創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

01-09 考える友人…ポール・ランド


それにもかかわらず、この時代に、バーンバック氏は一人の親友を得、彼から多くのことを学んでいるのです。
その親友の名は、(ポール)ランド。このデザイナーについては、亀倉雄策師による『ポール・ランド作品集』(造型社刊)に詳しいのでそちらに譲って、バーンバック氏との関係に限って簡単に素描しておきます。
バーンバック氏はグレイ社で、フリーランスのデザイナー、ランド氏と共事をしながら、アイデアを正確に視覚化するということがどういうことであるかを、同世代のランド氏から学びました。
タイポグラフィの第一人者であったランド氏は、同時に、簡潔なイラストレーションによってメッセージをより生き生きと伝達することのできるデザイナーでした。

バーンバック氏がグレイ社を去って自分自身の広告代理店DDBを創立したのと前後して、グレイ社からW・H・ウェイントローブ社へ移ったランド氏の下で働いた(オノフリオ)パチオン氏(注:レバー・カッツ・パチオン社の共同経営者)は、当時を回想して、こう話してくれました。

ポール・ランドは、広告のクリエイティブ・ビジネスの歴史に残るべき人物です。
ポール・ランドは、パイオニアです。
ポール・ランドは、感受性、人間性の豊かな人でした。
あんなにデリケートな心を持ったランドは、日本人から生まれたのではないかな?
彼は、1950年代において、インパクトをつくることのできた、たった一人の人です。
当時のベスト・ビジネスをしました。
彼が私に教えてくれたことといえば、『考えること』でした。
なぜなら、彼は『考える』人だったからです」

グレイ社での約2年間を、ランド氏と共に働いたバーンバック氏が、DDBを創立する時に、アート部門の責任者として、ランド氏ではなくてゲイジ氏をなぜ選んだかは、非常に興味のある点です。