(8)ロバート・レブンソンのインタヴュー(その1)
フォルクスワーゲンのコピーライター
数年前(1963)、私は、『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』という風変わりな本をつくりました。
それ以来、VWの広告のコピーライターであるボブ・レブンソン氏と話しあってみたい…と願っていました。
それから3,4年後の1966年の秋、『繁栄を確約する広告代理店…DDB』という本を書いた時、日本でもやってもらわなかった出版記念パーティを、ニューヨークで、パーカー夫妻に開いてもらう羽目になってしまいました。
パーカー夫人はDDBの副社長でコピー・スーパバイザーをしている人です。
そのパーティの席で、私は、初めて、レブンソン氏に会いました。
英語の教師になるつもりで学校へ通っていたこともあるというレブンソン氏の、すごく生真面目な表情に恐れをなして、私は、そのパーティのあいだ中、彼に話しかけないで別れてしまいました。
このインタヴューの依頼の時、その旨を伝えたところ、彼も覚えていてくれて、「話し合えなくて残念だった」と言ってくれました。
chuukyuu「あなたがフォルクスワーゲンのコピーを書くようになったのは、いつからですか?」
レブンソン「私はDDBに1959年にきました。フォルクスワーゲンは、ちょうど59年にここのアカウントとなりました。それで、私はその年にセールス・プロモーションの部門でやりはじめ、1年後に全国誌のコピーを書くようになりました。それから5年ぐらい続いたのです」
chuukyuu「あなたが書いたフォルクスワーゲンのための広告で、いちばん気に入っているものをあげてください」
レブンソン「そうですね。全部好きですが、しいてあげるということになると、中では[この方は33年後にかぶと虫を手に入れました」というのが一つ。
1台目のフォルクスワーゲンを買うのに、33年間もお待ちになる方が、めったにいらっしゃらないのは、私たちにとっては幸いなことです。
けれども、A・ギリスさんはお待ちになったのです。たぶん、いつも正しい考え方をしていらっしゃったのでしょう。ギリスさんの場合、33年間、新車の必要がなかったのです。
ギリスさんと1929年A型フォードとは、お互いにうまくやってこれました。
ギリスさんは修理をご自分でなさり、夜中にタイヤを直すためにジャッキを持ちだしたこともありました。
去年、新車が必要になつた時、出かけて行ってフォルクスワーゲンをお求めになりました。
「長持ちするって聞いたので」とギリスさんは説明しました。
ギリスさんはVWが好きなんでしょうか?
「お宅の検査員はまったくよく検査しますな」ギリスさんが言ったのはこれだけ。
けれどもギリスさんは、奥さんと54回目の結婚記念日に旅行をしたとつけ加えました。
お2人は1万km走り、ガソリン代62ドル、オイル代55セントを払ったそうです。
「オイル焼けするかもしれないとは思わなかった」そうです。
それからもう一つ、新聞に載せたもので、「節水」というのです。これは、ちょうどその時ニューヨークが水不足だったので、非常にタイミングがよかったのです。
【訳文】
節水。
これは、水をまったく必要としないフォルクスワーゲンの提供です。
(chuukyuu注:この時期、N.Y.のホテルの蛇口には「節水(Save Water)」のシールが貼られていました)。
この二つが、とくにも、いまも、思い出されるものです。
アート=コピー会談(セッション)の問題
chyuukyuu「DDBは、コピーライターとアートディレクターがアート=コピー会談(セッション)をやって広告をつくることで有名ですが、これは、DDBが考えだしたやり方ですか?」
レブンソン「ええと、これは大変な問題ですね。私は、DDBがこのやり方式を創案したとは思いません。
ただ、私たちがこのやり方をとったのは、1つよりも2つの頭が集まればもっといい考えが出るだろうということで、アートとコピーが一緒に仕事をしようというのを考えだしたわけです。
DDBを設立したバーンバック(William Bernbach)さん、それからボブ・ゲイジ(Robert Gage)、フィリス・ロビンソン(Phyllis Robinson)などという人たちが、最初に一緒に集まって仕事をしてみたら。そうしたらこれがとてもうまくいったんでそれじゃあこのまま続けていこうじゃないかということになったんですよ。
いまではたくさんのアメリカ中の広告代理店がこの方法をとっています」
chyuukyuu「いままでにDDBの中の数多くのアートディレクターとアート=コピー・セッションをおやりになってみて、アートディレクターによっては、どうもしっくりいかないという場合もありましたか?」
レブンソン「もちろん。時にはなかなかむずかしい問題がありますね。お互いに意見が食い違うようなこともありますし、意見の食い違いが容易に調整できにいこともしばしばです」
chyuukyuu「そういう時には、どう解決するのですか?」
レブンソン「まあ、その時は、上の段階、スーパバイザー・クラスのところへ持っていって意見の調整をはかってもらう。
で、さらにその上、ボブ・ゲイジがクリエイティブ・ディレクターをしていますから、彼に意見を求めるという場合もあります。もっと上、最後にはバーンバツクさんのところへ行くこともあります」
chyuukyuu「いまでは、米では多くの広告代理店がDDBのアート=コピー・セッションを真似ていると思うのですが…?」
レブンソン「ほかの広告代理店で、私たちと同じような方式を真似ているところがある…もっとも<真似ている>といういい方が適当かどうかわからないんですがね…。
私たちと同じようなやり方をしているところはたくさんありますよ」
chyuukyuu「そうすると、多くの広告代理店がつくる広告がDDBの広告に似てくるとはお考えになりませんか?」
レブンソン「いや、よその代理店の広告が、私たちののと似てくるというふうには言えないんじゃないですか」
chyuukyuu「それはなぜ?」
レブンソン「というのは、必ずしも『DDBスタイル』というような決まったものはないからです。
たくさんの人びとが働いていますから、それぞれ違ったものが出てくるわけです。
たとえばフォルクスワーゲンの広告だとか、エイビスの広告だとか、またモービルとかポラロイドとか、それぞれの広告を見ますと、これらのもの全部が同じ広告代理店から、しかも同じ人たちの手にかかって作られたものだとは、到底考えられないくらい、いろいろ違っています。
ひとりの人が、アカウントを2つ3つも重なって担当することだってあります。たとえばクローン(Helmut Krone)なんか、エイビスとフォルクスワーゲンも両方担当しています」
[追記]
レブンソン氏がなぜ、“Think small”と“Lemon”をあげなかったか、不思議にお思いでしょう?
じつは、上記の2点のコピーライターは、レブンソン氏ではなかったからです。インタヴューで答えているように、レブンソン氏は、当初はVWのセールス・プロモーション媒体のコピーを担当していました。
で、全国媒体(『ライフ』などの雑誌媒体)の当初の広告は、アートディレクターがヘルムート・クローン氏、コピーライターはジュアン・ケーニグ氏でした。
しかし、ケーニグ氏が、VWバンのアートディレクターだったジョージ・ロイス氏とともにDDBを辞めてハパート・ケーニグ・ロイス(PKL)というクリエイティブ代理店を設立したために、急遽、レブンソン氏が全国媒体のコピーライターに起用されたのです。
VWの広告の代表作といわれる“Think small”を誕生させた時の秘話を、ケーニク氏があるところで記していました。
その頃、ケーニグ氏は、セントラル列車駅から数10分北の町ヨンカーに住んでいました。
で、帰宅の列車の向いの席に座ったビジネスマンが、経済誌を読んでいるのを見るともなく眺めると、たまたま開いていたのは“Think big”を謳った、当時流行の記事でした。
とたんに、ケーニグ氏の頭脳に“Think small”という見出しがひらめきました。
翌朝、ケーニグ氏はクローン氏に、“Think small”と書いた紙片を渡したといいます。
PKLの設立に参加したケーニグ氏のその後の消息は、杳(よう)として知られません。精神病院に隔離されたとかいううわさを耳にしたこともありますが。
DDBのみごとなコピーライターたちとの単独インタヴュー(既掲出分)
ロバート・レブンソン氏とのインタヴュー
(1) (2) (3) (追補)
ロン・ローゼンフェルド氏とのインタビュー
(1) (2) (3) (4) (5) (了)