(222)ディック・リッチ氏とのインタヴュー(4)
Wells Rich Green 社 共同経営者兼コピー・チーフ(当時)
このインタヴュー記録は、ブーレン別冊『アート派広告代理店 その誕生と成功』(誠文堂新光社 1968.10.15)からの抜粋である。手元のメモをくって、昨日までの3回にわたって公開したものの2年前---1966年11月の渡米で行ったものとわかる。'66年といえば42年前だし、ウェルズ・リッチ・グリーン(W・R・G)社創業後の7ヶ月目である。リチャード・リッチ氏が忙しい中、よくまあ、時間を割いてくれたものと、いまになって感謝している---というより、同年輩の無名の日本人コピーライターが、臆面もなくインタヴューを申し込んだものだと、内心、無鉄砲だった当時を振り返っている。のちには、親友の仲間入りしてくれたのだが。そのこととは別に『アート派広告代理店』でとりあげた8社の現在も、いつか報告する義務も背負っているとの感を意識しているこのごろである。
メリー・ウェルズとの握手
「Mr. chuukyuu. こちらがメリーだ」と、リチャード・リッチ氏は、インタヴュー中の部屋へ、「新しい見込みクライアント2件から、打診の電話があったわよ」と告げには入って来た30代の美人を紹介した。
私たちは握手した。
マジソン街でいま話題の女性---ミズ・メリー・ウェルズの華奢な掌を握りながらぼくは、日本人で最初にミズ・メリーと握手した最初の日本人という栄誉をものにしたかな」と、超ミーハー的な感慨をかみしめていた。
(ミズ・ウェルズは、翌1967年暮れ、それまで、とかくの噂のあった同広告代理店のクライアントの一つであるブラニフ・インターナショナル航空のロレンス社長と結婚、ローレンス夫人となったのだが、ビジネス・ネームは、あいかわらずメリー・ウェルズで通した。この結婚は、彼女を『アド・エイジ』誌の1967年米広告界の大ニュース・メーカーの1人にあげさせてしまった)。
また、この握手によって---というのはいいすぎだが---このあと彼女を、20世紀のビジネス界の美と才能のシンデレラとみて、『メリー・ウェルズ物語』(日本経済新聞社 1972)まで上梓、ミーハー精神、ここに極まれりって感じ。
ブラニフ航空のイメージ一新
1965年4月、南西部に限られた評判をもち、堅実ではあったけれどたいしたキャリアをもたないブラニフ航空の社長に新しくローレンス(Harding Laurence)氏が就任、広告方針をジャック・ティンカー社にたてさせることにした。
ティンカー社でこのブラニフ航空を担当したのが、アルカ・セルツアー(頭痛、宿酔いの薬)の広告キャンペーンで名をあげたウェルズ、リッチ、グリーン(Stewart Greene)の3人だった。
ミズ・ウェルズはブラニフ航空には、企業イメージを一新するような、全く革命的な何かが必要で、あると判断した。
「航空会社はみな同じです。彼らは同じような飛行機にあなたを乗せ、同じような方法であなたを目的地まで運びます。私たちは、人を夢中にし、あれはなんだろうと言わせるような、何かを必要としました。そしてある日、これが頭に浮かんだのです」
これ---とは、ジェット機の胴体を7色の違ったパステルカラーに塗りわけることであった。彼女は、アレキサンダー・ジラルド(Alexander Girard)に機内装飾を依頼し、イタリアのファッション・デザイナーのエミリオ・プッチ(Emilio Pucci)にスチュワーデスの風変わりな制服をデザインさせた。
単調な飛行機よ、さようなら!
スチュワーデスの制服を一新して、
「空中ストリップ」
ロうるさい旧弊な広告人たちの「イースター・エッグ(復活祭の色塗卵)航空会社」とか、「塗装を重ねることはジェット機のスピードに悪影響を与えると聞いているんだがね---」とかいった、やっかみ半分の噂にもかかわらず、ブラニフ航空の1966年前半6ヶ月間に売上げが41%増、利益で114% 増と、業界全体の乗客数の伸びの2倍もの成果をあげてしまったのである。
ローレンス社長もはっきりと、「この新流行のキャンペーンがなかったら、たぶん私たちはこんな成果をあげることはできなかったろう」と、キャンペーンの効果を認めていた。
【chuukyuu注】上記のくだりは、明日から連載する、コピーライター---チャリー・モスとのインタヴューをより理解するためのデータのつもり。
長すぎるタバコは慣れないと不都合な点もある
W・R・G広告代理店が発足した翌日、ブラニフ航空がアカウント契約を結び、その次の日、フィリップ・モリス社がコンタクトを取ってきたことは、リチャード・リッチ氏とのインタヴュー(割り込み篇)でリポート。
(>>リチャード・リッチ氏とのインタヴュー)
chuukyuu 「このベンソン&ヘッジズ100という商品名は、長さが100ミリだから100というのですか?」
リッチ 「そうです」
chuukyuu 「あなた方のネーミングですか?」
リッチ 「いいえ、フィリップ・モリス社で、すでに決定していました。でも、私たちはいま、モリス社から新製品開発の依頼を受けています。その新製品のネーミングは、私たちがつけることになるでしょう」
新製品の開発が、どの程度の規模で行なわれているのかは聞きもらしたが、この代理店がブラニフ航空のために考えている空港ターミナルの改善案(これについてミズ・ウェルズは「この世の中で最低の時間は、空港で搭乗を待っているときですからね」と暗示している)などから類推すれば、大衆の間で常識化してしまっている喫煙に関する習慣をぶち破るような観点からすすめられているものと思いたい。
ベンソン&ヘッジズといえば、1960年ごろまでDDBのアカウントであった。
バーンバックDDB社長の信条にしたがってタバコの広告は扱わないと同社が決めたときからDDBを離れたアカウントである。 ミズ・ウェルズもリッチ氏もDDBにいたことがあるから、フイリップ・モリス社との知己がたもたれていたのかもしれない。
それはともかく、「鼻に火をつけるなんて心配はない」という利点と「ふつうサイズのシガレット・ケースには納まりきらない」という不利な点にメッセージを集中させたベンソン&ヘッジズl00のキャンペーンは、大成功を収めた。
モリス社の幹部がこう語っているのをみてもわかる。「いままでのわが社の歴史にかんがみて、広告によってこれほどの販売促進の結果をみたことはない」
報告によると、アメリカン・タバコ社のポール・モール・ゴールドへの対抗商品として開発されたこの超ロングサイズ・タバコは、6月に始まった第1期キャンペーンが終わった月末には、売上げを4倍にふやしていたという。
リッチ氏も私に「とにかく売れたんです。生産が追っつかなくなって、モリス社はメンソール入りを中止してその設備を流用したんですから。」と語りました.
ベンソン&ベッジズ100の「不利益な点」をキャンべーン・テーマをフィルム化したテレコマーシャルは、ぼくがリッチ氏に会った翌々日の11月18日に、、バークサイドのプラザ・ホテルで開かれた「1967年テレビ・コマーシャルの試写会」でも集まった広告人たちからヤンヤの拍手を受けていた。
(このときW・R・G社が出品したのは、ブフニフ航空の老婦人の記念品あさりと、ベンソン&へッジズ100のエレベーターでタバコをはさむコマ一シャルの2本)。
別の機会(インタヴュー)にリッチ氏はぼくの質問に答えて、
リッチ 「べンソン&ヘッジズのフイルムは、このタバコを有名銘柄の一つにまでのしあげ、1957年以来、最も成功したタバコのコマーシャルにまでなりました。 しかし、広告界の人びとは、最初はこんなものじゃ失敗するに決まってるって、バカにしていました。結果は逆で、驚異的な売上げをもたらしたのです」
「もし、私たちが謙虚だったら、私たちは完全だったでしょう」
chuukyuu 「いま扱っているクライアントの名をあげてください」
リッチ 「ブラニフ航空とベンソン&ヘッジズ100とは有名ですね。ペルソナ・プレイドカミソリの替刃です」
chuukyuu 「さっき試写していただいたテレビ・コマーシャルの中にあった、大学病院の手術室で、医学生たちが見守っている中で執刀するように思わせて、患者が映ると、実はひげ剃リの実験だった---という、あれでしょう?」
リッチ 「そうです。このカミソリ替刃は、医療用の刃物をつくっている会社がつくったものなのです」
chuukyuu 「だから、手術室を持ってきた」
リッチ 「そういうわけ」
chuukyuu 「そのほかのクライアントは?」
リッチ 「パーマ・シェイプひげ剃リ用のクリームです」
chuukyuu 「あのコマーシャルは、意味がよくわかりませんでたよ」
リッチ 「そうですか。それからユチカ・クラブ・ビールですね」
chuukyuu 「知っています。DDBで前にやっていたビールでょう?」
リッチ「そうです」
chuukyuu 「あれは、確か、バーンバック社長とユチカ・クラフブの社長が話していて、『これほどまでにしてどビールをつくって、引き合うのかどうか、ときどき凝間に思うことがある』とユチカ・クラブの社長がつぶやいたのを、バーンバックさんがヘッドラインにしたという話がありますね」
リッチ 「これは驚いた。よく知っていますね」
chuukyuu 「この代理店のことは、まだよく知らないんですよ」
リッチ 「ラ・ロッサ・スパゲティとマカロニです。それからブリストル・マイヤーズのもの」
chuukyuu 「ブリストル・マイヤーズのなんですか?」
リッチ 「それはまだ秘密です。それから来年の1月から、ウエスタンオ・ユニオン(電報)以上で、3,000万ドルになります」
chuukyuu 「3,000万ドルの扱い高といえば、50〜60位の代理店になることになります。すごいですね」
リッチ 「1968年---つまり2年後には2億ドルの代理店になっていますから、見ていてください」
chuukyuu 「ほんとうですか!2億ドルといえば現在のDDBの扱い高ですよ。ビッグ10入りしてしまう」
リッチ 「そうですよ。自信があるのです。だって私たちは最初の5ヶ月で、2,500万ドルの依頼を断わったんですからね」
ぼくは信じられないという目で、やや上向き加減で眼鏡を光らせながら話すリッチ氏の顔を見つめた。
リッチ氏はにっこり笑って壁を指さした。そこには、"If we were modest、we would be perfect.(もし私たちが謙虚だったら、完全だったでしょう)"という言葉が貼ってありました.
chuukyuu 「リッチさん、あなたの作?」
リッチ 「そうです」