創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(616)[ニューヨーカー・アーカイブ]を基にエイビス・シリーズ(8)


ライターの突然の交替の謎


あるとき、ヘルムート・クローン氏の作品群を『アイデア』誌に紹介するとき、氏自身の手でプロフィールを書いてもらったことがありました。
「VWビートルとエイビスの広告のアートディレクターとして知られています」とだけ書き送ってきました。


コピー担当のポーラ・グリーン夫人のエイビス・キャンペーンについての感慨は、インタヴューの中で彼女自身のことばで語られています。
【参照】ポーラ・グリーン夫人とのインタヴュー ←クリック


わからないのは、それまで、食品とか台所用品ばかりを担当してきていた夫人をバーンバックさんが、なにを考えて気むずかし屋のクローン氏と組ませたか、です。


DDBの多くの人が、エイビスのキャンペーンの骨格は、クローン氏とグリーン夫人のコンビだから生まれ、成功したと証言しています。
それを否定する材料を、ぼくは持っていません。


これまでの広告のコピーは、グリーン夫人の手になっています。
ところが、1年後、彼女は、とつぜん、エイビス仕事を手放したのです。
史料によると、エイビスから降りるか、DDBを辞めるかというところまできたとあります。


謎に満ちた交替劇がおこなわれました。
引き継いだのは、エド・ヴァレンティ氏でした。ここから数点が、氏のコピーです。
氏が何点の広告に携わったか知りません。
しかし、路線はきちんと引き注がれています。


有名なアメリカの「ウィー・ウォント・ユー」のもじり。



エイビスは、あなたが必要です。
あなたは、エイビスが必要じゃない。
エイビスは、このことを肝に銘じています。


私たちは、なお、少しばかり、空腹です。
業界で2位にしかすぎないのです。
お客さまを十把ひとからげなんかにはできません。
まあ、ビジネスがうまくいってると、つい、お客をはしょったり、粗略にあつかうことも、なきにしもあらず、です。
そんなとき、カウンターに近づいて行って、めんどくさがられたいなんて思いませんよね。
試してください。
エイビスのカウンターへいらっしゃって、生きのいいスーパー・トルクのフォードの新車を借りてみてください。エイビスは業界で2位なんです。だから、お客さまをお客さまとして遇するようにしっかりやってます。
カウンターには2つの側があります。
もちろん、どっち側が私たちのパンにバターを塗ってくださるのか、分かってます。


C/W Ed Valenti
A/D Helmut Krone
"The NEWYORKER" 1964.03.07


(訳:金丸 哲 & chyuukyuu)    


雑談


タウンゼント氏の告白:バーンバック氏から衝撃を受けたいくつかの一つに、ヴァレンティ氏の死をつげられたとき。
それがいつのことで、ヴァレンティ氏が何歳で逝ったのかも不明ですが、第2次大戦のときに航空隊に属していたというから、1920年代前半の生まれと推測。
『DDB』ニュース1966年10月号に、DDBトロント支社のクリエイティブ・ディレクターとなって栄転---とあるから、その後とすると40代後半という若さでの逝去といえそうです。


生まれはニューヨーク。家が貧しかったため、好きな女の子ができたが、コーラを買う金も映画代もなかったので、詩を書いて捧げたと。
16歳で全米を放浪。ラスベガスでバーテン見習い、コック見習いをしたがつづかず、軍隊へ。
復員後、結婚。詩集と下手くそ(自称)な小説を書いたが、コピーライターに転向。いくつかの広告代理店を経て1960年にDDBのコピー部へ。ということは、4年後にはエイビスをまかされ、1年半ほどでロンドンから呼び戻されたハーツブロン氏と交替しています。


参照
ポーラ・グリーン夫人とのインタヴュー
アートディレクターとうまくやっていくコツ]←クリック