創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(568)創造性をはばむもの(了)

創造性をはばむもの(3)


            ハーブ・ルバーリン




エグゼクティブの罪


さて、この委員会の議長、社長、取締役副社長、創造性の少ない代理店の経営者および産業界へひと言。


3000マイルもの広さをもつフェンスに立って煮えきらない決定をする人によって創られる優柔不断な雰囲気の中では、創造的な人の機能は弱々しくしか発揮されないでしょう。
広告代理店経営者というものは、いつもあなたまかせなのです。
そしてこれがついには個性を分離してしまうのです。
クリエイターに話しかける時にはクリエイティビティに対して、から世辞を言ってのけます。
そして市場調査屋と話すときには、クリエイターを裏切るのです。


アカウント・エグゼクティブに言葉をかけられると、どんなに費用をかけても売上高を守ろうとし、そしてまた怒ったクライアントにこらしめられれば、アカウント・エグゼクティブと自分との関係を否認してのけます。
彼の人生における偉大なる目的は、相手が金持ちであろうが貧乏人であろうが、太っていようがやせていようが、共和党であろうが民主党であろうが、白かろうが黒かろうが、異邦人であろうがユダヤ人であろうが、米国に住むあらゆる男・女・子供に対して同じ広告でうったえることなのです。


この代理店経営者は、永久に道路の真中の安全なダブルライン安全地帯を進んでいきます。


彼らのスローガンは、「DDBを葬れ! 」なんです。


レッテル屋の罪


さて、最後にもうひとつの邪魔者について。

それはタレントを探がしだして、きちんとした小さなパッケージにかたく包装して棚に安置してしまう配役選定者という男たちです。
この人たちには才能というものがわかっていません。
ただただ経駿あるのみ。


私の25年以上にもわたる経験を例にあげてみましょう。
それで私の言おうとしていることが一番よくわかっていただけると思います。
1941年に私は、米国における案内広告できわ立ったデザイナーとして受け入れられておりました(1段1インチの不動産広告)。
そんなわけで私は、案内広告用デザイナーとして分類されておりました。


この伝統に反して1945年に勇敢なデザイン会社が、カラーの見開き薬品広告のために私を雇ってくれるまで、私はこの小さなスペースにおしこまれていました。
それで私はカラー見開き薬品広告用デザイナーとなりました。
(今でもこのイメージは残っているようですが)。

Magazine ad for Bristol Labs Polycillin



G.I.バクテリアがG.U.伝染病をひきおこした時に、
このぺニシリンは、広範囲の抗生物質として使用できます。


AD: Frank Wagner
photo: Paul Himmel


しかし、この間にだんだん多くのセールス・プロモーション関係の仕事に熱中するようになりました。
ダイレクト・メイル、POP、販売促進用のいろいろなものなどをデザインしました。
で、私は薬品広告とセールス・プロモーション・デザイナーとして知られるようになりました。


1956年に、NYADC展でその年の最優秀業界紙広告として金メダルを受賞しました。
それから私は耳までとっぷりつかって、業界紙広告に熱中しました。
だから、私はセールス・プロモーション的意図を持った業界紙広告デザイナーにされました。
しかし、1958年には、最優秀消費向け新聞広告として金メダルを受賞しました。
私はそれで耳の穴まで消費者向け広告にひたりました。


レッテル貼り屋が私のカテゴリーをさがそうとしているうちに、私はサタデー・イブニング・ポストのデザインを刷新するようにたのまれました。
そして、エロスその他種々の編集ものをやってきました。
1963年に編集にすぐれているとして、金メダルと3つの部門賞を受賞しました。
彼らの目から見れば、私が広告デザイン畑から追放されるのは、初めからわかりきったことでした。
私はエディトリアル・デザイナーとして巣立つはずでした。

editorial page for Post magazine



自由の風が吹くところ
彼は,彼女忙奴隷という言葉には,全然意味がないということを立証してやらねげならなかった


photo: Irv Bahrt


その時です。
こわいかに。
私がそれまでずっと創造や製作に手を染めてもいたテレビ・コマーシャルが、1963年度の調髪剤業界での最優秀コマーシャルとして「クリオ」賞を受賞したのです。
私は現在までずっと頭の上までフイルムに熱中しています。
私はこのフイルムという媒体を愛しています。
そして、私はこれらの分類学者に私をフイルム・デザイナーとして、ディレクターとして分類させるように印象づけるようなことをしてきました。
彼らがそう思いついた頃、彼らは私がかなりの時間をパッケージングや企業デザインにつかっていることに気づきました。
彼らは今では私のことを、エディトリアルの企業広告の、案内広告の、見開きページの薬品広告の、プロモーション類の、業界向けおよび消費者向け広告の、そしてテレビやPR映画のデザイナーと呼んでいます。私は自分のことを、ハーブ・ルバーリンと呼んでいます。
それが私そのものですから。(上田純子・訳)

ハーブ・ルバーリン氏とのインタヴュー 目次
>>1 『エロス』誌のこと
>>2 育ちとクーパー・ユニオン校時代
>>3 親友ルーイス・ドーフスマン氏
>>4 広告づくりは好きなんだけどね---
>>5 「ノン・グラフィック」について
>>了 あなたの関心はいま、何に集中していますか?