいえる生徒ぶりでした。これには多分、私の妻が何かしらのインスピレーションを与えてくれたことが原因してしているのかもしれません。
ここで学んだのは、何よりもデザイナーになることでした。クーパー・ユニオンではテクニックに特別な重点を置いておらず、考えること、アイデアを生み出すこと、デザインすることに関心を寄せていました。おかげで、学校を出た時には、他のデザイナーよりも得をしていました。テクニック的には非常に下手でも、だれにも負けないぐらい問題解決をうまくこなすことができましたし、クリエイティブな解決法をだれよりも早くみつけることができました。


chuukyuu  その後あなたは、クーパー・ユニオンで教えましたね? どんなことを主旨として学生に教えましたか? デザイン教育のあり方についてあなたのお考えを。


バーリン  うーん。これはなかなかむずかしい質問ですよ。答えるのに優に2時間は必要だ。
学校に籍を置く若いデザイナーたちが心にとめるべき最も大切なことの一つは、頭脳をもつこと、2つの目、耳をもち、それらを最高に活用することだと思います。たとえば、観察ということが最も大切なことの一つとして考えられます。第一に物事をよく観察しなければなりません。それから、忘れずにいて、それを知識の銀行でもある頭脳に貯えておくのです。そして、学校を出たら、大切なのは、学生時代にためた観察の銀行から必要なことをひき出すのです。
現在の米国の学校の学生は、確かにデザインをうまくやり、あらゆるテクニックを身につけることは学んでいますが、観察したり、考えたりすることは学んではいないように思われます。今日の若いデザイナーにはほとんど実質が伴っていないようです。昔よりもすぐれているデザイナーかもしれませんが、私たちが学校を出たてのころに身につけていた背景の深さが彼らには足りないようです。
アート・スクールの学生は、この道の先駆者たちのこと意に入れ、盗むべきなんです。なぜ模倣しているのかわかるまで模倣を続けるのです。それがわかると彼らは、彼ら独自のやり方を発見するのです。


続く >>



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