創造と環境

コピーライター西尾忠久の1960年代を中心としたアメリカ広告のアーカイブ

(218)ディック・リッチ氏とのインタヴュー(1)

      Wells Rich Green 社 共同経営者兼コピー・チーフ(当時)

ウェルズ・リッチ・グリーン杜といえば、いま、マジソン街で話題の広告代理店である。メリー・ウェルズ美人社長のことはさておいても、この広告代理店からほとばしり出る新しい広告観には、DDBといえども、一目おいている。なぜ、彼らが注目されるのか、なぜ、新しいのか---ディック・リッチ氏の話の中から解答を汲みとってほしい。




・・・以上は、1967年ごろに行ったインタヴューをまとめた『みごとなコピーライター Great American Copywriters 』(1969.7.15)の前書きである。その後、経営上の意見の違いから---ということでディック・リッチ氏はWRG社を去った。1967年に37歳だった氏は、どうしているだろう。どなたか、グーグルでもして情報を探してほしい。株式の公開で手に入れた創業者利益で、自己の信ずることをしていれば「よかったね」と言ってあげられるのだが。

代理店を渡り歩いて広告づくりのコツを学んだ。


chuukyuu 「あなたがコピーライターになったのは?」


リッチ 「さあて、ずいぶんと昔のことですからね。1951年だったから、17年前ですね」


chuukyuu 「なぜ、この仕事を選んだのですか?」


リッチ 「知らないうちにこうなってしまったんですよ。昔から書くことが好きだったもので。でも、直接の動機がなんであったかということは、覚えていません。演劇や映画にも興味があったのですが、結局、最後には広告のライターになっていました。16歳の時には写真家になるつもりで、写責の勉強をやったり---」


chuukyuu 「どこで、どうやって広告やコピーライティングの勉強をしたのですか?」


リッチ 「大学で広告の勉強をすこしやりました。しかし、実務の面で参考になったとは思えません。実務の勉強は、この業界にはいって、いろんな広告代理店を渡り歩いているあいだにやりました。そのあいだに自分がとり入れるべきものはとり入れ、捨てるべきものは捨てて、今日まできたわけです。過去17年のあいだに、いろいろなことをやりましたからねえ」


chuukyuu 「あなたが、ウェルズ(Mary Laurence Wells)夫人と知りあったのは?」


リッチ 「私はDDBにはいる前に、ギードナーという広告代理店に6ヶ月ばかりいたのですが、そこの仕事があまりおもしろくなかったものですから、『ニューヨーク・タイムス』の求職欄に自分の広告を出したのです。あちこちの代理店から返事がきました。その中のひとつがウェルズさんからのものだったのです。
そこで私は、自分の作品のサンプルを送って採用になりました。でも彼女といっしょには仕事をしませんでしたよ。DDBでは」


chuukyuu DDBで担当したアカウントは?」


リッチ 「トム・マカン靴とオリン(化学会社)のいくつかの部門。それからポラロイド・ランド・カメラをすこしとケムストランド・ナイロンをすこし。おもなものは, トム・マカン靴とオリンです」


chuukyuu DDBでは、なにを学びましたか?」


リッチ 「とてもたくさんのことを学びましたよ。私は、DDBで初めてテレビ・コマーシャルを経験しましたからね。そのころ、テレビ・コマーシャルというのはミステリアスなものと考えられていましてね。海のものとも山のものともわからない特別な知識と技術を持っている人だけが、テレビ・コマーシャルを扱えると、当時は信じられていたのです。
ところが私は、そうは思わなかった。テレビのほうが印刷広告よりもやさしいと思っていましたし、いまでもそう思っています。好き嫌いでいえば、私自身は印刷広告のほうが好きですし、興味がありますし、おもしろいと思います。
こんなわけで、DDBからいろいろなことを学びましたが、ほかの代理店で学んだよりもより多くDDBで学んだかといえば、そうじゃないとお答えしなければならないでしょうね。でも、DDBで仕事ができたということは、とても感謝しています」


chuukyuu 「で、どうしてDDBを去ったのですか?」


リッチ DDBで学ぶべきことはすべて学びつくしたと思ったからです。そして、もっと伸びることができるならば伸びたいと思ったからです」


chuukyuu DDBを辞めてからは?」


リッチ 「グレイ広告代理店に2ヶ月ぐらいいて、PKLに4ヶ月ぐらいいて、それから、レバー・カッツ・パチオーンに3日ばかりいました。そしてジャック・ティンカー&パートナーズ-はいったのです」


ウェルズ・リッチ・グリーン杜といえば、話題中の話題の代理店です。マジソン街の台風の目です。ここの共同経営者のひとりである リッチ氏には、1966年11月にいちど会って話しあったことがあったが、こんどのインタヴューは、ほとんどあきらめていました。ところが、どうした風の吹きまわしか、急にOKがきて、この前の時には聞き洩らした、リッチ氏自身の経歴について質問することができたのです。彼は、マイクに向かって「ハロー、ハロー、こんにちは---」と日本語で話しかけるほどの上機嫌で、インタヴューが始まりました。


chuukyuu 「あなたがいままでにつくった広告で、もっとも気に入っている作品を2つあげてください」


リッチ 「アルカ・セルツァーのテレビ・コマーシャルで、いろんなお腹を撮ったの」


chuukyuu ハワード・ジーフ氏が撮影したのですか?」


リッチ 「そうです。もうひとつはベンソン&&ヘッジズ100の『不都合』というの」


chuukyuu 「そちらも撮影はジーフ氏のところでしたね。ところで、その2本のコマーシャルを選んだ理由(わけ)は?」


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chuukyuu付言】写真家ハワード・ジーフについては、 [ボブ・ゲイジの写真家観]

アルカ・セルツァー 
【お腹のモンタージュ
(アナウンス)「どんな形のお腹の人でも、調子が悪くなったらアルカ・セルツァーをどうぞ。動悸を鎮め、イライラをとりのぞき、うっとおしさを吹き飛ばし、頭痛を鎮めます。1966年現在、アルカ・セルツァーほど効き目のあるものはありません。まったくなしです」


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