創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(694)コピーライター……現在・過去・未来(2)


TCC(東京コピーライターズクラブ 会員誌 第3号 昭和38年10月10日号)より
この春、新人コピーライターとなった、将来の有能なライヴァルたちへのささやかな贈り物


コピーライター…… 
現在・過去・未来(2)
                                (原文はジュディス・ドルギンス女史)


2.過 去(2)



(承前)同様に他の会社も、好運だった。
ジングル・ブームの初期のころ、フォース(Force)という朝食用設類の宣伝部長をしていたW・B・ハンターのところへM・M・パンフ、D・フィッケンという2人の女子学生が、風刺漫画と、いくつかのジングルをもって訪ねてきた。
その内容は、ゆううつなジムといわれている奇狂な老人がフォースを食べて、陽気なジムになった、というものだった。ハンターは、そのスケッチとジングルを25ドルで買いとって、市街電車券にそれをのせ、その広告効果を試してみた。
1ヶ月余りのうちに、フォースの売り上げは2倍になった。
新しい代理店カルキンス&ホールデンが、この仕事を引きつぐために招かれた。1年も経たぬうちに、このキャンペーンのために使われた金額は100万ドルにのぼったが、すばらしい成功をおさめた。
最初のうち、E・E・カルキンスは、自身でジングルを書いていたが、タネがつきたとき、彼は当時の軽詩作家のベテランたちを招いた。
彼らは、O・ハーフォード、カロリン、ウェルス、マジソン・コーウィンなどで、彼らの名辞欲は、ケンタッキー州桂冠詩人になることだった。
彼らは、ジングル一つにたいして、5ドルもらった。
その後、″陽気なジム″式の広告は、大衆の好みに合って、雪だるま的な勢いで盛んになった。
ジングルをおぼえることは、一時的な流行になった。
5000通ものジングルが頼みもしないのに送られてきたが、そのほとんどが使いものにならなかった。
しかしカルキンスは考えた-−−−陽気なジムは、もしかするとウィルキンス・ミューバーや、サンチョ・パンザや、ヘンリー8世よりも、多くの家庭に知られたのではないだろうか、と。
カルキンスは、その後、真面目なコピー・ライティングを完成させて、近代広告の長老の一人に数えられるようになる少し以前に、別のジングルをつくって成功した。
彼は、ずっと若いころ、ブッチャーズ・ガゼット&ソーセージ・ジャーナルで働いていたが、やがて、ピオリヤ百貨店の広告部に移った。
数年後、彼はそれまでのコピーをまとめて、ニューヨークのチャールス・オースチン・ペイトのところへ送った。
ベイト氏は、カルキンスを、コピーライターとして週給15ドルでやとった。
カルキンスはペイト氏のところで約3年間ほど働き、その間に給料は35ドルに増えた。
カルキンスがラルフ・ホールデンと共同で、自分たち自身のコピー制作店を開いたとき、たまたまラッカワナ鉄道会社は、軽炭のかわりに無煙炭を使いはじめていた。そして、無煙炭を使用すると、いっそう清潔になることを宣伝してくれとカルキンスに依頼した。
またたくうちに、このコピー制作店から、新しいスタイルが生まれ、「フォーブ・スノウ」と、一連のジングルが、彼女の清潔な汽車旅行をうたった。
彼女は国民的ピンアップ・ガールになり、そのジングルといっしょに、当時のアメリカの家庭に入りこんだ。



(アーネスト・E・カルキンス女史によるラッカワナ鉄道の「清潔な汽車旅行」への誘い)


しかし、うたい文句(slogan)とジングルのほかにも、目立ったスタイル―――"それは何故か″式が、そのころから始まっていた。
このスタイルは、感情的説得がとくに強力に要求される場合をのぞいて、その後25年間にわたって広告業界の人間たちの心を奪ってしまった。
このスタイルは、″ラスカー=ホプキンス=ケネディ時代″として知られている。
もっともジョン・E・パワーズは、かなり以前から、広告に理由をあたえることの価値について述べていたし、実際にこの考えにもとずいたコピーも書いていた。
しかし、これらの3人が、この考えを、より高度な手法で応用し、広告業界から注目された。
彼らは、すぐれたセールスマンであり、すこし変った―――独創的で、芝居じみて、むなしく、そして調査よりも直観を好む男たちであった。
彼らは、やがて″ハード・セル″として知られる時代にたいする基礎をきづいた。
そしてコピー・ライティングの職能を、代理店の中心とし、コピーライターを不可欠な職業とした。
シカゴのロード&トーマス代理店は、クライアントに強要されても、すこしのコピーしか用意しなかった。しかし1898年に、当時25才のアルバート・D・ラスカーが、この代理店に働きにいった。
そのときの同社には、たった一人のスタッフ・コピーライターが午前中だけ週給15ドルで働いている、といった程度だった。
ラスカーは、新しいクライアントを求めているうちに、この代理店は、ほかの多くの代理店と同じように、クライアントにたいするサービスの貧弱さが、いちじるしくその発展をさまたげていることに気がついた。
当時、各メーカーは、代理店のコピーライターよりも優秀なコピーライターをかかえて、代理店よりもよけいに給料を払っていた。
ラスカーは、この事実をたしかめると、才能ある新聞記者を多数やとって広告の仕事につかせる、と熱心にクライアントに説いてまわった。
1904年、夢は現実に近づいた。
彼は、パートナーをみつけた。
ある日、彼がA・L・トーマスと話しているとき、一階のサロンからのカードを受けとった。
カードには、ジョン・E・ケネディの名が記されて、次のようなメッセージが書かれていた。
「私は、あなたに、広告とは何かをお教えすることができます。あなたが広告を知らないということを」
ラスカーとケネディは、深夜まで議論した。
ラスカーは、以前から″広告はニュースである″と考えていた。ケネディは、
″ちがう。ニュースは表現方法の一つであって、広告は別のものだ。広告は印刷されたセールスマンシップだ″といった。
ラスカーにとって、ケネディの考えは、革命であった。
彼のいう印刷されたセールスマンシップから、次の考え方が生まれた。
ものを売る要素、商品を人びとに買わせる要素、つまりそういう作用をする要素は何だろうか、ということだ。
ケネディは答えた。
「それは、単純なことだ。人びとに、それは何故かという理由をあたえることだ」
こうして″reason-why リーズン・ワイ"広告が生まれた。
ラスカーがめぐり合ったパートナーのケネディは、ドクター・シュープ強壮剤のコピーライターとして働き、年収は2万8千ドルだった。
これは、当時の広告マン、とくにコピーライターにとっては、夢のような高額だった。
ラスカーは、ケネディをドクター・シュープから引きぬいた。
ラスカーはケネディに言った。
「広告のことを教えてほしい」
それから数か月のあいだ、2人は毎晩コピーの実験をつづけた。
2年間のあいだ、ロード&トーマス代理店はケネディに年収7万5千ドルを払った。
この代理店は、もっとも有能なコピーライターをもち、″印刷されたセールマンシップ″がこの代理店の大きな武器になった。
数年後、ラスカーはJ・W・トンプソン代理店のジェームズ・ウェブ・ヤングに言ったものだ―――広告の歴史に残る重要な事件は、3つだけだ。
その一つは、彼が前代未聞の高額でケネディを雇ったこと。そして広告の過程のなかでもっとも重要な要素であるコピーを劇的に表現したこと。
他の2つとは、N・W・エイヤー&サンが15%の契約で広告をビジネスにしたこと。
第三は、トンプソンがウッドバリー石鹸の広告に″さわりたくなるような肌″と書いて、広告の中にセックスを導入したことである。



(「さわりたくなるような肌」とセックス感をいれたウッドバリー石鹸の広告)


ケネディの不思議な力は、ラスカーに本格的なコピー部をつくりたいという望みを高めさせた。
彼はまず、A・L・トーマスをうまく説得して、彼のファイルの一部を捨てさせ、その場所をオフィスに区切って、その中に9人のジャーナリストのための席をつくった。
ついにラスカーは、1898年にクライアントにたいして将来の発展をじまんした通りに、多くのジャーナリストを獲得したのだった。
ラスカーは、仕事が終わってから、規則正しくコピーの授業をした。
というのは、ケネディは一度に一人以上の人間に話しをすることを嫌ったので、ジャーナリストのグループを教えるわけにいかなかったのだ。
そのかわり彼は、コピー部門全体の仕事を監督した。
このようにしてラスカーとケネディは、名前の上で最初でないにしても実質的にははじめての、組織的に訓練されたコピー部門を設立したのである。
しかしケネディは、いつもむら気で、仕事ぶりもおそろしく遅かった。
そしてついに1907年、ケネディは腹立ちまぎれに共同の仕事をやめて、ニューヨークヘいき、彼自身のコピー・ビューローを設立した。
ロード&トーマス代理店には、当時としては他のどの代理店よりも多くの訓練されたコピーライターがそろっていた。
しかしラスカーはもっと新しい描写力をもつ才能の必要性を感じた。
彼は偶然に電車の中で、カーチス出版社の創立者であるシラメ・H・K・カーチスに出会った。
するとカーチスが言った、
「ぼくはいまシュリッツ・ビールを1本注文するところだ。この広告をみたら、急にノドがかわいてね」。
ラスカーは興味を感じた。
カーチス社の出版物には、アルコール性飲料の広告は一行たりとも許されなかったし、カーチス自身も自分で飲むことはほとんどなかったから。
そのうえ、シュリッツ・ビールは、彼がロード&トーマス代理店で手がけているビールの競合商品だった。
ラスカーは、このシュリッツ・ビールの広告をたどっていって、クロード・ホプキンズ(写真=晩年)を探がしあてた。
そして広告の歴史の中で記念すべき一時代が開かれた。
そのころ、ホプキンズはまだ10代の青年だったが、ビゼル・カーペット掃除会社へ入ってからの経路をラスカーに語った。
彼はエキゾチックな各種の色で塗った木で掃除器をつくり、それぞれの色の在庫を、小売業者に全部売りさばいた。
20世紀に入った年、彼はスイフト会社の広告部長になり、そこから、特許売薬の分野に入った。
そして、もとケネディが働いていたドクター・シュープ強壮剤のコピーを書いた。
そこでの最初の仕事は、咳どめのシロップだった。
彼はまた、一計を案じて、地方の薬剤士は、もし薬が効かなかったら、お客は代金を返してもらえるという保証つき契約にサインした。
そのコピーは、お客が咳どめシロップを2ビン以上買ったときに薬剤士は保証を与えるというものだったが、売上げは夢のように増えた。
次にホプキンズは、つまずいてばかりいる特許売薬会社に興味をもった。
その会社はポーレイ液体オゾンをつくっていたが、彼はまず、その名前をジクオゾンと変え、ついで、以前にドクター・シュープのところで成績を上げたのと同じ種類の方法―――リクオゾンを6本買いあげた人には、50セントびんを1本無料で進呈するという協定をつくって、この会社の販売目標をはるかに超えさせてしまった。
ホプキンズが手がけた最初の年の利益は1、800、000ドルだった。
ホプキンズは、ドクター・シューブとリクオゾンの仕事をするかたわら、フリーランス・コピーライターとして数々の仕事をしていた。
モントゴメリー・ワードや、彼をラスカーに引きあわせたシュリッツ・ビール……など。
当時のビールは、純度が大きなセールス・ポイントだった。
ホプキンズは犬のようにかぎまわって、純度を表現する新しい方法を探がした。
たまたま彼が工場へ見学にいったとき、ビールをビンにつめる前に、ビンは蒸気の中で浄化されることを知った。
彼はおどり上がって喜こんだ。
しかしシュリッツの人たちは、ビンを清潔にすることは、他のすべてのビール会社がやっていることで、特別に変わったことではないと言った。
だがホプキンズは説明した。
ビール業界全体が何をしようとかまわない、個々の会社がその会社のことを宣伝することが重要なのだ。
ビンを浄化することは、いままでに広告されたことないことに目をつけたホプキンズは、こうして、
「生きた蒸気で洗われた」
というキャンペーンを展開して、大成功をおさめた。
ホプキンズは18年間、ロード&トーマス代理店にいた。
そして、彼とラスカーは、非常に仲がよかった。
彼らはバン・キャンプの広告や、″鉄砲から発射された殻物″で有名になった押麦押米の広告や、パルモリブ石けんの広告などで、センセーショナルな仕事をした。
ホプキンズは、ラスカーと同様、仕事の鬼だった。
午前2時まで仕事場を離れることはほとんどなかった。
ケネディと逆に、おどろくべきスピードで仕事を片づけた。
ふつうはクライアントと話し合ってから24時間後には1年間のキャンペーンの計画書をまとめ上げていたし、48時間後には、そのコピーをすべて完成していた。
そのため、ラスカーはホプキンズがあまり早く仕事を片づけるので、クライアントがからかわれていると感じないように、わざわざ6週間も原稿をとめておく、というようなことがよくあった。
ホプキンズはテストすることの価値について教えた。
(たとえば、大きなキャンペーンをするときは、まずテスト・マーケットとして小さな町をえらび、そこで小規模な調査をおこなうことなど)
そして、結果を調べる方法としてクーポンを使うことを教えた。
彼はまた、格言的な言葉をフルに使った。
「すべての広告の災難は、性急さに原因する」
「人びとは田舎者からは買わない」
「輝かしい作家は広告には不必要だ」
―――ホプキンズは『科学的広告法』(訳:坂本 登 誠文堂新光社 1966.10.05)を著し、この時代の古典にされている。
ラスカーは、かつてケネディにしたと同じように、ホプキンズの未来へのバック・アップに非常な骨を折った。
ラスカーは、まったく夢のような幸運で、販売の天才であり、当代一流のコピーライターに出会ったと述べた。
ホプキンズが、彼の役割に向かって大またに歩いていくとき、彼の未来は神々と握手するように用意されていた。
当時、ロード&トーマス代理店で働いていたジョン・O・ヤングは、
「彼のコピーは、どことなくリクオゾンの香りがするようだった。その香りは、水道のじゃ口から出てくる混り気のないミシガン湖の水で、バイキンを一挙に絶滅させるような印象的な匂いのするクスリで味つけされていた。偉大なコピーライターで、同時代のわれわれにたいして、まるで巨人のようにそびえていた」
と語った。
ホプキンズは、ロード&トーマス代理店で働いた18年のあいだに、ラスカーが一時仕事を休んでいる期間、2度ほど、社長と会長をつとめた。しまいには、毎年ホプキンスが自分で作成した契約にしたがって協定が算定され、ラスカーは内容を読まずにサインした。
ホプキンズが1924年に退社するまでに、彼の年収は20万ドルを超えていた。
N・W・エイヤー代理店のラルフ・M・ハウアーは、当時の様子を、次のように述べている。
「厳しい節約のためのさしせまった必要と、販売を利激するためにあらゆる可能な方法を利用しようとする自然な欲求は、より効果的な広告テクニックを生み出しはしたが、その結果として、全国的に、安っぽい、不愉快なコピーの洪水をもたらした。とくに目立だせようとするレイアウトは、その他のコピー配列を混乱させた。あっと言わせるような見出し、ばかげた誇張、19世紀の特許薬のほかには例のないような露骨な、ペテンまがいものまであらわれた。しかし30年代の中ごろまでには、経済事情が好転し、もっとも悪い時期は終わった。また、30年代は広告のもっともすぐれた時期としては残っていないかもしれないが、大さわぎと叫びの中から、広告の歴史の大部分をつくりだした穏健な考え方があった。クロード・ホプキンズも、初めのころはバン・キャンプ・ビーンの潜在需要層に、競合者と競ってかきたてたが、競争は彼自身にたいしてと同様に、広告主にも働きかけるということが、30年代の初期にもっとも劇的に論証された。すなわち、当時、G・スターリング・ゲッチェルは、ウォルター・P・クライスラーに対して ”Look at all three." の有名なプリマス車の広告の見出しを認めさせた。
この広告は、ヘンリー・フォードの新しいV18エンジンのために特別予算を組んだおびただしい量の広告として打たれ、プリマスの販売の歴史に転機をしるしたといわれている」



(「三つとも見てください」と訴求して大成果をあげたプリマスの広告」)


真珠湾攻撃の日まで、コピーライターは感情的な訴え方をしてきた。
怖れに集中するよりも、優雅な生活をのぞむ強い衝動のあらわれとして問題のある主題に集中されメカニズムにおきかえられた。
ラッキー・ストライクの緑は、さっと戦場へ行った。
大量のコピーは、いまや製品がM-Iライフルやシャーマン・タンクのきわめて重要な部分であることを説明するために捧げられた。


終戦は、商業テレビをもたらした。
テレビの発達は、コピーライターにたいしても言葉の能力と同様に、劇的なタイミングの感覚をもたなければならないという要求が生まれた。
しかし、印刷ライターは、テレビのタイミングをよくつかめないという不満が起きた。
そこで代理店は大まかなアイデアをつくるだけにとどめ、コマーシャル・コピーやスクリプトを用意するのも、TVの映画会社の仕事になった。
しかし、しばらくたつうちに、代理店は自分たちのTV専門部を組織した。
ある代理店は、演劇学校、脚本作家群、放送局から新人を募集して、″TVコピー部″と呼ばれるところヘプールした。
しかし多くの代理店は、このような構成は、テレビと印刷という異なった2つの広告アプローチを混合してしまう危険があるといって、慎重になった。
彼らの考えによれば、クライアントの商品を売るよりも、作品の数や、小道具のことばかり気にする募集された劇作家の中から広告ライターを育てるのは面倒なことである、したがって、印刷コピーライターに、TVですることと、してはいけないことをほんのすこし教えて仕事させる方が得策である、という考えであった。
初期のテレビ・コマーシャルのほとんどは、まじめにカメラをのぞいて商品のことを話しあっている、カメラマンやピッチマンから提供された。
それらのコマーシャルは、たぶん、こんにちの凝った広告コマーシャルよりも一層効果があった。
当時はまだテレビができたばかりで、視聴者もソフィスティケートではなかったから。
しかし視聴者がずるくなるほど、重い、灰色のカーテンの前で話しをするセールスマンのアイデアは「高価なラジオ」として見られた。
そしてアニメーション、笑い、生活の断片、胃袋の中、美しい女などが、あらゆる劇的工夫をもたらして登場した。
変遷の中で、テレビ時代に生まれた若いコピーライターが多くの代理店へ出発した。
それらの代理店のいくつかでは、テレビのコピーと印刷コピーは、2つに分かれていた。
しかしほとんどの場合、広告の全体の仕事を受けもっているのは、印刷関係のコピーライターだったし、現在もそうである。                           (訳・岡田 耕さん)


【補】C.ホプキンズ『科学的広告法』の口絵より


いつか、抄文でも紹介したいと、元『ブレーン』誌編集長で、退職後、ニュージーランドへ移住してしまった坂本登さんのアドレスへ連絡・許可をとおもっているうちに、歳月が過ぎてしまった。


ご生存であれば91歳。
『科学的広告法』は、氏からいただいたもの。


>>続く




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