創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(693)コピーライター……現在・過去・未来(1)


TCC(東京コピーライターズクラブ 会員誌 第3号 昭和38年10月10日号)より


こんどの地震で、書斎の書棚8連が倒壊、本が散乱。いまだに復元できない。
(完全復元は半年先であろう)
そんな散乱の中に、上記がひょっこり、出てきた。
題字下に、編集担当 西尾忠久 とある。


そういえば、あのころは、そんなことにうつつをぬかしていたなあ。
(でもね、この4月に新入社したピチピチのコピーライターの卵たちの副読本にはなるであろう。)

原文をコピーし、4人の英語に堪能なメンバーに訳を依頼した。


図版は、新たに、探して添えた。

(都合により、過去からスタート。)


前書きを書いている。


プリンターズ・インク誌1963年6月14日号は、「広告――今日、昨日、明日」と題する大特集にあてられている。全部で39章あり、その第5章は、ジュディス・ドルギンス女史の担当になる「コビーライター――現在、過去、未来」にあてられている。
アメリカの話とはいえ、日本の私たちにも参考となるところが多いので、TCC会員有志によって訳出を試みた。
なお、筆者のドルギンス女史は、広告代理店でパブリシティ関係の仕事をしていたこともあるフリーのライターである。
(解説・西尾忠久)


2.過  去(1)


厳密な意味で、過去にコピーが書かれた跡をたどっていくならば、はるかに3, 000年も昔にさかのぼる。
エジプトのある地主が逃亡奴隷に<帰ってきてくれ>という広告を書いている。
その記録はテーベの遺跡から発堀され、現在大英博物館に納められているが、広告そのものにどれくらいの効果があったかについては記されていない。
しかしこれとか、古代ギリシャ・ローマのビラとか壁書きの類を除外すれば、広告の歴史は15世紀中ごろの印刷活字の発明があきらかにその出発点となった。
とはいっても、ここで取り上げるに十分値いするような広告が出はじめたのは18世紀、すなわち定期刊行物などが相当の発行部数を持つようになってからのことである。
その頃にはまた広告ライターたちの方でも、自分たちの仕事に対して、以後はてしなく考えてきた数々の定義の第一項をものにしている。
1710年、アディソン&スティールはタトラー誌で次のように言った。
「広告を書くのにまず必要な技術は…読み手の目を把えることである」


その後のコピーは一進一退した。
たとえばメーカーの売り物をナマのまま告知するもの、製品名を単に反復するもの、スローガン、ジングル、<その理由(わけ)は reason why>スタイル、情緒に訴えるものなど、時と場合に応じていろいろなことがなされた。
そうした初期のコピーの多くは、その後のより文学的な風土のなかで成功をおさめたライターたち、1例をあげればサポリオ石鹸のために書いたブレット・ハート、あまりコピーがパッとしていないといって断わられたというチャールス・ラム、それにワレンス靴墨の女社長が「私どもは詩人にお願いしてるんですのよ」と誇らしげに言っていたことからの推測だが、バイロン卿らにくらべるとどちらかといえば詩心のない人たちによって書かれていたのである。
近代広告として知られる限りでの歴史は数少ない人たちによってつくられている。
すなわちジョン・E・パワーズ、ナサニェル・C・ファウルズ、チャールス・オースチン・ペイツ、ジョン・E・ケネディ、それにクロード・C・ホプキンスなど、いずれもコピーライターのパイオニア、ないしは近代広告の草分けとよく呼ばれている人たちである。
初期のコピーライター数人の名前は、その頃に彼らの力で有名になり、業績も伸びた代理店の社名にも見られるのでご存じであろう。
アーネスト・エルモ・コーキンス、フルース・バートン、レイモンド・ルビカム、ジョン・オア・ヤング、シオドア・F・マクマナス、ジョン・R・アダムス−−−彼らがそうした人たちなのだが、さらにもっと多くの人たちの名前は、いまでは誰にも憶えられていない。
19世紀中ごろまでは、広告といえば専らスペースを買った人たちが自分で手をくだしてつくっていた。
ところがその頃になると、徐々にこの仕事はある種の専門的な技術を要するものだという気運の高まりも反映して、1860年代前後には幾人かのフリーランス・ライターとか、当時の言葉でいう「文士」たちが登場してきた。
なかにはヘンリー・J・レイモンド(ニューヨーク・タイムズ創立者)のようなジャーナリストもいた。
彼はP・T・バーナムと同じく、その恵まれぬ時代を売薬のコピーを書きながら切りぬけている。
またブレット・ハートのように、金のために広告のコピーを書くという、正真正銘文学的なタイプの男も少数いた。
しかしながら、そうした文士たちにとって幸運はそう早くは来なかった。
1881年にはニューヨーク全体で独立して書いている広告ライターが2人いたが、その彼らがどんな風に仕事をしていたかといえば、1人は郵便物を局の一般配達窓口気付で受けてい、もう1人はバワリー通りの25セント宿にやっと寝泊りできる程度−−−そんな状態なのであった。
むしろ突然といってもいいであろう、その頃になって急にコピーが専門的な技術として伸び、1894年までに「アド・スミス」たち(簡単にいえば「文士」と同じ意味である)が数百人を数えるようになったのである。
1898年、プリンターズ・インク誌が主催した広告ライター・コンクールには851人もの参加者があった。
しかしその割には、いずれも少々インスピレーションを必要とする人たちばかりだったと見え、その後、手ごろなキャッチ・フレーズ集……といっても「誠実な品を誠実なお値段で」というのから「さあ、来い、マクダフ。最初に<待った、参った>と言った奴は呪われるのだぞ」といったものまで、まさにすべてにわたって多く示唆した標語集が数冊も出ている。
1880年代から1890年代の間には、重要な意義があり、また以前から並行していた一連の進歩がいくつか見られた。
製品名を単に掲げていたものが、すでに薬品広告では大声で呼びかけるものに置きかえられてい−−−すなわちいよいよジングルとスローガンの時代が夜を明けはじめたのである。


一般の代理業者たちはまだスペースを取扱うことが自分たちの仕事であり、その準備・制作はしないものだと信じていたが、少数のものはさらに多くのサービスを求めて得意先の圧力に従いはじめ、非常勤の形でライターを雇っていた。
そしてこれは恐らく最も重要なことだと思われるのだが、もう幾人かの広告作家たちは自分たちで革新的な仕事をして相当な名声を築いたり、コピー・ライティングの理論だとはっきりいえる最初のものをつくりあげようとしたりしていた。
彼らすべてのうちで最も大きな影響を与えたのは、ジョン・E・パワーズ−−−それもとくにいうなら、フィラデルフィアにあるジョン・ワナメーカー店の広告を書いていた6年間の彼である。
若い頃、「ザ・ネイション」の予約購読者代理業をしていたパワーズは、最初の注目すべき広告の仕事をイギリスでした。彼は1860年代にその地へ派遣され、ウィルコック&ギブス・ミシンの海外市場開拓を援助するよう命を受けていたのである。
質問形式コピーの誕生は一般には1890年代の終わりとされているが(そして事実その頃まではあまり使われなかったのだが)パワーズは、はや1869年にイギリスの家庭雑誌「ゴールデン・アワーズ」6月号の1頁ミシン広告で強力な質問形式の手法をとったのである。
彼はまた同じミシンのためのものだが、一種のシンギング・コマーシャルに、伝統あるクリスマス・ページェントを利用するといった、一連の桁はずれの企画も数々夢みていた。
そんなことから彼には超セールスマン的なところがあるということになり、彼はたちまちのうちに有名になった。


ニューヨークに戻ったパワーズは「ザ・ネイション」誌の発行人となり、こんどは編集面でさらに効果的な広告コピーをつくる運動を起こした。
その彼の思想に強く賛同したニューヨークのロード&テーラー店は1870年に彼を雇い、広告制作を依頼した。
するとそのロード&テーラーの広告に感心したワナメーカーは、それがウィルコック&ギブス・ミシンのコピーを引き受けていたのと同じ男の作であると知ってもう一度感心した。
彼はかねがねその広告をイギリスの雑誌などに推奨していたこともあったので、1880年にパワーズを雇い入れた。
少々の気取りはあるが、簡潔で澄んだパワーズの文体は、当時流行の美文調などからはまったく抜きん出ていた。
そして他の文士たちの間では「パワリズム」という言葉が簡潔で力ある文章をさす代名詞にもなった。
パワーズとしては、レイアウトをスッキリさせること、へッドラインを簡潔にすることを、なかば迷信の如く信じていたものだから、あるときも、ほとんどすべての広告が小さなエゲート・タイプの活字で埋められているのを見て、彼ははっきりと主張している−−−ワナメーカーの広告にはこれから12ポイントのキャスロン・オールド・スタイルを使いましょうと。(この活字は字面も大きくて読みやすく、広告制作者仲間では後に「ワナメーカー・タイプ」として知られるようになった)
しかしパワーズが真に寄与したのは簡潔な文体とか虚飾のないレイアウト、キャスロン・オールド・スタイルの採用などにあったのではない。
彼と同年輩の人たちの多くとは違って、彼には熱狂的なまでに広告に対して誠実なところがあり、またジョン・ワナメーカーをも少々不安にさせたほどなのだが、彼には社内の誰かがふと彼にもらした内密な事柄までそっくりそのまま広告につかってしまう気性があったことである。
一例をあげるならば、かつて彼がフロアーを行ったりきたりしていたときのことだった。
(彼は客や同業者とまず下話しをしてからでないとコピーを書かなかった)
ゴム製品の業者だった男が彼を呼びとめ、つぎの広告でどこの売場を扱うのか、ちょっと一言いってもらえないかと頼んだ。
「なにを?」
パワーズはたずねた。
「実はあなたと私の間だけでの話なんですがね」
とその業者の男、
「いま棚ざらえしたいと思っているハンパ物の極薄レインコートをたくさんかかえてるんですよ」
数日後、その男は新聞の広告面を見て驚いた。
つぎのように書いてあったのである。
「ただいまハンパ物極薄レインコートなどを棚ざらえしています」(午前中にそれらはすべて売り切れてしまった)
パワーズがよくやったこの手の告知ものコピーではまずまず事なきを得たのだが、その後、ワナメーカーが、イギリス・ラベルのついた帽子300個とアメリカ・ラベルのついた帽子300個つきで工場を一つ買いとったときのことである。
その社の幹部役員たちが、それらぜんぶをイギリス・ラベルにするべきか、アメリカ・ラベルにするべきか、あるいは双方のラベルのままにしておくべきかと喧々ゴウゴウの論義をかわしているのを吐きだしたいような気持ちで傍聴していた彼は、こんな広告をかいた。
「結局オリジナル・ラベルをつけることにいたしました。ですからアメリカ・ラベルのついたアメリカン・ハットでもイギリス・ラベルのついたイングリッシュ・ハットでも、どちらでもお求めいただけます」
この広告がジョン・ワナメーカーの未承認のまま新聞に出たものだから、パワーズは解雇されてしまった。


その後の彼はフリーランスのライターとして、スコッツ・エマルジョン、ビーチャムス・ピルズ、マーフィーズ・バーニッシュといった当時の大手広告主たちの広告をかくことになった。
聞くところによれば、彼はスコッツ・エマルジョンのシリーズ広告で一日100ドルの収入を得、また1880年代の終わりごろまでには年間10,000ドルを優に越す収入を得ていたという。
これは当時の広告制作料としては尨大な額である。
しかしこのように彼の名声がひろがるにつれ無数の競争者を生みだすことになった。
それがさらに昂じて敵意となり、とうとう反パワーズ派の理論まで持ち上がるようになった。
すなわち大衆は製品特長のくだくだしい説明などにはとても寄りつけるものではない、ごく簡単なコピー以外はすべて排除すべきである、というものである。
この考え方はさらにすすみ、たとえば<Use Sapoli>(サポリオをどうぞ)、<Eat H.O>(H.Oを召し上れ)といった「2語キャッチ・フレーズ」説にまで発展した。


マンリー・M・ギラムといえば、ワナメーカーで数々の伝説を残したパワーズの後を継ぐというあまり自慢にならぬ仕事を引き受けた男だが、彼も自分なりの力でその仕事を立派に成功させている。
フィラデルフィア・レコードの編集主幹だったそれまでのギラムは、バターのコピーを一度書いたほか経験はなにも持っていなかった。
それもある日のこと、新聞出版者が彼のもとにやってきて、ひとつあなたの豊かな持ち味でバターの味を、生かしてもらえないものですかね、と頼んだからだった。
ギラムはかってのパワーズの「ワナメーカー・スタイル」には感心していたこともあり、自分のバターの広告でもそれを真似ることになったのだが、結果は大成功だった。
そこでジョン・ワナメーカーが自身でレコードの事務所にやってきて彼を雇ったのである。
ギラムが引き受けたのは小売部門の仕事だけに限っていたが、それでも当時としては最高の広告予算をこなしていた。(ワナメーカーはその頃、年間30万ドルから40万ドルくらい使っていたといわれている)
ーーーだからでもあるが、彼のコピーはハメをはずさない直截なものながら、ほかのライターたちにも相当な影響を与えている。
19世紀末期の広告ライターたちのなかで、抜きんでて多作であったのはナサニェル・C・ファウラーである。
ちょうど簡潔な文章を「パワリズム」といったように、当時のライターたちがせっせと自分のものにしようとしていた、「一つの広告には一つのアイデアだけにする」という考え方は「ファウラー・アイデア」として知られている。
1880年代の終わりごろに彼はコロンビア自転車の広告でひろく知られるようになり、それまでに彼はコルセットの専門家でもあった。
1891年にボストンで代理店主として一仕事をすませたあと、彼はまたコピーの実作に帰った。
ファウラーは自分自身と仕事とを切り離さず、同じように真摯に考える謹厳実直肌の男だっただけに、彼はユーモアとか思いつきの洒落などには真向から反撃し、つぎのようにいったりもした。
「こうした戯れ言のような広告がよく見えることもあるだろう、まるですばらしい説教師が途方もないセンセイションを巻き起こすように。しかし問題は、その広告で商品が売れるかどうかですよ」
この発言はジングルや目先の変わった表現が横行していた当時としては異端にも近い反論であった。
またファウラーは広告作法とその実務一般について述べた最初の重要な書籍「ビルディン・ビジネス」(コピーとタイポグラフィーのハンドブック)を書いて1892年に出版し、さらに5年後には1016ぺージにも及ぶ有名な「ファウラーズ・パブリシテイ」を世に出した。
とくに後者について彼はその広告のなかで「広告と印刷と、そして大衆を把える側から見たビジネスについて、そのすべてをかいた百科辞典」であるといっている。
ところで一方、インデアナポリスにあるニューヨーク・ストアの宣伝部長、チャールス・オースチン・ペイツは小売市場で一流ライターの1人として、その名を博しつつあった。
プリンターズ・インク誌の常連寄稿家でもあった彼は、広告についての広い見識やユニークな表現スタイルを発表して大方の真面目な注目を集めたりもしていた。
そんなことから後に彼がニューヨークヘ出てきたときには、たくさんの広告主を集めてたちまち一つの大きな得意先系列をつくりあげ、当時のライターたち流の呼び名である、彼の「アド・ライテイング・ビューロー」は間もなく当時最大のものとなった。
彼はまた小売面での素地も豊富にもっていたところから、
「広告はニュースである、だから広告がその効果を高めるためにはニュース体の形をとらねばならない」
という、至極もっともな前提を持ち出してきたりした。
ところがこうした見方自身がニュースだったので多くの追随者を得ることとなった。
1896年にベイツが出した「グッド・アドバタイジング」は実務文学に大きな貢献をしている。
そのほかに、広告ライターという看板を掲げて名をなした人たちの名をあげれば、ウォーターベリー時計のコピーで有名なウォルスタン・デイクシー、シカゴの第一人者だったE・A・フィートリー、それに元ニュース・カメラマンでハイアーズ・ルート・ビールやセント・ジェイコブズ石油のコピーを書いて評判をとったフィラデルフィアのチャールス・M・スナイダーなどがいる。
またジョージ・ダイヤー(彼は後に一流代理業者になった)は1893年にハート・シャフナー&マークスの広告部長として仕事をし、小売市場向けの広告コピーに大きな影響を与えた。
同時代のもう一人のフリーランスの作家であったエルバート・ハバートは、ジレット剃刄、ノックス帽子、スタイン・ウェイ・ピアノ、リグリー・ガム、ハインツ食品、エルジン時計などのコピーに情緒的で誠実なものを書き、いつも自分の作品には誇らしげに「エルバート・ハバート作」と署名を入れていた。
彼はまたロイクロフト・プレスを創設し、著作では「ガーシャヘの書信」とか、たとえば「ジョージ・エリオットの故郷への小旅行」といった自伝的エッセイである「小旅行」もので最も知られている。
これは彼がいつもやった手で、広告のなかでもときどき「スタイン・ウェイ・ピアノの故郷への小旅行」といったものをかいている。
ところで1890年代の終わりごろになると広告を書く仕事がこれからの職業としてもてはやされるようになり、コピーライターという新しい言葉も聞かれはじめるようになった。
数は少ないながらある人たちは、このコピーライターが将来もうひとまわり飛躍した存在になるのではないかと考えはじめ、またプリンターズ・インク誌は1895年の10月号で、「心理学のあるコースはこれからの学問になるだろう、というのは<広告ライターと教師がともに人間の心を動かすという、共通の大きな目標物をもっている>からである」と、はっきり推断を下している。
もちろんそうした推断は当然下されていいことであった。なぜなら専門のライターといえる人間は天恵の如く突然出現するものではないからである。事実、多くは未熟な初心者であり、向う見ずな発言やくだくだしたムダの多い奇想、それに詩的な飛躍などをしがちであった。
これはたいていのコピーライターの基盤としていたものが、まだまだ商才より<文学的>な才であり、また身につけた作詩学への期待や批評眼といったものが、ただ独創力と器用さに過ぎないからであった。
それを救うひとつの助け手が出版者側からやってきたのである。
「ユース・コンパニオン」誌は早くからコピー企画部を設け、コピーとタイポグラフィー両面の援助をしていたが、そのために同誌に出る広告の質は他の出版物の水準から比して格段にすぐれていた。
そしてひいてはこのことが、つぎのより高い水準を築くうえに重要な役割を果たすようになったのである。
同じく新聞部門でも「ワシントン・スター」紙の支配人、フランク・B・ノイズは広告主の便宜をはかって広告制作室を設けたし、1896年までには他の数紙も同じような出方をしていた。 
一方、19世紀も終わりに近いころには、広告代理店のほうも得意先からコピーの準備制作に参加せよという圧力をさらに強く受けている。
1888年にまずN・W・エイヤー&サンがジャーヴィス・ウッドを雇い入れた。
このライターは言葉を選ぶ才がすばらしく、いつのまにか代理店の広告制作者としては当時の重要な存在となった。
他の代理店も同じような動きをしていて、ナショナル・アドバタイジング社はエイヤーと同じ頃に「コピーとデザインの制作をお引受けする」準備が整ったとはっきり宣言し、ローウェル代理店も1981年には同種のサービスを提供しはじめている。
ところでこのローウェル代理店にはジョン・アーヴィング・ローマーという若い男(彼は後にプリンターズ・インク誌の編集者になった)がすでに1888年以前に専門のライターとして雇われていた。
そこで彼は史上初の代理店の勤務ライターであると主張した。
するとその主張に異議を入れたのがジョーゼフ・アディソン・リチャーズである。
彼はJ・H・ペイツ代理店の注文でペアーズ石鹸のコピーをかいていたからだった。
しかしまあ誰が真のパイオニアであったにせよ、コピーをかくことがまだまだ代理店の機能として確立された部門などでは決してなかったし、また常勤者を要する仕事でもなかったことは確かである。
同上のリチャーズは1981年ごろベイツ代理店の仕事をするかたわら、フリーランス・ライターとしても自分のサービスを提供しながら広告業を営み、当時としては勤務しているのと変わらぬくらい、かなりの収入を得ていた。
その彼がきまって最後にかく挨拶はこうであった。
「私か広告代理店と関係しておりますからといって、お気づかい下さるようなことはございませんように…」
コピーの準備・制作を引き受けた代理店はごく小数であったが、その数少ないところでさえ、最初の頃やったことといえば、得意先から送られてきた原稿の語句に修正を加えるか、なかの文章を適当に書きかえる程度がせいぜいであった。
しかし時がたち、競争がはげしくなるにつれて代理店もさらに余分なサービスを提供せざるを得なくなってきた。
そればかりか、コピーが貧弱で広告に効果がないとなると、こんどは確実に自分自身にまではね返ってくることがわかりはじめてきたのである。
そこではじめのうちは、代理店の開拓部門所属ではあってもあまり関係のないところ、ただの添えものといった形で出発したコピー制作の仕事が、いまでは第一線に踊り出て、代理店の最も重要な機能の一つにまでなってしまった。
1882年、N・W・エイヤーはジョン・J・ガイジンガーに彼の全精力をコピー制作に注いでもらう約束をしてもらい、名実ともに常勤ライターをスタッフにもつ最初の代理店となっている。(しかしこうした拡充をはかりながらも1884年になるとエイヤーは、ちょうど3年前にやったのと同じようなコンテストを行なう必要があると感じていた。つまりその得意先であるフェアリー石鹸・ゴールド洗剤のメーカー、N・K・フェアバンクのために一般からコピーを募り、寄稿されたなかの最高のものには賞を与えるといったものである)
またこの頃になると、たくさんの広告主の間で広告の制作と出稿の依頼先を別にしてはどうかという智恵が生まれ、真剣に論議されるようになっている。
ところがまもなく結論としてかなり明らかになったのは、広告制作と媒体選択とが広告企画全体として見た場合、密接不可分の要素であるということだった。
そんなこともあって、総合化のより進んだ代理店はスペース単価の割引き競争の戦列には加わらず、自社のクリエイティブ組織の拡充へと乗り出しはじめた。同じようにコールキンス&ホールデンやチャールス・オースチン・ベイツのような「コピー専門店」も、この場合は経験豊かな媒体マンを雇い入れ、総合代理店になって行った。
エイヤーも1900年にはそこの最初のライターであるジャーヴィス・ウッド(彼は後に社員となった)の名前を冠した正式なコピー部を設立し、いくつかの他の代理店も満足な部を持っているとはすぐには宣言したかったものの、だいたいにおいてコピー・スタッフの拡充をはかっている。
19世紀を通じて見ると、一時的の無邪気な遊びに過ぎなかったようだが、それでもコピーを書きながらつい詩の世界に飛びこんでしまうという傾向がときどきあった。
ちょうどブレット・ハートがサポリオ石鹸のコピーでロングフェローの「エクセルショー」をもじった風刺詩を書いたときのようなものだが、そんな傾向のあった1891年に、フリーランス・コピーライターのカール・M・スナイダーが連作のジングルをつくりあげた。
デ・ロング・フック&アイのためのもので、少々あいまいながら簡潔な自作のスローガンをテーマにして書いたものである。
ところがまもなく「あのハンプを見てください」(See that Hump)というその一句が車内広告にワッと登場して商品を売り、一種の言いまわしに使われる言葉にもなったのである。
その典型的な例を一つご紹介することにしよう。


  彼が席を立ち、譲ると
  彼女が坐っていいました
  「ありがとうございます」
  −ーーと、男が倒れて死にました
  けれども息をひきとるその前に
  彼はそっと囁やきました
  「あのバンプを見てくださいね」


こうしたジングルの流行は1900年ごろその頂点に達し、1903年ごろまでには姿を消してしまった。
とはいえこの3年間は、プロクター&ギャンブルが起こした全国ジングル・コンテストになかば刺戟された、まったくの狂った期間であった。
それまでに成功していたジングルのすべてが、1900年にJ・K・フレーサーの書いた連作もののバカ当りでたちまち影をうすくしてしまったのである。
彼は工学士の学位を得てコーネルを卒業したばかりの若者で、市電の広告スペースをほとんど手中におさめているワード&ガウに入った勤務ライターであった。
そこの重役の一人であるアーテマス・ワード(ユーモア作家のアーテマス・ワードとは別人)がサポリオ石鹸の広告担当もしていたところから、その彼にフレーサーが自作のスポットレス・タウンという、架室だが腐敗を知らぬユートピアを描いた詩と挿し絵の一部を見せたのである。
スポットレス・タウン市民の生活を物語るフレーサーの詩は大衆の興味をも大いにそそり、まるでこの新しいシリーズ広告が連載物をつぎつぎと待たれるように待たれた。
そしてその舞台の町や登場人物についての記事は多数の新聞や時事マンガ、俗謡の類にまで顔を出し、ある実在の町などは、その町名をスポットレス・タウンと永久に変えてしまい、また4軒の地方興業会社がフレーザー原案のショウを企画し、立派に予約の前売りを行った。
その後ワードは30年間サポリオ石鹸の広告担当部長としてとどまり、フレーサーはやめてオールド・ブラックマン社の幹部になり、現在はコンプトン広告代理店の幹部であった。                 (訳・木本和秀さん)  





(架空の都市---スポットレス・タウンの車内広告)


>>続く



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