創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(541)Logical---And Also Good  (1)


これは、『DDB NEWS』の1970年4月号の表紙です。
写っている一人の男性は、VWビートルのキャンペーンで、ボディー・コピーのエンディングに、ユダヤ・ジョークをおもわせる<クリッチック>(捨てゼリフ)をいれて、いわゆるVWふうコピーをはやらせた(日本ではありません、欧米などにです)仁---そう、ロバート・レブンソン氏です。氏がバーンバックさんからDDBのクリエイティブ・ディレクターに指名されたときの記念号です。もっとも、氏が紹介されているのは、24ページ中、ほんの1ページ(無言の表紙を入れると2ページ)だけです。彼がアートのロバート・ゲイジ氏からバトン・タッチされたのは、なぜか---時代の変化が読み取れます。
白い1コマの小さな四角いシミは、接着テープの跡です。製品がよくない痕跡ですね


DDBのクリエイティブ・ディレクターへのボブ・レブンソン氏の就任が発表された数日後に、エレベーターの中で交わされた会話を立ち聞き:
コピー部の古参: 10年後にこの辺りでは、筋のとおった広告が幅をきかせてると思うな。
アート部の古参: それもまた真なりさ。いいじゃないか。


プレスから「この人事異動の目的は?」と聞かれ、依然としてコピーも現役として書いているボブ・レブンソン氏はこんなたとえ話で答えた:
バーンバックさんとボブ・ゲイジ氏、それにぼくが同じ車をずっと運転してきていて、コーヒー・タイムのためにパーキング・エリアに止まり、まわりの風景も目見ようって希望も出たって感じかな。目的地はみんないっしょだし、無事に到着したいのもそうだし---。でもね、[ぼんやりしてないで、トラックに気をつけろ]って、声をかけることもできるんですよ」


ボブは、こんなことも付け加えた。「運転ばかりしてないで、ウォーキングもこころがけなくちゃ。廊下で会ったら.[やあ、ちょっと、広告のこと、話しあわない? ほかのことも話しあおうよ]といいあえる時間をつくりたいと。


「かつては、DDBが唯一の働くにたる場所でした。が、いまでは、いくつかの選択肢が生まれています。でも、もう一度、DDBを唯一の場所にもどしたいのです」そのために、そうしなければならないと。

【chuukyuu注】DDBを出て行った有能な人たちが設立したパパート・ケーニグ・ロイスとか、ウェルズ・リッチ・グリーン---そのほかケイス&クローンなどのことを差しているようにおもえます。 


ボブ自身、『ニューヨーク・タイムス』紙に載ったELALイスラエル航空の大西洋の写真を引き裂いた広告を見た瞬間に、この代理店で働こうと決心したのである。そして、失業保険で食いつなぎつつ、何度も何度も断られてもドアを叩きつづけ、1959年にやっと採用されたとういう体験の持ち主である。


12月23日を期して、大西洋が20%縮みます。


12月23日に就航する、ブリストルブリタニア機にご期待ください。大西洋を横断する最初のジェット機です。


【chuukyuu注】大評判になったこのアイデアは、バーンバックさんがホテルのレストランでの両親との昼食から帰る時に浮かんだものとして伝わっています。たがってC/WKのクレジット欄にはバーンバックさんの名が。


あてがわれたのは、カタログのコピーライターとしての仕事であった。
前職は英語の教師で、1968年の『DDB News』に語ったところによると、「私が毎日いつもの靴と同じみすぼらしいスーツの同僚たちを見回し、このまま一生を終えてはいれないと自分にいいきかせたのです」


DDBに入社後、いまではELALシリーズの古典となっている「あの子、パイロットなんですよ」をはじめとする一連の広告に関係するのに、それほど時間はかからなかったし、VWのキャンペーンほかにも携わった。


あの子、パイロットなんですよ
テイリー・キャッツ


本当なんですよ。
いえね、わが子だからってこんなこというんじゃありませんよ。
だってフロリダのジャクソンビル育ちの一介の少年が機長に成長するなんて考えた人がいるでしょうか。
おかしなことですが、ビルは若い頃、飛行機に興味すら持ったことなかったんですよ。私としてもそのことに不満はありませんでした。率直にいって、あの子がフットボールをやっている時でも神経質に心配したくらいですけれど。
それなのに、あの子の頭に何が浮かんだのでしょう? ちょうど、私たちみんなが、彼なら何かすばらしい仕事につくだろうって考えたころでした。あの子はこの航空会社に入ったのです。
すぐにあの子はヨーロッパの第8空軍のグループ司令官になり、除隊時には司令官キャッツでした。
空軍十字勲章を受けておりました。
それからというもの、飛行につぐ飛行の連続でした。
こんなあの子をパイオニアと呼べるかどうかわかりませんが、あの子は、ELALがまだ小さな航空会社にすぎなかった時期に入社したんです。
いまですか? 機長です。
ときには、あの子、細かなことに気を配りすぎるとおもうこともあります。
いままでにどれくらい飛んだとお思いになります? 200万マイルを越しているんです。
空の上でどれくらいの時間を過ごしたとお思いになります? 12,000時間ですよ。


この航空会社を立派にしたのは、あの子が毎日しているんですわ。って。
私にはわかってます、イスラエルには嫁と美しい2人の娘がいるんですからね。
ときどきは私に会いにやってきてくれますが、もっともっと甘やかしてやりたいと思います。でも、孫にはビルがパパでほんとうによかったっておもっています。息子は誰にでも彼にでも甘いんです、自分以外の人には…ね。
ELALにお乗りの節はあの子に会ってやってください、そして私がこう言っていたとお伝えてくださいな。「冷えないように」って。


"The NewYorker 1962.12.29"


【chuukyuu注】ELALの"My son, the pilot." の助動詞を省略したヘッドラインは、米国に移住したユダヤ系の老母の特徴的な英語表現。 

ロバート・レブンソン氏とのインタビュー

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