創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(686)[ジョン・アルコーンとの1時間](2)


いつもなにかとご教示をいただいているatsushiさんから、ジョン・アルコーン(1945〜1992)氏の三男ステファンさんが、父君の予言どおりアーチストになり、父君の主要作品を収めたホームぺージをつくっていると知らされました。

http://www.alcorngallery.com/John_Alcorn/


chuukyuu編「アイデア別冊」『ジョン・アルコーン』(1972.03.10)より


ジョン・アルコーンとの一時間
(ニューヨーク州オシニングの氏のアトリエで。インタビューの2ヶ月後、一家はイタリーのフロレンスに移転。
数年後、ニューヨークへ復帰)



(CALENDAR DESIGN)


(CALENDAR DESIGN)


クーパー・ユニオンの頃


chuukyuu   イラストレーターになろうと決心なさったのはいつ
ごろですか?


アルコーン  クーパー・ユニオンの学生だった時です。
はじめは建築家志望だったのですが、クーパーの2年生になった頃から
グラフイックにより強い関心を持つようになりました。


chuukyuu   クーパー・ユニオンではだれかいい先生に恵まれましたか?


アルコーン   はい、とても優秀な先生が幾人かいました。
当時の校長で平面デザインを教えていたレイモンド・ドーデンという人
がとてもすてきな、生徒を励ますことを忘れない先生でした。
1年生の時、画家のロバート・グワスミ一についてデッサンを勉強した
のですが、私はこの人から大きな影響を受けたと思っています。
また、デザイナーのジェローム・クールは、デザイナーとイラストレイ
ターを志した私を勇気づけ励ましてくれました。
彼ほど熱心に私を見守ってくれた先生はほかにいなかったと思います。


chuukyuu   クーパー・ユニオンにいたころのあなたは、どんなタイプの学生で
したか?

アルコーン   1年生の頃は力不足の生徒でした。
ここの学生の大部分が音楽や美術の専門高校とかインダストリアル・デ
ザインの専門高校の出身者で占められている中に、それまで一度も正式
に絵の勉強をしたことのない私が入ったのですから、最初の1年はとて
も苦労しました。
ですから当時は、ほかの学生が自分より一歩も二歩も進んでいるように
思えて仕方がありませんでした。
しかし、2年生になる頃には、彼らがそれまでに学んだことや経験した
ことがいかに上っ面なものであったかがわかるようになりました。
そして、たくさんある教科課程の目的がわかってくるに従って勉強する
ことがとてもおもしろくなってきたのです。
卒業する頃には優良な学生になっていたと思っているのですよ……。


chuukyuu   かつてのクラスメートでいまも親しく交際している人が
いますか?


アルコーン   いまも友だち付き合いをしているクラスメートは2,
3人いますが、特に親しく交際している友だちの多くは学年は違います
がやはりクーパーに通っていた人たちです。



(POSTER FOR COOPER UNION ART SCHOOL ALUMNI クーパー・ユニオン同窓会のポスター)



(PLAY MONEY FOR COOPER UNION ART SCHOOL 1970 同窓会パーテイ券)


プッシュピン・スタジオ時代


chuukyuu   クーパー・ユニオンを卒業してすぐに
プッシュピン・
スタジオにお入りになったのですか?


アルコーン   卒業してすぐというわけではありません。
はじめの2,3ヶ月はエスカイヤ誌で働き、その後ウィリアム・ダグラス・
マックアダムスという薬専門の代理店で数カ月仕事をしていました。
プッシュピンに入ったのは、1956年の春です。


chuukyuu  プッシュビン・スタジオにお入りになったのにはなにか
特別な理由があったからなのですか?


アルコーン   当時のプッシュピンは発足したばかりで、私はこの
スタジオについてあまり詳しいことは知らなかったのです。
彼らの評判が次第に高まりつつあるということは知っていましたし、無論
そういううわさは私の耳にも入ってきましたが、実際に私たちの目に触れ
る彼らの作品は、数の上ではきわめて少ししかありませんでした。
私がこのスタジオに面接を受けに出掛けて行ったのは、その頃フリーランス
の仕事を捜していたからというだけの理由からだったのです。
そんなわけですから、ここで仕事をするようにといわれた時はとても驚きま
した。
無論、驚いたばかりではなくて、その喜びも隠せませんでしたが……。
私はそれまでずっとグラフィック・デザイナーになろうと思っていましたから、
この時期こそまさに私の人生の一つの転換期であったと考えています。
プッシュピンで仕事をするようになった私は、ますますイラストレイションに
熱中するようになり、その意味ではこのスタジオは私の職業を違ったものにし
たといえます。


chuukyuu  あなたがプッシュピンにいた頃、そこにいる人々はどんな
具合いに仕事をしていましたか?
チームを組んで仕事をしていましたかそれとも個人プレーでしたか?


アルコーン   依頼される仕事の多くは個人契約が立て前となって
いましたが、それでもほとんど毎日のようにグループに分かれて批評会
が行なわれていました。
ミルトン・グレイサーとシーモアクワストがこのスタジオのパートナー
でした。
創立者の1人であるエド・ソレルは間もなく辞めてしまい、彼らのクーパ
ー・ユニオン時代のクラスメートであるレイノルド・ラフインは私よりおよ
そ2週
間早くこのスタジオに入りました。
あの頃は、私たちがやっていたような仕事に猛烈な反対運動が繰りひろげ
られた時代であったため、プッシュピンは窮境に瀕していました。
当時のプッシュピンは、大きな成功をおさめている現在にはほど遠
い状態で、仕事を得るためにやっきとなっていました。
ブック・ジャケット、レコード・カバー、 プロモーション用小物などが
私たちの扱う主なものでした。


chuukyuu  プッシュピンで学んだものの中で特にこれはと思われるも
のは?


アルコーン   特にお話しするようなものはありません。
あのように才能豊かな人々とともに仕事をしたことはすばらしい経験だっ
たということだけです。
あのスタジオには活気に加えて新しさと適確な判断力があったと思います。



(FROM THE PUSH PIN GRAPHIC 印刷と迅速なサービスがモットーのウィーバー印刷所
『プッシュ・ピン・グラフィック』のスポンサーの一つの広告であろう)



(FROM THE PUSH PIN GRAPHIC 500種類もの活字を誇るリアル活版印刷
上同のスポンサーの一つ)


[:W500]
(FROM THE PUSH PIN GRAPHIC アンブローズ・ピアス著『悪魔の辞典』「鉛の項」)



(FROM THE PUSH PIN GRAPHIC『寺男と悪魔の話』)



(MAGAZINE COVER)

【chuukyuu 註】このころのアルコーンの図象には、ポール・ランドの影響が色濃い。




AN HOUR WITH JOHN ALCORN (2)

interviewed by Tadahisa Nishio
Mr. Alcorn's atelier in Ossining, New York
A months after the interview, he and his family moved to Firenze in Italy


COOPER UNION RERIOD


Alcorn   When did you. decide to become an illustrator?
Alcorn   When I was a student at Cooper Union. I had intended to become an architect but during-my second year at Cooper I became more interested in graphics.
Nishio   Did you have any good teachers at that time?
Alcorn    Yes. I had some very fine teachers. Raymond Dowden, who headed the Art School at that time, and taught two-dimensional design, was a wonderful and stimulating man.
In my first year at Cooper Union I had the painter Robert Gwathmey for a drawing instructor.
I think he had aprofound influence on me.
Also, the designer Jerome Kuhl encouraged me, perhaps more than my other teachers, to become a designer and an illustrator.
  What type of student were you when you were in Cooper Union?
Alcorn    In my first year I was a very poor student. It was a difficult year for me because I had never been exposed to formal art training before, and most of the other students had come from the High School of Music and Art or the High School of Industrial Design.
At the time they seemed to be very advanced. By the second year I realized that their previous education and experience was quite superficial.
As I began to understand the purpose of the various courses I became much more interested, and I think I eventually became a good student.
Nishio   Do you still have friendly relationships with your classmates?
Alcorn There "are a few classmates who I have remained friendly with, and most of my closest friends had gone to Cooper, but not during the same years.


PUSH PIN STADIO RERIOD


Nishio   Did you enter Push Pin Studios soon after graduating from Cooper Union?
Alcorn  Not immediately…… First I worked for a few months for Esquire Magazine and then I worked for several months fora pharmaceutical agency-William, Douglas, McAdams.
I joined Push Pin in the spring of '56.
Nishio   Was there any particular reason for joining the studios?
Alcorn  It was a very young studio at the time' and I really didn't now very much about them.
I knew that they were beginning to build a reputation and of course I had heard of them,
but there wasn't that much work of theirs to be seen.
I went to see them at the time only because I was looking for freelance work.
I was surprised and of course very happy when I they offered me a job.
I think that was really a turning point in my life because I had thought that I would be a graphic designer.
At Push Pin I became increasingly involved in illustration.
In that sense it changed my career.
Nishio   How did the people at Push Pin work when you were there?
Did they work in teams or independently?
Alcorn  Most of the work that came in was assigned on an individual.basis. However, there were almost daily group critiques.
Milton Glaser and Seymour Chwast were the partners of the studio. Ed Sorel, one of the founders, had recently left, and Revnold Ruffins, who was a Cooper Union classmate of theirs, had joined the studio about two weeks before I did.
They were difficult times for the studio, because there was a great deal of resistance to the kind of work we were doing.
The studio had not achieved nearly the level of success that it is now enjoying, and there was a struggle to find work and acceptance.
At the time we were doing mostly book jackets, record album covers, and promotion pieces.
Nishio   Is there aiIy one particular thing you learned from the
studios?
Alcorn  No one t~ing. It was simply a wonderful experience to have worked with people of such enormous talent.
I think the newness of the studio and the sense of purpose added to the stimulation.




(POSTER FOR A PAPER CO. 「ベイブ・ルースは勝った」)



(ILLUSTRATION FOR ”LIFE” MAGAZINE)



(ILLUSTRATION FOR "REDBOOK" フロリダのガルフ・コーストには皆さんが求めている何かかあり、子どもたちが求めているすべてがある。)



(ILLUSTRATION FOR "FORTUNE" MAGAZINE)



(ILLUSTRATION FOR "GENTLEMEN'S QUARTERLY" MAGAZINE)


(つづく to tomorrow)