創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(91)いわゆる「DDBルック」を語る(1)

     前DDBクリエイティブ・マネジメント・スーパバイザー ポーラ・グリーン
     (1969年退社 グリーン・ドロマッチ社をDDBの隣のビルに設立)

『MC』誌1969年6月号の記事、ご当人の了解をとって拙編『DDBドキュメント』(誠文堂新光社 ブレーンブックス 1970.11.10)に翻訳・掲載したものです。

実際に感じたことをエイビスの広告に盛りこんだ


問い「さて、この対談の題をどうつけたらいいでしようね、『ポーラ・グリーンばどんなに一所懸命にやっているか』なんてのはどうです?」


注:ポーラ・グリーン夫人は1962年に、アートディレクターのヘルムート・クローン氏のチームでエイビス・レンタカーのNo.2キャンペーンを創造し、20世紀最高の2つの広告のキャンペーンのうちの1つと評価・賞賛されている。そのメイン・フレーズの We try harder をもじったタイトルを提案)。


グリーン「それこそ、わたしの人生のストーリーですわ」


問い「実際のところのエイビスのシリーズはどうやってできたのか、話してくださいませんか。想像するところ、とてもこみいってるんじゃないかとみているんでいが---キャンペーン自体のことですよ」


グリーン「そうですね。わたしたち関係者全員が取材ミーティングに出席して、いろいろな質問をして、いろいろ突っつき回したり、詮索もしたりしました。そしてエイビスの人たちから、とてもフランクで実直な答えを得ることができました」


問い「クライアントからですか?」


グリーン「ええ、うそを言うクライアントがとても多いですよね。そういうクライアントは自分の医師や弁護士にもうそをつく人びとです。
でも、エイビスの人たちはみんな実直でしたよ。あの人たちは、自分たちがどういうふうになりたいか知っていると思えるほど、とても精力的でした。
わたしはこれはとてもエキサイティングだって思いましたわ。というのも、会社自体はかなりガタガタで、今にも壊れそうな体制になっていましたが、あの人たちは本当に頑張ろうと考えているのが、肌でひしひしと感じられたのです。彼らはとても知的な人たちで、何か魅かれるものを持ってしいました。その会社が何か持っているかいないかは、直感でわかるものでしょ?
あの人たちは、わたしたちに以前の広告代理店が制作した広告を見せてくれましたが、その広告には、サターディ・イブニング・ポスト誌始まって以来、最大のロゴが組まれてありました。それは、見開きを含む3ページの広告で、派手なものでした。
でも、彼らは『大きいこと』が必ずしも『よいこと』ではないと悟り始めたのでした。
わたしたちは考え抜きました。そしてとても偉大なアートディレクターもこのメンバーにいました。私たちはプッシュしてプッシュしまくり、ついに、わたしたちが実際に感じたことこそ、この機構のエッセンスであり、かつあの人たちが意図していることであるという結論に達したのです」


問い「そういうプロセスを経て、なんというか、ハンドルというか、ギミック(手品もどき)に達したのですね?」


グリーン「ギミックなんて呼ばないでくださいな」


問い「ほかに適切な言葉を思いつかなかったもので---」


グリーン「アイデアというんです」


>>(2)


もし、エスビスの車の中に
たばこの吸殻がありましたら、
苦情をお寄せください。
それは私たち自身のためになることですから。


私たちは前進するために、あなたのご協力を必要としているのです。エイビスは、この業界ではまだ2位にすぎません。ですから、私たちは一所懸命にやらなくてはならないのです。
たとえばそれが、グラブ・コンパートメントの中の地図がしるしで汚れていたり、お客さまを長く待たせすぎると思われるようなことであっても、私どもにお申しつけください。
肩をすくめたり、「仕方がないや」で済まさないでください。私たちを追いたててください。
当社の関係者は、ちゃんとわかっています。全員に通達してあるんです。全員が、フォードのスーパー・トルクのような生きのいい新車より少しでも劣るようなものをお渡しすることはできないことを知っています。
そして、すべての車は、中も外も完全に整備されていなければならないということも。
そうでなかったら、騒ぎたててください。
ニューヨークのメドウ氏がそうしてくださいました。この方は、ガムの包み紙を見つけて持ってきてくださったのです。


>>(2)