創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(259)ロイ・グレイスの『名誉の殿堂』入り(4)

      Mr.Roy Grace appointed "Hall of Fame" members

ロイ・グレイス氏がクーパー・ユニオン校(Cooper Union School of Art)出だということを、今回の紹介で初めて知った。ここは、建築・工学・美術の3学部の少数精鋭主義。というのも、完全奨学金制度なので、全米から家庭は貧しいけれど飛びぬけた俊才たちが集まってくる。だから、グレイス氏も、ユダヤ系やアラブ系、イタリア系、そしてアフリカ系移住者の多いブロンクス区で育ったということは、美術大学をめざすなら、クーパー・ユニオンしかなかったであろうとおもう。VWビートルのTV-CMに[葬式]という百万長者を戯画化したものがあるが、ブロンクス育ちだから発想しえたのかもしれない。もっとも、育ちでその人の作品を解説するのは間違っている。その後の勉学と体験が人生観をふくらませるのだから。


グレイスは、ニューヨーク市ブロンクス区で成長し、1962年にクーパー・ユニオン校を卒業した。 現在、彼は校友会の委員でもある。 この母校は、デザイン上の問題を分析・解決する無限の可能性の認識を教与してくれ、美的感覚を誘導し、哲学的な枠組みと、白紙上になにを構築するかを与えてくれたと賞美している。
1981年、クーパー・ユニオン校は、プロとして活躍している者に与えられる最高の校友者賞---Gaudens Medalを授与した。
卒業後の数年間、グレイスは25の異なった仕事をこなした。 本の装丁からパラマウント映画のためのアニメーター、パッケージ・デザインなどがその一部である。 それらはグレイスが求めて行った体験で、すべては広告界に入るための準備であった。 25歳になった時にベントン&ボウルズ広告代理店に入り、1年とたたないうちにアートディレクターに昇進してクライアントを持たされた。 その後、グレイ広告代理店で1年働いたあと、ドイツのDDBへ。最終的に落ち着いたのはニューヨークのDDBであった。1964年のことである。

TV-CM IBM 【George Burns II】


このCMは観たことがない。40年近くも前のCMだから、パソコンではなくIBMの初期のころの大装置のものと推測。記録を完全コピーできることを同一人物の反転画像で訴求したのであろう。

雑誌広告 IBM 【記憶装置付】


これも40年近く前の訴求。
記憶装置付きタイプライターですな。
It has a memory like a typewriter.
アニメイターもやったというグレイス氏のイラストか?


【chuukyuu注】クーパー・ユニオン校は、ニューヨーク市にあって、プラット・インスティチュート校とともに、きわめてレベルの高いデザイン教育をほどこす大学級の教育施設である。クーパー・ユニオンは、鉄道王だか鉄鋼王だかの信託遺産で運営されていて授業料は全額奨学金、返済の義務もないので、俊英たちが入学を希望するものの、1200人のうち合格するのはきわめて少なく、65名ともいわれている。
ぼくの知っているここの卒業生では、タイポグラフィの神様といわれた故ハーブ・ルバーリン氏とその夫人故シルビアがそう。ルバーリン氏によると、クラスではシルビア嬢が1番で、ルバーリン氏はドン尻だったと。結婚後、シルビアは家庭で育児に専念。 
図版は、松本達氏とぼくでつくった『ハーブ・ルバーリン』(誠文堂新光社 復刊の話がきている)の本。
>>クーパー・ユニオン校(Cooper Union School of Art)に関して
プラット校出は、ジョージ・ロイス氏とレン・シローイッツ氏がそう。