創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(80)『かぶと虫の図版100選』テキスト(25)


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1970年3月20日フォルクスワーゲン・ビートルに関する2冊目の編著書の新書版『かぶと虫の図版100選』をブレーン・ブックスから上梓しました。そのテキスト部分の転載です。

西ドイツでのVW工場の印象---すばらしいの一語

chuukyuuVWの広告のクリエイティブ・チームに入ってから、あなたのクリエイティブ活動に役立つインフォメーションを集めるために、西ドイツのVW工場のどれかを見学しましたか?」
ノブル「もちろん行きましたよ。それは、ぼくがしなければならない、いちばん最初の仕事でした。
今、ぼくのところに新入りのライターが何人かいるので、もういちど出かけなければなりません。新しいライターがこのアカウントの仕事を始める時には、与えられた商品についての詳しい知識を必ず持っていなければなりません。
これは、この世界では最も重要なことです。
つまり、『商品のすべてを知る』ということです。
ですから、このアカウントを扱うために新しく加わったライターは、ドイツへ渡り、1週間にわたって工場を見学し、そこでVWについてできるだけ多くの知識を吸収してくるのです。
そこから帰ってはじめて、彼はコピーを書くようになるのです。まったくわけのわからないコピーを書くことほど愚かしいことはありませんからね」
chuukyuu「工場の印象は?」
ノブル「すばらしいの一語です。とても感動しました。
ぼくは、デトロイトで働いていたときに、米国車がいかにしてつくられるかを目のあたりにしていたので、その印象は格別でした。
ぼくがよく知っている自動車づくりに比べて、VWはそれらがいかに細心の注意がはらわれているかを目のあたりに見てきたのですから。
そしてぼくはそのことだけを、何度も何通りもの方法で、多くの広告で言ってきました」
chuukyuu「ところで、あなたが担当なさる前につくられたVWの広告を、全部お読みになりましたか?」
ノブル「読みましたよ。当然のこと、絶対に必要なことです。もし読んでいなかったら、いつもひどい広告を書いていることになります。つまり、それが前に書かれたものかどうか疑問に思いながらも書いていて、その結果、ほんとうは、その広告は前に書かれたことがあるものだが、ということに気がつくということになるわけです。
その点、テレビ・コマーシャルのほうが楽でしたね。なぜかというと、ぼくがこの仕事を始めた時には、テレビのほうはあまりやっていなかったものですから。今ではもう、予算の半分以上もがテレビに使われていますけれど。
テレビで、印刷媒体広告が得たのと同じくらい愛好者を得たという点で、ぼくはテレビを誇るべきものの一つと考えています。愛されるってことはいいものですよ。そうおもいませんか?」


ノブル氏は、DDB入社以前。デトロイトの某(キャンペル・イワルド?)広告代理店でシボレーの広告をつくっていた人である。
当時を思い出して氏は「シボレーのために平凡な仕事をしていましたが、VWの広告に見られるDDBの仕事がとても気に入っていました。シンプルで、いかも効果的なやり方こそ、広告が進むべき道である---と感じていました」と語った。
DDBの広告は、有能な人びとをDDBへ引きつけつづけてきたともいえるわけである。

(注:その後、気がついたのだが、『かぶと虫の図版100選』テキスト(4)に 「ハン総支配人は、ポール・R・リー氏を引き抜いてきて、広告部長にすえた。リー氏は、シボレーのセールスマンを経験したあと、キャンベル・イワルド広告代理店でアカウント・エクゼクティブ(得意先主任)をやっていた。リー氏の就任によって、スチュワート部長はペシルベニアのアレンタウンに移ってVWのディーラーとなった」と38年ぶりに自分の文章をタイピング〔当時は手書き〕して、「そうか、ノブル氏をDDBへ紹介したのは、リー氏が一役買っていたのかもしれない」と。人間関係って大切ね)。


これは、たぶん、車業界紙に掲載された広告でしょう。
ロールス・ロイスが、その年のディーラー1店あたりの販売実績で、いいランクづけされたのでしょう。そのポジションに、今年はVWが位置づけられる---ちょっぴり嬉しいことではないですか、と。

ボディ・コピーでは、'64年には24万台売ったし、今年はそれ以上売れる予定で、ディーラー1店あたりの実績では、ほかを抜いてトップなんだから、今年は、ロールスのこの位置にVWが登場---とかなんとか、ディーラーのおやじさんたちが泣いて喜びそうな文言と、なによりかにより、あの人たちの目を引きすぎる表現がみごと。


>>(了)に続く。