創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(263)ハーブ・ルバーリン氏とのインタヴュー(3)

(アイデア別冊『ルバーリン作品集2冊目』(1988.11.10)に載せたエッセイ。[1冊目のインタヴューで語られつくしているのだけれど20年ぶりに、2冊目のために2、3、書きそえる]のつづき。)写真=クーパー・ユニオン校

デザインのこと以外には関心を示さない巨星(ルバーリン)の才能を、デザインだけに向けさせて、あとのことは全部自分で処理していたシルヴィア。小さな体が、明るいふんいきではちきれそうだったシルヴィア。彼女に先立たれた巨星は、このあと、一人で生きていけるのかしら---と、危ぶんだものだ。ちなみに、シルヴィアの実家は、ニューヨークの多くのユタヤ系の家業がそうであるように、紳士服の仕立て屋だ。巨星のほうは、母がドイツ出身のユダヤ系で歌手、父はロシア出身のユダヤ系でトランペット奏者としてABC放送シンフォニーの団員だったこともある。大西洋沿岸のシープシード・ベイの近くで生まれた巨星は双子の兄同様に色盲だった。少年時代、クレヨンで紫色の髪をした人物を描いてまわりのいとこたちの肝をつぶさせた。この色盲という事実が、彼を画家の世界に向けないで、デザインとレタリング、そしてタイポグラフア一にした本当の理由かもしれない。そう思うと、ぼくたちは色盲という劣性遺伝子まで用意してくれたエホバの神に感謝すべきかも。ついでだから書いておくと、色盲の彼が合格した、授業料免除のクーパー・ユニオン校の入学試験の成績は64人中64番だった。ただし、卒業時にはうんと上位にいた。卒業時の1番はシルヴィアだった。2人の愛はその後、途絶えることもなかった。 


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親友ルーイス・ドーフスマン氏


chuukyuu  ルーイス・ドーフスマン氏との最初の出合いは?


バーリン  学生時代に親しくなり、現在でも親しいことは話しましたね。


chuukyuu  その後のお2人のデザイナーとしての協力作業はどのようにつづけられましたか?


バーリン  友達としてもデザイナーとしてもこの25年間、協力しあってきました。私はCBSのために、働き、彼は私の会社のために働いてきました。現在、とてもエキサイティングな大プロジェクトに2人とも関係していますが、このことは今は話せません。でも遅かれ早かれ、間もなく日本の人びともこのことを耳にされることと思います。


chuukyuu  あなたがドーフスマン氏から得たものは?


バーリン  2人とも、お互いからとても多くのインスピレーションを引き出していますよ。私は彼こそ米国随一のデザナーであると考えていますし、彼も私こそこの国随一のデザイナーであると思っていますからね。お互いに、かなりの自信を与え合っているわけですよ。
また、彼からは、お金の貯め方を学びましたね。彼は私からお金の使い方を学んだようです。どちらかというと、彼が私に数えてくれたお金の貯め方よりも、私が彼に教えたお金の使い方のほうが影響大かな。(笑)


chuukyuu  ドーフスマン氏のほかに、あなたが影響を受けた、あいは特に親しくされているデザイナー、アーティストは?


バーリン  ジーン・フェデリコ、ジョージ・ロイス、アラン・ハルパート、ボブ・ゲイジ、スティーブ・フランクフルト、ソール・バス---これはほんの数名です。数えれば何百人もいます。


続く >>


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多摩美術大学の在校生へ
拙編『ハーブ・ルバーリン作品集』第1冊目、2冊目ともに、学部図書館に寄贈してあるから、閲覧・勉強できる。


【参照】クーパー・ユニオン校---「ロイ・グレイスの『名誉の殿堂』入り(4)