創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(258)ロイ・グレイスの『名誉の殿堂』入り(3)

      Mr.Roy Grace appointed "Hall of Fame" members


今回の記事で、グレイス氏が「ハード・セル」「ソフト・セル」に言及しているのは、このシリーズ第1回目に掲出の一般売薬制酸剤アルカ・セルツァーのためのTV-CM「スパイシー・ミートボール(訳:乙な味のミートボール)」に遠因がある。ことの経緯は後で解説するが、あのCMを「ソフト・セル」だから売りが少ない。DDB流「ソフト・セル」の時代は過ぎた、いまは「ハード・セル」でなくては---とアルカ・セルツァー側へぶって、DDBからアカウントを奪った者がいたのである。メリー・ウェルズ夫人である。論旨を理解しやすくするために、第2回目の後半部も異例の重複・採録してみた。


グレイスによると、良い広告は、広告代理店の制作陣の才能とクライアントとの協力関係、そして勇気と知性によって達成されるとする。
つまり、販売メッセージを、その気のない聴衆に向けて送らなければならないために、企業はメッセージを伝える広告に、面白さを加味すること容認するようにもなってきていると。
コメディや劇化が販売命題(セリング・プロポジョン)に背反するとはいえないけれど、それから離反していいというものではない。グレイスのやり方を見ても、自分勝手な思いつきやとてつもない幻想に身をまかせているのではない。 いろんな制限があるにしても、製品からイメージをふくらませて、新しい訴え方を考えだしているのである。決して安易な道をえらばず、日々、身を削って、製品イメージの高揚に立ち向かいつづけていることが成功につながっているといえる。いまのようにさまざまな情報があふれている時には、クリエイティブ・ディレクターたるものは、広告で製品イメージの純化につとめるべきなのである。そのためには、いわれているルールを無視することも恐れてはならない。
広告に基準があるとすれば、それはただ一つ---売るということであり、これ以外の基準はあるべきではない---とグレイスは決めている。グレイスは、「ハード・セル」と「ソフト・セル」に対する自分自身の解釈を持っている。 すなわち、良い広告とは売りにつながっているということにつきると。販売命題に注意を向けさせ、記憶させ、信頼させることによって売りが達成される。「ハード・セル」とは、広告のジャングルの中で、観手に、こっちのメッセージを届かせることなのである。


つづく

TV-CM アメリカン・ツーリスター【ゴリラ


檻の中のゴリラが、赤いスーツケースをはげしくぶつけたり、投げたりした末、すごすごと退場。<アナ>世の中には、あなたのスーツケースを乱暴に扱う人がたくさんいます。不注意なドアマン、忙しいタクシー運転手、ポーターなどなど。大切な中身をきちんと守るアメリカン・ツーリスターで安心のご旅行を---。


雑誌広告 アメリカン・ツーリスター【ジャッキ代用



「前略 アメリカン・ツーリスター殿
貴社は、とほうもないジャッキを作りましたね」


解説】西尾忠久著『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社刊 1972)[第10章 現代はハード・セルの時代]より抜粋。


1970年も押しつまった12月になって、メリーはマジソン街人士から総攻撃をうけるような事件を起こしてしまった。ドイル・デーン・バーンバックDDB)から、アルカ・セルツァーのアカウントを奪いとったのである。
アルカ・セルツァーは一種の制酸剤で、二日酔いとか食べすぎに効くといわれている一般家庭薬。マイルズ社の製品で、1931年から販売されている、米国では有名な商品でもある。こういう有名商品のことを米国の広告業界ではプレステージ・アカウントと呼んで、その商品の広告キャンペーンをつくることで扱い広告代理店の名声があがるとしている。
もっとも、DDBがアルカ・セルツァーのアカウント1,300万ドル(46億8,000万円)を得たのは1年4ヶ月前のことであったし、DDBのクリエイティブな力が卓越しているという名声をここ10年間築きあげてきていたから、アルカ・セルツァーをプレステイジ・アカウントとは考えていなかった。
むしろ、DDBの広告に対する考え方を容易に受け入れようとしないマイルズ社側と、しばしば対立していたので、やがてはDDBを去っていくアカウントと噂されていた。


このあたりの苦衷をグレイス氏は、以下のインタヴューで漏らしている。
DDBのチーム・プレイを語る] (1234) 


だから、DDBからプレステージ・アカウントを奪ったといって、メリーが非難されたのではない。
メリーが総攻撃を浴びたのは、そのやり口の汚さであった。
というのは、マイルズ社でアルカ・セルツァーなどの消費者向け薬品部門の責任者ドン・ブライアント氏とかつて親交のあったメリーが、1ヶ月ほど前にマイルズ社に出かけて行って「DDBのような広告ではアルカ・セルツァーは売れない。現代ではもっとハード・セル(きつイ売り込み)の時代だ」と提案したという噂を聞いた他の広告代理店の幹部たちが、メリーのことを「裏切り者!」ときめつけたのである。


それまでもメリーおよびWRGに対する陰口はあったが、そのほとんどは業界の老人や才能のない人たちが、メリーの革新的なアイデアに対してやっかみ半分にやっていたものであった。
クリエイティヴな広告を目ざしている広告代理店---たとえばDDBなどからは、同志と思われていた。メリー自身も、DDBで学んだことを誇らしげに語っていた。
そのメリーが「クリエイティブ広告の時代は終わった」といった意味の発言をしたものだから、怒ったわけだ。DDB派と目されている某広告代理店の社長などは、ハゲ頭から湯気を立てて「クリエイティビティで一番もうけてきたメリーが、クリエイティビティをけなすとはけしからん」と公けの講演会でメリーを名指で非難した。


しかし、どんなに攻撃されてもメリーはケロッとしていた。野次馬的な興味で取材にくる記者連に、
「マイルズ社から意見を求められたから話したまでのことですよ。それがどうして大騒ぎになるのかしら? どんなに会社だって、自分のところの売り上げを伸ばすための助言は、聞きたがるものでしょ」
と説明しただけであった。
このメリーの説明はたしかに筋がとおっているし、マイルズ社が「門戸解放」主義を標榜して、マーケティングや広告上の忠告を述べにくる広告代理店の人たちにはちゃんと会っていることも事実であった。


メリーの説明を聞かされても、記者連は信じなかった。というのは、メリーとマイルズ社との長く古い因縁を知っていたからである。


それは、1964年以来のものである。
その年にメリーはDDBを辞めて、年俸6万ドルでジャック・ティンカー&パートナーズ社へ移って、いわゆるパートナーの一人となった。
そこへ、1931年以来30年以上もつづいていたエクハート広告代理店との関係を断ったアルカ・セルツァーがジャック・ティンカーへやってきた(アルカ・セルツァーを失ったエクハート社はまもなく潰れた)。
これを機会に、メリーは、それまでマーケテイングおよび広告の「シンク・タンク」的存在でしかなかったジャック・ティンカー社を一般広告代理店に衣替えさせる提案をして受け入れられたことは、すでに紹介した。
たとえメリーでなくとも、1,000万ドルを超える広告費を持つ商品を見れば、そこから生まれる150万ドル以上の広告扱い手数料収入をみすみす見逃す者はいまい。
したがって、ジャック・ティンカー社改編のアイデアは、誰にでも考え出せたろう。
しかし、伝統的な家庭薬アルカ・セルツァーの新しい印象を創造する仕事は、メリーでなければできなかったかも知れにない。
新鮮さのまったくないアルカ・セルツァーを前にして、スチュアート・グリーンをアート面担当者として任命するとともに、人びとの注意を「腹」に向けさせる広告をつくり出すように命じた。
メリーの考えは、こうであった。
すなわち、現代人は病気をかかえすぎている。頭痛、イライラ、虫歯、歯並びの矯正、鼻炎、近視、心臓病、水虫---人びとの躰や健康に関する関心は拡散している。
しかも、各様の医薬品広告や保険記事によっておどされすぎている。
一方、食べすぎとか二日酔いなんてものは病気でもむなんでもない。
もっと楽しくやりすごすことのできるものである。
TV-CMで「楽しくなおる」という精神的な暗示をかけるべきだ---という観点に立った考えであった。(略)


こうしてつくられたのが、かつて紹介した「お腹のモンタージュ」CMである。YouTubeでは、マイルズ社からアップ制止があったので、コマ割りを掲示した。


メリーたちがWRGを創業するためにジャック・ティンカー社を去ったあとも、アルカ・セルツァーは3年間、ティンカー社に残った。(略)
マイルズ社は1969年夏、アルカ・セルツァーの広告扱いをDDBへ移し、その痛手でジャック・ティンカー社は経営不振に陥り、破産寸前にブリチャード・ウッド代理店に合併され、ティンカー・ブリチャード・ウッド社し社名を変えた。


一方、アルカ・セルツァーを引きうけたDDBは、空前といわれるCMをつくり出した。その一つを紹介すると「乙な味のミートボール」という題のもの。画面はミートボール・スパゲッティのCM撮りの設定で、タレントが「このミートボールの乙な味」と叫ぶシーンなのだが、アクセントが違ったり、言葉につまったりで何回もNG。そのたびに一口ずつ食べたので、しまいには胸がつかえてセリフが出なくなる。「こういう時、アルカ・セルツァーが必要です。あなたの胃を軽くします」とアナウンスが入り、さらにもう一度試みる。こんどは大成功---と思ったら、オープンのふたがパタンと外れてむまたもNG。
つまり、その商品を使えばこんなにうまくいく---という定石のウラをかいたDDBらしいやり方のコマーシャルで、絶賛を浴びた。ティンカー社以上の出来映えとの声が高かった。


しかし、コマーシャルの出来栄えとは別に、1970年のアルカ・セルツァーの販売高は4%落ちたのである。理由は、風邪薬を加えたアルカセルツァー・プラスという新製品の発売によって、市場共食い現象が生じたからである。DDBは終始一貫、そのことを指摘してマイルズ社に改善を求めていたという。
ところが、メリーは「鎮痛・制酸剤市場はファンタイティックに成長します」とマイルズ社側に言ってのけたのである。「それには、どの商品がどういう効用を持っているかをはっきりと訴えなければいけません」
だから記者連から「あなたがティンカー社時代につくったアルカ・セルツァーのコマーシャルも、DDBのもの以上にあいまいではなかったか」と聞かれても、メリーは平然と言ってのけた。
「当時は、アルカ・セルツァー・プラスなんて商品はありませんでしたからね。市場の状況が変わっているのに、6年も昔のやり方でやるなんて---」
とにかく、こうした騒ぎとメリーへの非難の中で、アルカ・セルツァー関係の広告の扱いはDDBからWRGへ移り、1970年最大のアカウント移動といわれた。


この記事をメリー・ウェルズ物語
アルカ・セルツァーの過去がそうであったように、WRGにとって「死のアカウント」となるか、プレステージ・アカウントとなるかは、今後のやり方次第である。私たちは待つよりほかにない。---と無責任に結んで、chuukyuuは米国クリエイティブ派広告事情探査から足を洗ってしまった。当時の日本の広告界から嫌味がつづいたからである。