創造と環境

コピーライター西尾忠久の1960年代を中心としたアメリカ広告のアーカイブ

(750)フランクフルト氏のプロフィール

 

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(左:フランクフルト氏 アイデアを相談するコピーライター)


日まで4日にわたって紹介したステファン・フランクフルト氏のスピーチは、氏がまだ
Y&R社の取締役アートディレクターで、31歳の若さで4Aの年次大会で行ったものであった。
当時、氏のクリエイターとしての名声はすでにニューヨークで高かったのであろう。


7年後、氏はY&R社国内の社長に選任されていた。


マジソン街ではクリエイターがつくった、いわゆる《ホット》を
売りものにした小じんまりとはしているが生きのいい広告会社が群生していた。
世界第3位のY&Rとしても、無視できない風潮であったろう。
クリエイティブ畑のフランクフルト氏を抜擢して応戦体制を敷いた。




フランクフルト氏のプロフィール
Stephen O. Frankfurt


ステファン・O・フランクフルト氏は、1931年12月7日に、ニューヨーク市ブロンクス地区で生ま
れた。
父のミルトンは、ブロンクス地区弁護士会の会長をしており、母プランシュは、 J・C・ペニー社のPR
部長の肩書を持った女性である。
高校はマンハッタン地区の有名校、スクール・オブ・ミュージック&アートである。


高校生活を回顧して、フランクフルト氏は、こう語っている。
「私の人生で、本当に楽しい時代でした。こんなすばらしい思い出もあります。
40台のピアノが一度にラブソディー・イン・ブルーを奏で・・。・・・全く私はわれを忘れたほどでした」
アート畑の出身であるフランクフルト氏は、 「私は作曲をしたり、ピアノを弾きます。私の友人も
ほとんどがアーティストというより音楽関係の人たちです。
私にとっては、写真や絵よりも音楽のほうが感動を与えてくれます」とあるところで発言してい
るが、彼の音楽的素養は高校時代にはぐくまれたものと思われる。


「レニー・バーンスタインが、私たちの半年に一度発表するコンサートのリハーサルの指揮をとっ
てくれたこともありました。CTセーター姿で、彼はブラッとやってきてくれました。
ある時、黄色のTシャツを着た男を伴ってやってきましたが、それがなんと、アーティ・ショーでし
た。 それから、ディージー・ギャレスビーやスタン・ケントンもやってきました」
まさに、フランクフルト氏がいうとおり、スクール・オブ・ミュージック&アート高校は「注目に価
する学校」であったようである。だから「卒業の日には、女の子はみんな泣き出しました。もちろん、
男子生徒にとっても一番悲しい日でした」という彼の告白もうなずける。


その後、フランクフルト青年はニューヨーク大学に半学期だけ通い、それからプラット・インスティ
テュート(ニューヨーク市ブルックリン地区にある美術大学)に移り、産業および広告デザインを
学んだ。
プラットで第4学年を迎えた年の夏休みに、フランクフルト青年は、ハリウッドのデザイン界で一
旗上げるつもりでロサンゼルスヘ行った。しかし、一旗上げるどころか、どん底生活に追い込まれた。
「私は、無気力な生活をしていました。父から、今帰ってはいけない。今逃げ帰ってきたら、自分が挫折
した……という負け犬思想に取りつかれるだけだ……という手紙をもらいました。これは、私の人生
における最も大切な手紙の一つです」
やがて、UPA映画会社がデザインの仕事を発注してくれた。この映画会社は、アバンギャルド的な作品
つくる会社であった。


しかし、仕事にかかる前に、プラットの第4学年の奨学金が出ることになったという家からの手紙が
きて、彼は、キャデラックに乗ってニューヨークに帰った(もちろん、キャデラックの代金はニューヨ
ークで月賦払いという条件で買ったものであった)。
プラットでの第4学年で、フランクフルト氏は、「年度最優秀学生」に指名された.
卒業(1954年)の時には、当時セブンティーン誌のアートディレクターをしていたアート・ケーンが彼を
アシスタントとして指名してくれたが、彼は、ニューヨークのUPA映画会社のTVコマーシャル部の見習
いデザイナーのほうを選んだ。
フィルムについて勉強したかったからである。
UPAへ入社したことが、フランクフルト氏をY&Rに結びつけることになった。


ある日、Y&Rへフィルムを届けに行った彼は、Y&Rの雰囲気に長敬の念を覚えたという。
「あとになって、ホワイト・オール葉巻のフィルム制作をしてくれるようにY&Rから依頼されました」
「また、アートディレクターとして入社するように勧められました」
しかし、同時に、ロンドンのあるスタジオから責任者としてきてほしいと頼まれ、 「ヨーロッパは一度も
行ったことがなかったので」彼はロンドンへ行くつもりにしていた。


結局、フランクフルト氏は、ロンドンへは行かなかった。Y&Rから提示された年俸6,500ドルのほ
うを選んだ。 「これは、それまでに私が取っていたお金とは比較にならないぐらい大きな給金でした」
こうして、1955年に、フランクフルト氏はY&Rに入社し、現在に至っている。
フランクフルト氏には、 ピーターとジェームスという名の2人の息子がいる。かつてフェルドマンの秘書を
していたスザンヌ・アレンとの間にできた子供である。スザンヌはインテリア・デザイナーで、Y&Rの
ロビーと受付の全部をデザインした。しかし現在、2人は友好的に別居中であるという。