創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(506)[ニューヨーカー・アーカイブ]によるシーヴァス・リーガルのシリーズ(71)



[:W450]


いまでなかったら、
いつ?


C/W
A/D
"The NEWYOEKER" 1973.12.17

 




If not now,
when?


ぼくとDDBの架け橋でもあったパーカー夫人(写真)は、秘書術を身につけたのち、何人目かのコピーライターとしてDDBに入社を許された人。
パーカー夫人が、創業30周年の『DDB NEWS』に寄せていた小文の抜粋---。


新入社員の歓迎という意味で、ビル・バーンバックがコピー部全員をランチに招待してくれました。
たしかアルゴンクイン・ホテルのすみのテーブルに5人座ったと思います。
ビルは誇らし気に、この代理店は理想的な規模---従業員数45人---になった。
これ以上大きくするつもりはないと言いました。


私はDDBで育ちました。家族さながらに---当時、ビルとフィリスが私にとって両親、大好きなおじさんがボブ・ゲイジでした。
ジョー・ダリー(のち、社長)というエネルギッシュなアカウントマン。セールス・プロモーション部門からライターに抜擢されたばかりのボブ・レブソソンをなぐさめたこともあります。


ヘルムート・クローンの個室へ入っていったことがありました。
彼は寡黙でめがねをかけていて、私の歴史の教師そっくりでした。
あの時、彼は真っ黒なページに赤い電球を描いていて、ヘッドラインは「さらば、暗室!」とかなんとかだったと思います。
丁度ポラロイドの仕事をとろうとしてた時でした。


それから見かけだけは温厚だったマックスウェル・デーン(写真)。あんまり上品とは言えない西42番通り11へ引っ越した時、彼は西43番通り20ってみごとな言いまわしで呼んでました



大きな地図で見る


chuukyuu注】ぼくが取材していたころのDDBが入っていたビルは、南側がマンハッタンではきわめて淫猥な店が並んでいた42丁目に面してい、北側の通用口は静かな43丁目に面していた。もちろん、ぼくは43丁目側からのみ、出入りした。Googleの地図の上から斜めに下りているのが5番街。5番街から43丁目を左へ入った2つ目が西20番地ビル。


威勢のよいネッド・ドイル(写真)。彼は私が最初のクライアント詣での時、道端のバーに入ってスコッチを頼んでるのを見て、「シャーリー・テンプルを気取ってるのかい」と言って、いたく私を傷つけたものです。
それから、ビル・バーンバックは、クリエーティブ部門の廊下をうろつき回り、肩ごしにのぞき、ほめたりけなしたり。
おかげで私たちはエクスタシーを感じたり、落胆したり。
ビルに気に入ってもらえれば、広告に使ってもらえることがわかってましたからね。


私の広告にビルが初めて「すばらしい!」と言ってくれたときは、恋人の所にすっ飛んで行き、アルゴンクインで祝いました。
私はついにDDBの1人前のコピーライターになったぞ!ってね。
そしたら、ウエイターが角のテーブルにお座りのドイル氏からですと言って、お酒を持ってきてくれました。


シーヴァス・リーガルでした。




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