創造と環境

コピーライター西尾忠久の1960年代を中心としたアメリカ広告のアーカイブ

(566)創造性をはばむもの(1)


資料庫から、切り抜きがでてきました。多分、40年ほど前の『アイデア』誌のページでしょう。そのころ。狂ったように、ニューヨークの一流アートディレクターたちを紹介していました。これも、ルバーリン氏に依頼して送られてきたものです。巨人は、なぜか、ぼくのことを好いていてくれて、アトリエを訪ねると、長い時間、話してくれました。また、スピーチのためにご夫妻を日本に呼んだときも、いそがしいのにお2人できてくれました。いい時代でした。


創造性をはばむもの(1)
『アイデア』1966年7月号


                    ハーブ・ルバーリン


プランズ・ボードの罪


私たちは、アメリカと呼ばれている社会に住んでいます。
この国は、人間の最も貴重な所有物は彼自身の個性であると認めています。
しかし、米国の産業界とそれを繁栄さす広告という仕事は(2,3の顕著な例外はありますが)、彼ら自身にも、クリエイティブな人間にも、同じくらい注意を向けさせる自己表現的な試みを偏見の目で見ています。


コマーシャルにはあまり関係のない小説や画家とは違って、広告デザイナーやライターは、刺激的な自分のイメージが、時にはごてごてしておもしろくない広告代理店のイメージのために薄められることを恐れて、無署名でいなければならないことがよくあります。
さらに言えば、代理店側も注意深く作られてはいるが時にはおもしろくないこともあるイメージを、クライアント側の同じように注意深くつくられてはいるがやはりおもしろくない場合がほとんどのイメージで薄められてしまったほうが得策だと憤っているのです。


創造上の個性尊重という考え方は、それを持たない人種にねたまれているのです。
クリエイティブ・プランズ・ボードもそのひとつです。
個人々々の集まりであるグループは、それがグループてあるからという単純な理由により、個性的であるこはできません。
烏合の衆には個性的な目ききがいないものです。
プランズ・ボードか「チーム作業」になりはてるのは当然のことです。
この「グループによる思案」といったら、群集の中のちょっとした目ききぐらいにしかすぎません。
またそこから出てくるものときたら、みんなの意見のかけらの集まりです。
そしてどれも価値がないもので、それが集まったってなんにもならないものができあがるのがオチです。

バーリン氏がエディトリアル・デザインをした『エロス』誌。
マリリンの死の1週間前の写真



写真:バート・スターン


自分たちの慢性胃炎の胃には、消化不良だからというのできざんだレバーの中から鶏の油身を拾いあげてすてる男の集まりです。
この人たちはこれがなかったら全成分がバラバラになってしまうことがほとんどわかっていないのです。
プランズ・ボードは代理店とクライアントとの緩衝機関です。
いつも何か偉大なことが起こりそうな期待に胸をうちふるわせておいて、それからそれが実現しないようにしておくのがこの機関の仕事なのです。
米国のマンモス広告代理店に才能のあるアートディレクターやコピーライターが数多く雇われているということは驚くべきことですが、逆に、これらの人の部屋から優秀な作品がほとんど出てこないということはあたりまえのことなのです。
クリエイティブ・プランズ・ボードが出す処方せんは、いつでもグループ療法なのです。
もうひとつこの個性尊重をたたきつぶす粗野な人がいます。
ほとんどのアカウント・エグゼクテイブがそうです。
コピーライターとアートディレクターの創造的なアイデアをクライアントに説明する通訳者のはずです。


しかし‥‥‥です。
彼はクリエイターの言葉では話しません。
私に言わせれば、より良い商品が売れることをいつも願い、それが手に入ったら炎のようになって、その商品を売りに出かけるのが偉大なセールスマンであるはずです。
それに、良いものと「偉大なもの」との微妙な違いにも気づく能力がなければなりません。
ほとんどのアカウント・マンは凡庸な広告で満足しています。
それがクライアントの望むものであればすべて「偉大なもの」で、そうでなければすべていやな臭いがする‥‥ときめこんでいるのです。
彼はクリエイティブ・プランズ・ボードの忠実な支持者であり、創造的な提案をほとんどしないので、その席によく招待されます。
クライアントのイメージにあうように自分を創り上げます。
ですから、ふたつ以上のクライアントを受持つと、精神分烈症になってしまいます。
いくつもいくつも帽子をかぶり、ロの両側でしゃべってのけます。
彼の人生の目的は平均的なアカウント・スーパパイザーになることなのです.
(訳・上田純子)


マーカーでの×印もマリリン自身の手による

私のグラフィック生活史

1940年  ニューヨーク世界博における数々の展示会のデザインを担当
1941年  小さな広告代理店で、不動産や求人広告をデザイン
1942年  本やブック・ジャケットのデザイン専門
1943年  フェアチャイルド出版社のメンズ・ウェア誌のAD
1944年  工業と電機関係専門の代理店でAD
1945年  サドラー&ヘネシー社に入り、薬学関係の広告やプロモーションを専門にする
1952年  この社のパートナーになり会社の名前に自分の名をつらねる(サドラー・へネシー&ルバーリン)
1954年  SH&Lで一般広告の代理店をはじめる.アートとコピーの責任をひきうけ、クリエイティブ・ディレクターとなる。
1964年  広告にあきあきして、ハーブ・ルバーリン社というデザイン会社を開く。私自身のデザイン会社を所有しているので、個人として私が選ぶ分野の仕事ならどんな分野でもやれるという特権を持っています。
現在はTVCM、広告キャンペーン、フィルム・タイトル、トレード・マーク、企業広告、パッケージング、建築、室内装飾デザイン、POP、プロモーションなどの分野に専念。


過去10年間に、広告、デザイン、タイポグラフイなどについて多くの記事を書きスピーチをしてきたし米国のほとんどの広告展、AD展の審査員を歴任。
また、アート・スクール、大学などで講義をし、デザイン・クラスで教鞭をとった。
1953年来、NYADC、TOC、AIGA、DMAA (ダイレクト・メイル・アドバタイジング・アソシエーツ)その他から多くの賞を得、1962年には、ADとしての最高の名誉であるアートディレクター・オブ・サ・イヤーにNSADより指名されれた。
1965年に、母校クーパー・ユニオンより2度にわたって栄誉をうけた。それは、クーパー・ユニオンの会長および評議員より「専門的な業績にたいしての賞」と同窓会よりグラフィック・アート界への際立った貢献を賞して「オーガスタス・セント・ゴーデンズ・メダル」を受賞。


>>(2)

ハーブ・ルバーリン氏とのインタヴュー 目次
>>1 『エロス』誌のこと
>>2 育ちとクーパー・ユニオン校時代
>>3 親友ルーイス・ドーフスマン氏
>>4 広告づくりは好きなんだけどね---
>>5 「ノン・グラフィック」について
>>了 あなたの関心はいま、何に集中していますか?