創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(419)『コピーライターの歴史』7月26日まで夏休み(2)


1週間の夏休みをいただいて仕込み中です。
ありものですが---


東京コピーライターズ・クラブの中堅のメンバーたちが『5人の広告作家』(誠文堂新光社 1966.3.25)を訳出した時、付録のような形で「コピーライターの歴史」をまとめてみた。デザイナーは、デザイン学校のカリキュラムに「デザインの歴史」が組み込まれているが、コピーライターには専門的カリキュラムがない。プロフェッショナルとして当然知っていなければならない歴史である。いまの仕事は、その延長線上に、各人が新工夫を凝らしているのだ。


『コピーライターの歴史』



米国におけるコピーライターとコピー原則の歴史を記述するにあたり、誰から書き始めるかは、興味のある点でしょう。
まさか、1880年代に「文士 literary man」と呼ばれて、食うや食わずの生活のために広告コピーを書いていた人たちにまで光りをあてる必要はないでしょうが、「パワリズム」という簡潔で澄んだ文体を、フィラデルフィアのワナメーカー百貨店のためにものしたジョン・E・パワーズを最初にすえるか---。

あるいはまた、1900年に広告代理店としては最初に正規のコピー部を創設したN・W・エイヤーズー&サンの事情、そして初代の部長になったジャビーズ・ウッドからかきはじめるか---。

この2人のほかに、「近代広告」の歴史を拓いたといわれているナサニエル・C・ファウル、チャールズ・オースチン・ベイツ、ジョン・E・ケネディ、クロード・C・ホプキンズなどの中から選ぶか---。
それは、広告コピーをどう認識しているかによって決まるとおもいます。
私は、ジョン・E・ケネディ(John E. Kennedy)からはじめたいとおもいます。
なぜなら、たんに広告コピーを書いたというだけではなくて、広告による大衆の説得という点を考察し、その結果を創造的な原則として提示してきた人でなければ意味がないと考えているからです。


ケネディの「販売」コピー哲学

1904年の春、シカゴの広告代理店ロード&トーマス社の共同経営者になったばかりのアルバード・ラスカー(Albert Lasker)がA・L・トーマスと世間話をしていると、階下のバーから1枚のカードが届きました。

こう書いてありました。
「私はあなたに、広告とは何かをお教えすることができる。あなたは知らないはずだ」
トーマスはこのカードを無視しました。
しかし、ラスカーは、ちょっと心にひっかかる何かを感じました。そして署名を見ました。
「ジョン・E・ケネディ
ラスカーは、
「会ってみよう。別に損することはなかろう」
といいました。

2人は、真夜中まで話し合うことになってしまったのです。
ラスカーは「広告はニュースだ」という考えを抱いていました。
それは、チャールズ・オースチン・ベイツが「良い広告」に書いている考え方にしたがったものです。

ケネディはいいました。
「いや、ニュースは演出技術の一つではあるが、広告の本質的意味はそうではない。私はそれを3語でいうことができるる」

ケネディは言葉をつづけました。

「広告は、印刷された販売技術である。 Salesmanship in print」

このケネディのことばを聴いた瞬間、ラスカーはすべてを了解したと伝えられています。これは、広告界の神話となっている話です。

当時のケネディは「ドクター・シューブ」という強壮剤(サプリメント)のコピーを書いており、年間2万8000ドルの給料をとっていました。これは同時代の広告人、とくにコピーライターとしては破格の高給でした。
ラスカーはケネディを引き抜いたのです。

ところで、広告に関する定義は3語で片づきました。

が、印刷された販売術を有効ならしめる要素は何か、ケネディはラスカーに説明しました。
広告は読者に、その製品を買わせるに十分な理由を与えるべきである、と。

十分な理由説明 reasons-why とは---なぜこの商品のほうがよいのか、なぜ値段が安いのか、同業者のものよりすぐれているのはなぜか。なぜか、なぜか---を買い手が納得するように説明するやり方のことです。

24歳のラスカーと40歳代も終わりに近いケネディとは、それからずっと、仕事が終わったあと毎晩、コピーの研究をつづけたのです。

とにかく、このようにして広告コピーの哲学は生まれ、また、今日のベスト広告の基礎をなす「理由説明」という根本原則ができあがったのです。
それは1905年に、ケネディの『広告テストの本 The Book of Advertising Tests』という、12ヶ条・39ページのタイプ印刷のレポートにまとめられました。

2年もすると、ケネディの給料は7万5000ドルにもなっていました。
しかもなお、ケネディはラスカーに夜の講義をつづけていました。
すなわち、広告において重要なのは広告コピーとその書き方であることを教えていたのです。

ラスカーもクライアントを勧誘するとき、ケネディのことをくわしく話さないうちは商売の話にはいらなかったといいます。

ラスカーは後に「全米にとって、広告のすべての外観は、その日以来、変えられてしまった。そしてすべてジョン・ケネディの結果そうなったのだが、今日だれでも、広告を一つの偉大な開業医として理解している」と回想しています。


ホプキンズ、コピー調査から学ぶ


ケネディがロード&トーマス社(Lord & Thomas advertising)を辞めると、ラスカーは、クライアントの勧誘に出かけたときに、もっとも巧みに事情を説明できるすぐれた才能の持ち主の必要性を痛感していました。

そして、たまたま、シュリッツ・ビール(Joseph Schlitz Brewing Co.)の広告コピーを書いていた男がクロード・ホプキンズ(Claude Hopkins)であることを知ると、年俸18万5000ドルで強引に入社させてしまったのです。

そのビールの広告というのは、いまではだれ一人知らぬ人のないほど有名な話です。当時のビールは、純度を最大の武器として競争していました。

ホプキンズはまず、工科の学校へ通って醸造の勉強をし、それから工場を見学しました。

そこで、ビールがびんに詰められる前に蒸気でびんが洗浄されているのをみるや、「生きた蒸気であらわれた」という見出しを考えだしたのです。

ビール会社の人たちは、こんなことはどこの会社でもやっていることだと反対しました。

しかしホプキンズは、

「ビール業界がどんなことをしていようとかまわない。大切なのはそれぞれの醸造会社がどうやっているかを広告することだ」

といいきりました。

効果はみごとにあがったのです。

シュリッツは全国で第5位の売り上げでの商品でしたが、ホプキンズの広告を採用して2、3ヶ月後には1位にのしあがるという奇跡を実現したのです。

「悪いビールと清潔なビール」

という訴えに、他のビール会社は地団駄をふんでくやしがりましたが、あとのまつりです。

こうしたホプキンズの考えは、当時としてはまさに革命的なものでしたが、いまでは広告原理の一つとされ、本書(注・『5人の広告作家』)の中では、ロッサー・リーブスが「ユニーク・セリング・プロポジション(独創的な販売命題)」と名づけています。

クロード・ホプキンハズは一農家の少年から身をおこし、おもに、ロード&トーマス社でコピーを書いて巨万の富を築いた、いうなれば、もっとも米国的なコピーライターでしょう。

シュリッツ・ビールの広告作戦に参加する前に、10代でビゼル掃除機会社の仕事で、掃除機を柄をエキゾチックないろんな色に塗りあげて小売店在庫を一挙に高めたり、スイフト食品会社の広告部長を勤めたり、ケネディも関係していたドクター・シューブ(注・強壮サプリメント)のコピーを書いたり、ポーリー液体オゾンの権利を買い取って商品名を「リクオゾン」と変え、6本買えば50セントびんを1本無料進呈という新手を考えだして、初年度に百万ドルの収益を手にしていました。

しかし、こういった奇策縦横ぶりをいくら書きならべてみても、ホプキンスが「いつになってももっとも偉大なコピーライター」といまなお呼ばれている秘密に触れることはできません。

ホプキンズを理解するためには、彼が1923年に書いた『科学的広告法 Scientific Advertising』を紹介しなければなりません。

この本の第1章で、ホプキンズは「広告の原則」について述べます。ここで彼は、彼と彼の仲間が、広告の法則を見いだすために、いかにしてコピー調査(テスト 通信販売テストと調査研究)を利用したかを説明しています。

信販売(メール・オーダー)広告という形式の広告は、現在の日本にはほとんど利用されていません。

(chuukyuu注:いまではテレビ・ショッピングやネット販売がこれにあたろう)

したがって、この形式の広告コピーを経験したコピーライターもほとんどいないといっていいとおもいます。

これは、米国と日本の広告の発達の仕方の差ですからなんともいえませんが、日米のコピーライターの心構えのの違いがあるとすれば、原因は、あんがい、こんなところかも知れません。

すなわち、通信販売広告の場合ですと、その広告掲載料に見合うだけの販売がその広告によって確保されなければ、つぎの瞬間からは広告をつづけえなくなるのです。したがってどう書けば販売が推進されるか、なにが読者の行動をうながすかといったことが、具体的に一つ一つ実践的に調査され、検討されるわけです。

1%の販売量の差の原因が、2つの広告原稿を検討する要素になるのです。

ホプキンズの『科学的広告法』が1952年に再版されたとき、アルフレッド・ポリッツはつぎのような序文を書きました。


「偉大なコピーライターであるクロード・ホプキンズは、30年も前に基本原理を定めた。


−−広告における創造の偉大な代表である、この卓越した仁が、ひじょうに高度な分析科学者であったということに注目するのはおもしろいことである。

彼自身は、自分が分析科学者だとは思っておらず、彼が広告について学んだほとんどすべてのことは、それが通信販売の形で彼の手許に届けられたコピー調査によるものだといっている」


なお、ホプキンズの経歴に関する資料としては、彼の伝記『わが広告における生涯 My life in Advertising』があります。

ニューヨークのある広告代理店では、全社員にこの本を渡して、全文を暗記するようにとも指示したそうですが、これは行きすぎでしょう。

ホプキンズといえども、間違いを犯しているからです。

たとえば、

「あなたの製品の使用者は、あなたの広告を読まない」

とその本の中でいっていますが、今日の市場では、このことばは誤りであることが証明されています。

ロード&トーマス社に籍をおいた18年間に、ホプキンズは、社長に2度、会長に1度就任しました。

ラスカーのホプキンズにたいする信頼はそれほど厚かったのです。

ラスカーは、会社をホプキンスにまかせて、自分自身は休養のためと称して、仕事から一時手をひくことがあったのです。

そうはいっても、ハード・ワーカーである点では、2人は共通していたようです。

午前2時前に仕事場を離れることはめったになかったといいます。

しかも、ホプキンズは、ケネディと違って仕事が早く、クライアントと話しあってから2時間以内にキャンペーン全体のプランを書き上げており、48時間以内には1年分のコピーを書いていたといいますから、ちょっと常識では考えられないスピードです。

努力型と天才型が一人の人間の中に同居している例でしょう。

それだけに、いまなお、ホプキンズにたいする崇拝者は広告界に多く、先に名を挙げたロッサー・リーブスをはじめとして、デビッド・オグルビーも、ホプキンズのつくった格言のいくつか、たとえば、

・すべての広告の災難は思慮の浅さに起因する。

・人びとは道化からは買わない。

・輝かしい作家は広告には不必要である。

を、「オグルビーの97ヶ条」に、ことばを変えていれています。

(chuukyuu注:オグルビーの「あなたの視点を高めよ−−調査に導かれた、コピーライター、アートディレクター、TVプロデューサーのための97ヶ条」も、この本に訳して入れているので、ご希望が多ければ、機会を見て転載)。


ホチキス教授のコピー原則


長年、ニューヨーク大学マーケティングの教授であり、マーケティング科長であったジョージ・B・ホチキスは、1924年に『広告コピー Advertising Copy』を書いています。

この本を書くにあたり、ホチキス教授は、彼が関係していたジョージ・H・バターン代理店の市場調査の経験から得られたたくさんのコピー原則を集めました。

この本は1936年に第2版が、1949年に第3版が出版されていますから、コピー関係者のあいだではひろく読まれているものと思われます。


ダニエル・スターチのリーダシップ調査


スターチ博士は、1919年に、広告調査機関を設立しました。

この機関の初期の調査は、コピー・テストに集約されていたといえます。

そして、その結果を『広告の原則 Principle of Advertising』と題して、1923年に出版しています。

1923年といえば、ホプキンズが『科学的広告法』を出版した年です。

1930年には、『500万通の分析 Analysis of 5,000,000 Inquires』と題した、2,500の雑誌・新聞広告からの問い合わせについての彼の調査と分析を報告したレポートを出しています。

さらにスターチ機関は、1923年から、雑誌広告のリーダシップ(精読率)調査を始めました。

これは現代までつづき、1年間に3万点の広告の調査がなされています。

その結果は、1954年8月から「アド・エージェンシー・マガジン」に発表されているし、また、同機関のレポートは、各広告代理店の調査部が購入、参考にしています。

スターチ機関の調査報告がどのようなものであるかの1例として、広告でよく使われる証言(testimony)広告に関するこの機関の発表をご覧に入れましょう。

1954年2月19日の『プリンターズ・インク』誌(広告業界月刊誌)に載っていたものですが、

              非証言広告 証言広告
製品           1ドルあたりの注目率 1ドルあたり注目率
パーカー万年筆 238 289 +21%
チェスターフィールド煙草 341           368         + 8%
マイパナ歯磨き       324           359         +11%
パプストビール       226           258         +26%


この表からの結論として「1ドル当たりの注目者数という点では、非証言広告よりも証言広告のほうが有利である」ということになり、注目率を上げようとした場合、「証言広告式」をとることを要求する早合点の人びとを生み出す結果になるといえるでしょう。

スターチの数字は一つのデータであり、ある程度、広告の安全性を保証してくれはするが、創造という作業には、ほとんど関係がないとする人たちも、最近ではでてきていることをつけ加えておきましょう。

その代表的な一人、パパート・ケーニグ・ロイス代理店のジュリアン・ケーニグ社長は、「私は、私たちの社がつくった広告にたいしてよい結果が出ているスターチの数字には好意をもちます。悪く出ているときは無視します」と1961年11月のニューヨーク広告ライターズ・クラブで話しています。

スターチの数字を信じる信じないは、人それぞれの考え方の問題ですから、とやかくいうほどのことではないと思いますが、スターチ社の出現と活動によって、広告の世界に数字的な要素が大きく入りこんできたことだけは、何人といえども認めないわけにはいきません。

これは歴史的事実なのです。


ケープルス、ヘッドラインを強調



ジョン・ケープルス(John Caples)の名も、「コピーライターの歴史」の中では、相当大きなページを占めます。

ケープルスの名は、『テストされた広告法 Tested Advertising Methods』(殖栗文夫訳・実業之日本社・1954年。のち「効果のわかる広告法」と改題)という1932年に出版され、1947年に改訂版が出た本とともに私たち日本の広告界に知られています。

彼は、1927年にBBDO代理店に入り、以後ずっと同社の共同経営者のひとりとして今日にいたっていますが、同僚のブルース・バートンは、この本の序文で、つぎのようにいっています。

「この25年間、私の同僚ジョン・ケープルスは、ヘッドライン(見出し)の効果を主として、各種の広告についての資料を集めてきた。(中略)思慮のある若い広告人によって行なわれているこの種の研究は、広告の、勘でやっている部分をせばめつつある。

われわれは、昔よりずっと無駄なく仕事ができる。

われわれは日々これ学んでいるのである」

ケープルス自身は、

「この本の目的は、『勘』をのぞくことによって、広告主が、広告からもっと利益を得るようにすることである。

本書には数百万ドルかけてやった広告効果調査の結果がのせてある。

広告主はこの経験を取り上げればそれを自分のものとして使うことができる」

ケープルスは、この16章あるこの本のうち、4章をヘッドラインにあてて、ヘッドラインが広告の中でもっとも重要な単一の要素であることを強調しています。

と同時に、彼は「鍵つき広告」のチャンピオンでもあります。

「鍵つき広告」というものは、広告の中に読者からの反応をとるための仕掛けを入れている広告のことです。

それはカタログ、説明書、その他の景品類です。

ホプキンスは言います。

「公衆に訴えるのが仕事の3種の人に(1)俳優(2)セールスマン(3)コピーライターがある」が、俳優、セールスマンは直接に相手からの反応に接することができるのでコピーライターよりも有利である」

したがって、コピーライターは広告に「鍵」をつけて、その広告がどの程度読まれたかどうかを判断する手がかりにしようというわけです。

これはホプキンスいらいのやり方であり、米国のコピーライターの歴史的主流である通信販売的テスト法であることはいうまでもありません。

ちなみにケープルスの傑作といまなお言われているヘッドラインには、彼が25歳のときに書いた、

「私がピアノの前に座ったとき、みんなが笑いました。しかし私が弾き始めると!」(1925年に音楽教室のために書かれた)

「給仕が私にフランス語で話しかけたとき、彼らは苦笑いしました。しかし私が答えると、彼らの笑いは驚きに変わりました」(フランス語通信講座のためのもの)

などがあり、彼自身は、広告界のもっともおもしろいライターのひとりと呼ばれており、その文章は、短いことば、短い文、短い文節、そして人間的興味にみちているのが特徴です。

また、彼の著作には『テストされた広告法』のほかに、1936年に出版された『直接販売のための広告、Advertising for Immediate Sales』、1938年に出版された『広告アイデア Advertising Ideas』、1957年に出版された『ものいう広告 Making Ads Pay』(殖栗文夫訳・ダイヤモンド社・1964年)などがあります。

しかし、ケープルスはコピー原則の発見のほとんどを広範囲にわたる通信販売広告とその問い合わせテストによっていますので、彼の公式がすべてのタイプのコピーに適用できるとはいいきれません。


ハロルド・J・ルドルフの注意と興味の研究



ルドルフは、いわゆるコピーライターとはいえないかもしれません。

けれども私は、前にもライターとはいえないスターチ博士を紹介しました。

いま、おなじ理由でルドルフに言及したいと思います。

つまり彼は、私たちにコピー原則の探求に関するもっとも科学的な貢献を2つもたらしてくれたと米国でいわれているからです。

彼は最初、質問クーポンのデータを研究して、その結果を「雑誌広告による400万の問い合わせ Four million Inquiries form Magazine Advertising」と題して発表したことです。

しかも彼は、たんなるコピーテストの調査結果にはけっして満足しないで、つねに原則をさがしもとめました。

「発見すなわち原則とはいえない。発見は、他の独立した調査によって、何回となく、くりかえされた確証の後、はじめて確立された原則になるのである」

と彼自身でいっています。

リーダーシップの調査結果が役に立てうるようになった後、彼はそれらを参考にして、以前やったクーポン調査で確立された原則の確認にとりかかり、それを「広告における注意と興味要素 Attention and Interest Factors in Advertising」にまとめて1947年に発表しました。

後者は、スタリーチのリーダーシップ・データを用いながら、1935年から1939年の5年間に、ポスト誌に掲載された半ページ以上の大きさの2,500の広告を研究したものです。そして、クーポン調査とリーダーシップ・データの間には「驚くほど近似した一致」があり、とくに色刷印刷の色彩に関して、イラストレーション(さし絵と写真)の大きさ、広告の大きさ、ヘッドラインの長さ等に関しての類似点が目立ったといっています。

つまり、ルドルフが私たちコピーライターにくれた2つの遺産というのは「注意と興味」です。

しかし、広告は「注意と興味」だけで成り立っているわけではありません。他の要素、たとえば「確信あるいは信頼」とか「行動」なども大きな部分を占めています。

これらが相補いあって、一つの広告効果となるわけです。

ルドルフは社会学者でしたが、ニューヨークのJ・スターリング・ゲッチェル代理店のコピーと商品調査のディレクターをした経験もあり、また、スタンダード・ブランドとコルゲート歯みがきの市場調査ディレクターをしたこともあった人です。


スターリング・ゲッチェルの成功物語


ルドルフが勤めたことのあるJ・スターリング・ゲッチェル代理店(J. Sterling Getchell, Inc.)の創設者であるゲッチェル(J. Sterling Getchell)の話は、米国のコピーライターらしい成功物語でしょう。
ケネディやホプキンズの時代は、前にも述べましたように、妙な売薬を広告によって多くの人びとに売りつけるために、コピーライターの才能が動員された時代でもあります。

しかし、1906年に全国食料品および医薬品取締条例が制定されるや、とっぴな謳い文句はじょじょに圧迫され、制限されるようになっていました。

ゲッチェルが青雲の志を抱いて社会に出てきたのは、1930年代の初頭で、例の大不況から経済が立ちなおったころです。当時32歳だったゲッチェルは、
三つとも、とくと見てください(Look At All Three!)・・・・・・フローティング・パワーつきの新しいプリムスに試乗しない前に、どんな低価格の車もお求めにならないでください
という広告をひっさげてウォルター・クライスラー社長に会い、プリムス(Plymouth)の広告の扱いを一手に握ってしまったのです。
この「三つとも、とくと見てください」という広告は、フォードV-8のエンジンの強力な宣伝を巧みに利用したもので、プリムスの販売の歴史に一つの転換期を画したといわれています。
要するに、ゲッチェルの成功は、競争社会の製品あるいは広告に挑戦したところにあり、この伝統は、現在のDDBの広告にうけつがれています。


わずか70ページばかりの本が、リチャード・マンビル(Richard Manville)の名を広告界で有名にしました。
この本の題は『成功する広告の作り方と選び方 How to Create and Select winning Advertisements』で、1941年に出版されたものです。
原形は、おなじ年の広告専門誌『プリンターズ・インク』に連載の形で発表されました。
マンビルは、それらの資料をニューエル・エメット広告代理店から得ました。
1938年、同理店の共同出資者ウィリアム・ライデルに会った彼は、「広告から特殊な結果の証拠が調査研究できる」機会を与えてほしいと希望し、仕事と協力を得、それから3年後、『プリンターズ・インク』誌への連載をはじめたのです。
マンビルのこの本は、ほとんどをヘッドラインとイラストレーションで占められていますが、これらの要素を効果的な処理による根本的なコピー真理を提示し、『効果的な広告コピー』(1956年刊)の著書メリル・デボーをして、「これほど根本的コピー真理を与えてくれる本を知らない」と嘆ぜしめています。
マンビルはいいます。
「広告の効果を前もって評価できる原則とテクニックは、自分の広告の効果を増すための科学的方法の発見に興味をもっているすべての広告主へのサービスとなるであろう・・・それらが印刷されて出ていく前に・・・」


マーク・ワイズマンの分析


1942年、ワイズマン(Mark Wiseman)は『広告の分析 The Anatomy of Advertising』という本を出版しました。
これは、彼が広告代理店ヤング&ルビカムほかの製作部門で働いた30年間の経験をもとにして、たくさんのリーダーシップ(精読率)のデータを分析、再分析して、広告主が雑誌、新聞広告をつくる際の技術的指導的原則を明らかにしたものです。
この本の由来と目的について、彼は、つぎのようにいっています。

「過去4年半の間に、私はいくつかの寛大な代理店と広告主の協力を得て、広告に対する読者の回答を取りまいている神秘性のいくつかを打ち破ろうと努力してきた。
いくつかの重要な指針が発見され、それらを点検し、それらが引きだされたデータを組織化し、その調査結果の実際的な分析、解釈、適用を企てることは、価値のあることと思われる」

この本が1945年に再版されたとき、ワイズマンは、本の内容がいまだに古くなっていないと強調しています。
また、その原則は、ギャラップ調査、そしてその後行われた広告調査財団によっても確証されました。


ジュリアン・L・ワトキンスの集大成


いままでに紹介した人たちのほとんどは、コピー原則を解明し、それを本にした人たちです。
ワトキンス(Julian Lewis Watkins)が、1949年に編集した『すばらしい広告100点 The 100 greatest advertisements』は、趣きをまったく異にした愉快な本です。これは、題名が示すとおり、アメリカに広告の歴史がはじまってからこの年までに発表された数十万、いや数千万点の広告の中から効いた広告、話題の広告を100点だけ選んで一冊の本にまとめたものです。その中には1890年にイーストマン氏自身によって書かれたイーストマン・コダック・カメラのための「あなたはボタンを押すだけ・・・・・・あとは私たちがやります」という、きわめて直截な広告や、アルバート・ラスカーをして「広告にセックスを入れた」と嘆ぜしめたトンプソン代理店制作のウッドベリ化粧石けんの広告「さわってみたくなるほどのお肌」が「レディス・ホーム・ジャーナル」1911年5月号に載った当時の裏話など、私たちが、これまで伝説として聞き伝えている名広告のかずかずの図版もふくまれています。
この本は、調査と数字で固められたコピー原則の本と違って、見る人をして気持ちをふるい立たせるとともに、なぜこの10年、20年も昔の広告をいま見ていて自分はこんなに興奮するのか? この広告のどこにその魔力が秘められているのかを、探究心の強いコピーライターに探らせるだけのものをもっています。つまり、数百、数千人の若者が、この本によって既成の広告界にたいする挑戦者として育っていったことでしょう。
その意味では、ワトキンスこそ、近年におけるもっとも悪質で巧妙な扇動家であり、かつもっとも地道で有益な蒐集家であるといえましょう。


ラジオの出現と戦争

1922年秋、ニューヨークにWEAF局をもっていたアメリカ電信電話会社が、広告メッセージを流すために同局を利用させることになり、ラジオ広告時代が開かれました。

『プリンターズ・インク』誌に「コピーライター現在・過去・未来」を書いたジュディス・ドルジンス夫人によると、

「まもなく他の局もこれに右へならえしたが、どこでも最初は、大衆は商業放送にはあまり耐えられないという想定のもとに出発しており、広告主の大部分もラジオを親善媒体とみなして、製品名を名乗るだけにし、メッセージも番組提供は××社でした、といった簡単なアナウンスだけにとどめていた。

しかし、1920年代の終わりごろになると、聴取者は当初考えられていたよりも忍耐してくれるということがはっきりしてきた。そしてまもなく放送コピー、つまりコマーシャルを書くことが新しい広告の仕事になった。

放送コピーというからには、スポンサー名を表示するだけではなく、いままでとは違った角度から電波をつうじて消費者の需要と受容を喚起するメッセージを考えねばならなくなった」

というようなわけで、広告代理店にはラジオCM部が設置されはじめたのです。

そして、コピーライターたちが、ラジオ・コマーシャルのライティングに動員されました。

これは、彼らにとっては、まったく新しい経験ではありましたが、同時にまた、喜ばしいチャンスでもありました。

というのは、印刷の場合、かならずといっていいほど、なにほどかのアート的要素が必要であり、アーチストの協力を必要とします。

ところが、ラジオ広告の場合にはそのような必要はなく、あたかも広告コピー創世期のように、コピーの力のみで販売力が発揮できるわけですから、コピーライターがオールマイティになったような錯覚にとらわれるのです

(現実にはそうではありません。言葉と音響だけによる販売ですから、そのことばはより強力で、より印象的でなければならないはずです)。

とにかく、ラジオという媒体の出現によって、コピーライターは言葉それ自体のもつ力そのものの認識に直面したわけです。

それは、ようやく台頭しつつあったアートの力と相まって、彼らにコピーとはなにかを考えさすチャンスでした。

しかし、真珠湾事件とともに、コピーライターの役目は変わってきました。コピーでいかに大量に売るかが目標ではなく、いかに説明するかの時代に入ったのです。

多くの企業は、物資不足、サービス不足を大衆に説明しなければならなくなったのです。たとえば、ラッキー・ストライクはパッケージから緑色を省略したとき、「ラッキー・ストライクの緑は戦場へ行きました」といいわけしました。

ニュー・ヘイブン鉄道は「上段4の青年」と題する広告で、「いまは真夜中の3時42分。走っている汽車の中です。人びとは安らかな寝息をたてて眠っています。下段には2人ずつ。上段には1人ずつ。これは普通の旅行ではありません。これが彼らにとって、戦争が終わるまでの、最後の国内旅行になるかもしれないのです。明日は彼らはたぶん、船の上で荒波にもまれていることでしょう・・・」

と語りかけて、兵員輸送に車両をとられているから、不用不急の旅行を見あわせてほしい、また、座席がとれなくても辛抱してくれと訴えているのです。

戦争中、多くのコピーライターは、このような語り口を余儀なくされました。

そしてそれは、ハード・セルのコピーからは学び得なかった、コピーのドラマタイゼーションの技法を学ぶことになるのです。



キャロル・J・スワンと「どの広告が・・・」シリーズ



スワン(Carroll J. Swan)は、『プリンターズ・インク』という週刊業界専門誌の編集長です。

在任中、同誌に「どちらの広告が効いたか? Which Ad Pulled Best」欄を設けて、広告テストに関する読者からの報告を連載し、好評を博しました。

彼が担当したのは7年間ですが、この欄は、経営者が変わって隔週刊になった今日(注・1966当時)でもなおつづいています。

この欄をごらんになったことのある人はご承知だと思いますが、引例されるテスト広告は種々雑多で、あるものは問合わせを、またある広告はリーダーシップを測定したものであり、そのテスト方法も、スプリット・ランあり、別の調査方法であったりして、一様ではありません。

したがって、1回きりの結果をみて判断したり議論したりすることは危険ですが、先にも述べたように、このシリーズは20年近くも継続されているので、その積み重ねから、いくつかのコピー原則を引きだすことは可能でしょう。

スワンも、このシリーズをはじめた4年目には、掲載された約150例のテスト結果を分析して、一般的原則を明らかにしました。

それは、1951年に出版された同題の本にまとめられています。

また、この本の好評に気をよくした彼は、つづいて1955年にも続編ともいえる同様趣向の『テストされた広告コピー Tested Advertising Copy』を出版しました。



テレビの出現



ラジオにつづく、商業テレビという、今(20)世紀最大の、そして最強の広告媒体は、終戦とともに誕生しました。

ここでまた、印刷媒体を中心に成長してきたコピーライターは、言語能力とともに、ドラマタイゼーション能力、そして、アートディレクター以外のアーチスト・・・すなわち、カメラマン、作曲家、プロデューサーなどとの交渉を要求されるようになって、いよいよ全能の神たるべく義務づけられたのです。

前に引用したドルジンス夫人の記述を再度引用すれば、

「ところが、さっそく苦情が出た。印刷広告のライターは、テレビのタイミングがゼロだというもので、これは20秒ないしはそれ以下で1秒12コマのCMをつくるのにいちいち指定をつける煩雑さにてこずったフィルム会社から出たものだった。

そこで代理店は、ラフなアイデアだけを作ることにし、スクリプトを書いたりCMを撮影するのは、フィルム会社の仕事ということになった。

そうこうするうちに、各代理店は独自のテレビ部門をもつようになった。

なかには演劇学校から人材を募集したり、シナリオ・ライター(大部分は作品の上演されていない)やステーションから新人を求めて『テレビコピー部』の充実を目的として出発したものもあるが、大多数はこのような部門を設置することによって、テレビ広告と印刷広告の間に変わったアプローチが生まれることを心配し、昔ながらの印刷、ラジオ広告ライターにテレビのCMを書かせた。

そのいいわけとして彼らは、クライアントの製品よりCMの制作本数や技術に深い関心をもつ局側の人間とか、強制された劇作家に頼るよりは、印刷広告ライターにテレビの心得を教えこむ方が簡単だ、という大義名分を立てた」

たしかに、これは必然的な結果であったといえましょう。商品を売るための広告コピーというものについては、過去数十年間、数十ページを費やして概観してきたごとく、何万、何十万という才能豊かな人たちの知能が結晶しているのです。

それを、少々ドラマの心得があるとか、文才があるとかいうだけの人を急ぎ速成教育しても、それで商品を売るアイデアがでるものではないのです。広告という世界は、アマチュアリズムが許されない世界なのです。


今日と明日『5人の広告作家』誠文堂新光社 1966.3.25)より



今日における米国を代表するコピーライターは誰か・・・といえば、それは本書に登場する五人・・・それに、パパート・ケーニグ・ロイス(PKL)社のジュリアン・ケーニグを加えた、およそ十人ばかりの人たちでしょう。

彼らの偉大さについては、いまさら加えるべきなにものもありませんが、戦後まもなく米国の広告界に訪れたデザイン主義というより視覚伝達重視時代がようやく反省期に入ったいま、多くのコピーライターたちが、アイデア発想の主役として活躍していることは特筆する必要がありましょう。

しかしそれも、過ぎ去った黄金時代・・・たとえばホプキンスの時代・・・のように、ライター自身の手で広告をつくったようにではなく、視覚重視と溶けあった形で活躍しているわけです。

その好例として、DDBのアート=コピー会談の成功が挙げられます。

アート=コピー会談というのは、広告のアイデアを構成するにあたって、チームであるコピーライターとアートディレクターが、互いにコー・コピーライター、コー・アートディレクターとなって論議することです。

そこでは、コピーライターがグラフィック・アイデアを出してもよく、アートディレクターがヘッドラインを書いてもいいという約束が前提になっています。

この形が、新鮮で独創的な広告を生むやり方としてもっとも適したものであることは、現在、米国においてすら、多くの代理店が、DDBのやり方をこぞって研究しはじめたことでも証明されましょう。

そして、DDBのコピーライターたちを見ていていえることは、彼らには、過去につくられたあらゆるコピー原則を無視してもいいという特権が与えられているかのように思えることです。

まことに奇妙な感想ですが、原則は破られるためにあるかのようです。

というのも、こんにちほど広告があふれている時代はかつてなかったのです。

それらの中で、自分の広告を目立たせ、大衆の目を止め、その心に訴えかけるためには、原則どおりにやっていてはダメなのでしょう。

つまり、彼らは、みずからの手で、新しい原則を打ち立てようとしているのです。

本書に登場している五人の広告作家たちのやり方さえ無視して・・・。