創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(52)ジョン・ノブル氏とのインタヴュー(1)

   Mr. John Noble
   Vice-President, Copy supervisor DDB Inc.
   (DDB 副社長兼コピースーパバイザー)

この人とのインタヴューを収録した『劇的なコピーライター』(誠文堂新光社 1971.3.10)の前書きに、こう記している。

−−もはやタネはつきただろうといわれているフォルクスワーゲン(ビートル)の広告制作の後任コピーライターに指名されるや、年に200点近い作品を5年もつくりつづけ、しかもそのほとんどが一つ以上の広告賞を獲得するほどの出来ばえだったのだから、負けずぎらいコピーライターの典型のような人である−−−

シボレーのために平凡な仕事をしながら、DDBに憧れていた

chuukyuuDDBへお入りになったのは?」


ノブル「1965年の6月です」


chuukyuu「動機は?」


ノブルDDBがとてもよい仕事をしていましたし、ぼくはといえば、デトロイトで平凡な仕事をしていたからです」


1969年の10月、私はジョン・ノブル氏とのインタヴューをすませると、デトロイトへ飛びました。カナダと隣接したここは、自動車と会議の街として有名ですが、ニューヨークに比べると、人びとは現在に満足しきっていて、自信だっぷりに見えました。
見学したポンティアックの工場の作業ぶりも悠然たるものでした。
その広告を手がけている広告会社のやり方にも鋭さが感じられませんでした。ノブル氏がデトロイトでイライラしながらDDBを望んだ気持ちがよくわかりました。


chuukyuu「あなたがDDBに採用された時の、たとえば筆記試験とか面接とかといった何か面白いエピソードがあったら聞かせてください」


ノブル「とくにありません。DDBでは、そういったことをしないのです」


chuukyuu「最初はだれのもとで仕事を始めたのでか? 最初のクライアントは? それから、あなたに強い影響を与えた、あるいは与えている人は?」


ノブル「最後のご質問から先に答えると、それは、ビル・バーンバックにほかなりません。
ぼくは、DDBにくるとすぐに、VWの仕事を担当しました。もちろん、ソフト・ウィスキーや自由ヨーロッパ・ラジオのような、他の仕事もしましたよ。
しかし、VWはぼくにとっては生活そのものでした。
どういう人のために働いたかということになりますと、ぼくのコピーに関する悪い点を教えてくれる人のために仕事をしました。DDBには昔もいまも、とても良い教師がいるんですよ」


chuukyuu「あなたの生地、学校、以前に働いていた広告会社など、以前のことを話してください」


ノブル「つまらない話ですよ。でも、お話しましょう。ニューヨーク州ロチェスターでうまれたんです。それからミシガン州立大学に入り、いろいろなことをし、その後、好ましい婦人と結婚しまた。2,3の小さな広告会社で働き、それからシカゴにあるシアーズ・ローバック社、デトロイトのキャンベル・イワルド広告会社で働き、そしてDDBへきました。
ほらね、つまらない話だといったでしょう」

VWを担当した時、これは、恐ろしいことになった---と思った

chuukyuu「あなたが担当なさっているVWの仕事は、DDBのもっとも代表的な仕事の一つにあげられていますが、VWの仕事を引き受けた時の最初の印象は?」


ノブルVWの仕事を頼まれて、手にじっとりと汗がにじみ、シャツのカラーがきつすぎるように感じました。というのは、ぼくがDDBに入社した1965年当時、すでにVWの広告のアイデアは出つくしたという考えが人びとの頭にあったのです。もちろん、そんなことはないとぼくは信じてはいましたが---。
今でも新しいライターが入ってきていますし、よりすばらしい広告がどんどん出てきていますからね。
現在、このアカウントには、7人のコピーライターと7人のアートディレクターがついていますし、彼らはみんな立派な人たちばかりだと思いますよ。彼らの仕事を見るだけでもそれはわかると思います。ライフ誌に掲載されているVWの広告にしても、他の雑誌に出ているものにしても、その仕事はいつも最上のものですからね。
仕事の質がこのように維持されているというのは、まったく驚くべきことですよ。


それにまた、すでに世にでている広告なり、コマーシャルなりに優るものをつくろうとすることは、とても恐ろしいことですよ。VW担当の前のスーパバイザーはボブ・レブンソンでした。彼がVWのためにやった仕事は、みんな満足のゆくものばかりでした。彼は現在、DDBのクリエイティブ・ディレクターをしています」


chuukyuu「以前のVWの広告と、あなたがおつくりになった広告とのあいだに、何か違いがありますか?」


ノブル「その前に、他のことをいってもいいですか?」


chuukyuu「どうぞ」


ノブル「ぼくは、1965年以後につくられたVWの広告、コマーシャルのすべてを、個人の責任においてなされたものと考えたいのです。こういったからといって、決して世界が狭いということからくる自惚れではありません。しかしながら、その仕事に対する責任となると、多くの人のところへ行ってしまいます。
すなわち、2人のすばらしいアートディレクター---どのくらいかは覚えていませんが、ずいぶん長い間チームを組んでいっしょに仕事をしたロイ・グレイスと、もう一人は、ぼくが長いこといっしょにしごとをしたいと思っているボブ・クーパーマンのところへもいってしまうのです。


さあ、ご質問へ戻りましょう。
一つ一つの広告で違います。しかし、広告をつくるもととなっているのはコンセプト(基本となる考え方)にほかなりません。1965年にさかのぼりますと、ぼくたちはそのころ、この車の経済性についてもたくさんのことを話していました。とてもよくやったものですから、ほとんどの誰もが、VWの燃費効率のすばらしさ、空冷エンジンの搭載については知っていました。すでに知っていることを何度も何度もくり返すなんて無意味ですからね。それで、テーマを変えることにして、今度は品質について話し始めたんです。つまり、その車がどのようにしてつくられるかとか、その車が完成してVWという名がつけられるまでには16,000以上もの異なった検査を受けなければならないなどを説明したのです」

ノブル氏とアートディレクター:グレイス氏による、きびしい検査を訴求した作品の1例




こんなにたくさんの人がフォルクスワーゲンを検査しているんですよ。


あなたの車と新しいフォルクスワーゲンの間にある障害物はたったの二つ。
1,799ドル
そして、1,104人の検査員
値段のほうは、あなたの問題。
すべてのフォルクスワーゲンフォルクスワーゲン工場を出る時に、オッケーをくだす検査員の人数は私たちの問題。
1人の人が私たちの工場の一人前の検査員になつてしまうと(それには3年かかりますが)、彼はちょっと違った人間になつてしまうのです。
つまり彼は、車の製造に関するどんな決定でも、そっくりくつがえしうる権限を手にするのです。
(この写真の中のだれか1人が「ノー」というと、そのフォルクスワーゲンフォルクスワーゲンでなってしまいます)。
VWのどんな部品も、最低3回は検査を受けます。ということは、1台の車が工場からあなたの手に渡るまでには、合計で16,000回の異なった検査を通りぬけなければならないということです)。
いいですか、16,000回ですよ。
こんなふうにして、私たちは1日に平均225台のかぶと虫を失っています。
これで、あなたの注文したフォルクスワーゲンの新車が思ったよりも手間取ったとしても、理由はもう、ご納得いきましたね。
早くつくれないのではないのです。
きちんとつくろうとすれば、そんなに早くはつくれないということです。


A/D ロイ・グレイス
"LIFE" 1969.05.30
"LOOK" 1969.06.10


ジョン・ノブル氏とのインタビュー
(1)(2)(3)(4)(了)


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