(695)[ミルトン・グレイサーとの1時間](2)
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chuukyuu編『アイデア別冊 ミルトン・グレイサー』(1968.06.20)より
"An hour with Milton Glaser"
English follows
(Announcement for the School of Visual Arts 小型ポスター)
(Poster for the School of Visual Arts Gallary Big Nudes)
ミルトン・グレイサーとの1時間 (2)
chuuyuu シーモア・クワストさんたちと始めた屋根裏部屋時代のことを話してください。
だれとだれが集まったのですか?
だれが言いだしたのですか?
どんな仕事をしたのですか?
どんなふうに時間のやりくりをしたのですか?
何学年のころですか?
いつまで続きましたか?
そのほかのエピソードも話していただけませんか?
グレイサー 学校の最後の年に始めました。
シーモア・クワスト、レノルド・ラフインズ、スーザン・フォスター、ジョー・デルパル、ロイス・スワーノフ……あともう2人でした。
非公式のグループで、全く常識家の学生達が集まり、仕事をするために屋根裏部屋を分かちあい、place-matをつくり、わずかなお金を手に入れるためにそれらを売っていたのです。
それが共同でした最初の仕事でした。
たいして成功はしませんでした。
学校を卒業してからも数年間、非公式な方法でこれは続けられました。
chuuyuu フルブライト・スカラシップでヨーロッパへ行かれた3年間のことを話してください。
あなたはそこで、なにを学び、なにを考えましたか?
グレイサー 3年ではなく2年間です。
ジョージオ・モランディというイタリアの画家についてエッチングを学びました。
初めて西洋の一流の芸術にふれたのです。
たいていの学生のように、ダンテ、ラファエロ、ダビンチが立ったかもしれないその地点に立っていることを考えただけで私はルネサンスに夢中になってしまいました。若い心にアピールするさからえない何かがあったのです。
また、人生とは何か、何が大切なのか、いかに生き、食べ、楽しむ……という考え方までも変えられてしまいました。
というのは、あらゆることに対してヨーロッパの見解はアメリカのそれと異なっていますからね。絵もたくさん描きました。描いてばかりで1年目を過ごしてしまいました。芸術教育のやりなおしをしたのです。これはたいへん役に立ちました。
chuuyuu 1954年にブッシュピン・スタジオができたときのことを思い出して話してください。
何がヒントになったのですか?
名前のいわれは?
グレイサー ちょっとこみいっていて、たいしておもしろい話ではありませんが、ヨーロッパに私がいる時、エド・ソレルとレノルド・ラフィンズとシーモア・クワストが「ブッシュピン・アルマナック」という小さなパブリシティ用の雑誌を出しました。
彼らの作品をこの雑誌にひとつひとつ載せたのです。
普通の仕事が終わってから、夜、この本の仕事をしていました。
私が帰国した時、ここから発して小さなスタジオをつくれるかどうか、みんなでやってみようということになりました。
そして、このプロモーション・ピースが成功したのにちなんでスタジオの名前をブッシュピン・スタジオと名づけました。そんな次第です。
今ではこの名前は私たちが大人になったので馬鹿げています。私たちのもくろみにはこの名前はすこし風味に富みすぎています。でもとても有益でした。
chuuyuu あなた方が主張したかったことを、その当時のアメリカは十分に受け入れてくれましたか?
Pust Pin Almanac Monthly Graphicのこともあわせてどうぞ。
グレイサー 何年もの間、私たちの仕事に対する抵抗があったことは知っています。
でもある人々からは支持してもらえました。とはいえ大体において、最初の5、6年はたいして仕事をしませんでした。どの商売でも同じふうにゆっくりと発展していくものです。
現在では私たちの仕事はあまりにもと言えるぐらい簡単に受け入れられていると思います。
強さをつくりだすあの抵抗は今の私たちの環境には見られません。
どの会社にもあるのと同じように、私たちにも厳しい時があったのです。少し長かったけれど。
マンスリー・グラフィックについて、私たちは常に、私たち自身のものを発行したいと考えていました。
私たち自身の声を発表できるものが欲しかったのです。
これはもう何年も続いています。
私たちが何かを言いたいと感じた時に不定期的この本は発行しています。どんな形式でもその時に適当と思えるものを使って発行します。セールス・プロモーションとしては、役に立つことをとてもたくさんしてきました。
chuuyuu プッシュピン・スタジオは、法律的にはどういう種類の会社ですか?
(有限とか株式とか)出資者の内訳は?
(Orignal illusstration for Push Pin Graphic #45, "Fillies"
戦前アメリカばかりでなく、ハリウッド映画を通じて世界的に有名だったフローレンス・ジーグフェルドのレビュー「フォリーズ」の何人かの人気スターの数奇な生涯にスポットをあててている。以下の数点もそう)
(Illustration foe Show Magazine)
(Illustration foe Playboy Magazine)
An hour with Miltn Glaser (2)
Nishio: Next, please tell us about the time you started working with Seymour Chwast andothers, the time of your life in the attic.
Who were in the group? Who took the initiative in organizing group? What kind of work did the
group do? How did you manage to get the time? In what school year of years was it? How long did the group work continued? Please tell us any other episode about the group.
Glaser: We actually started working together
while we were in our last year at school. Therewere a number of us, Seymour Chwast, Reynold Ruffins, Susan Foster, Joe Delvalle, Lois Swirnoff...and some others. It was an informal sort of group. Our first commercial project was manufacturing cork place-mats. The project wasn't very successful. We continued on several years after we got out of school in a casual way.
Nishio : Please tell us about the tnree years you spent in Europe on Fulbright Scholarship. What did you learn there and what did you contemplate there?
Glaser: That was actually two years. I studied etching with an extraordinary man called Georgio Morandi. Like most student visitors I became involved in the Renaissance. The idea of standing at the very spot that Dante, Reynoldor da Vinci might have stood is overwhelming to any young mind. It also changed my view of what life was about and what is important, and how to live and how to eat, and how to relax. Because obviously the European ,view of all these activities is very different from the American one.
I also did a lot of drawing. In fact, I spent over a year simply drawing from casts. I was starting my art education all over again.
Nishio: Now, please tell us about the time Push Pin Studios was organized. What was the motive or hint for the organization. How come it was named as such?
Glaser: It is a somewhat complicated and not a terribly interesting story but what had happened was while I was in Europe, Ed Sorel, Reynold Ruffins and Seymour Chwast began to put out a little magazine called the Push Pin Almanac. It was done to get work for each of them individually. They did it at night after their regular jobs. When I came back, we mutually decided to see if we could make a go of it as a small studio. And because the promotion piece had been successful, we named the studio after the promotion piece. And that is how the name PushPin Studios came about. I must say the name seems silly now for grown men.
Nishio: Was your philosophy at that time fully and generally accepted by other people in America? Please tell us also about Push Pin Almanac, Monthly Graphic.
Glaser: I know that there was a risistance to our work for many years, but we found support from some people. Generally speaking, we did not do very much work for over the first five or six years. And I suppose like most business, we
developed slowly. But I would say now our work is, if anything, too easily acceptable. The kind of resistance that developes strength is no longer evident in our environment.
The Monthly Graphic is a sort of extension of our original publication. We always wanted to publish something of our own. And we always wanted to have something that would express our own voice. We have almost always had some kind of publication going. The Graphic, I gues, now has the longest history. It has been gonig for many years. It is a magazine we putout intermitently when we feel we have somethijlg that we want to say. It takes any sort of physical form that seems appropriate. It has done done ue a lot of good in terms of sales promotion.
Nishio: What is the exact legal status of organization
of Push Pin Studios? Is it a joint-sock corporation? Who are the stock holders?
Glaser: Seymour Chwast and myself, we actually are the principles of the corporation.
日本デザインセンターで、コピーチーフとして田中一光さんと組んで仕事をした時期があった。
一光さんは先に独立した。このグレイサー氏の作品集を編んだのは、ぼくもアド・エンを創設してからであった。
一光さんは、この作品集に一文を寄せてくださった。その一部を抜粋してみる。
グレイサーの仕事で感心なのは、判断力とか説得力というものと、情緒とか感性とかの巧みなバランスであって、シェイクスピア・シリーズ(註:明日アップ予定)の余白を生かした一貫性や、スクール・オブ・ビジュアル・アーツのポスターが示すイラストレイションをもう一度写真におきかえるような冷厳な屈折をもっているのである。
彼は「ある制作態度」という小論の中でも、クライアントに対する回答と、作者自身の欲求に対する回答の二つの分析を行い、この双方を満足させるのが、自分たちの仕事であるというようなことを述べている。
そうした角度から、もう一度彼の仕事を眺め直すと、デザインの目的に対する緻密な計算と極めて明快な結論をもっている。