(154)レン・シローイッツ氏『名誉の殿堂』入り(上)
レン・シローイッツ氏は1969年にDDBを退社、一足先にトンプソン広告代理店に移籍していたコピーのロン・ローゼンフェルド氏と、かのマリオン・ハーパー氏とともにハーパー・ローゼンフェルド・シローイッツ社の共同経営者となった。才能豊かなクリエイターたちが、いわゆる、ブティックと呼ばれた、特徴的で活気のある小代理店をオープンすることが流行した時期であった。
やがて、この<ブティック>は、看板を[ローゼンフェルド・シローイッツ&ローソン]社と塗り替えた。
1985年、シローイッツ氏は、ニューヨーク・アートディレクターズ・クラブ(N.Y.ADC)から「名誉の殿堂」入りの指名を受けた。DDB育ちのアート・ディレクターではボブ・ゲイジ(Robert Gage)(1972---この年創設)、ジョージ・ロイス(George Lois)(1978)、ヘルムート・クローン(Helmut Krone)(1979)、ビル・トウビン(William Taubin)(1981)らにつづいて5人目であった。
その時、『64th N.Y.ADC年鑑』がシローイッツ氏にあてた4ページを採録し、頌辞の大意を2回にわけて伝えたい。
(頌辞)
(代表作品)
【頌辞大異】
DDBにおけるシローイッツ
レン・シローイッツは、『アド・デイリー』紙が主催する、関係識者による[全米No.1 アートディレクター投票]で、1968年と1970年の2回、選ばれている。
彼は、ドイル・デーン・バーンバック(DDB)社で、副社長兼クリエイティブ・マネージメント・スーパバイザーの激職をこなしていた。
そのアカウントは、モービル、フォルクスワーゲン、ソニーのような巨大企業、ローラ・スカダ・ポテト・チップスやレイニア・ビールなどの地域(西海岸)アカウント、サラ・リーとパーカー・ペンのような全国銘柄の広告主を含んでいた。
彼の才能が受賞広告を創造しえたのも、それを奨励する創造的な環境をもつDDBに負うところが大きかったともいえる。
DDBで働くのは、1927年の<ヤンキース>のチームメンバーになるのと似ていたし、60年代という広告に創造的な革命をもたらした時代の一人でありえたことも大いに幸いしたといえよう。
DDBのアート部の強打者には、ヘルムート・クローン、ボブ・ゲイジ、ビル・トウビンなどの才能が競い合っていた。
コピー部には、フィリス・ロビンソン、デイヴ・ライダー、レオン・メドウと、そしてロン・ローゼンフェルドやボブ・レブンソンといった好プレイヤーたち。
監督としての統括・作戦は、天才ビル・バーンバック。
【参照】
ビル・バーンパック 「広告はアートである」
ヘルムート・クローン 「レイアウトを語る」
フィリス・ロビンソン 「インタヴュー」
デイブ・ライダー 「インタヴュー」
レオン・メドウ 「インタヴュー」
ロン・ローゼンフェルド 「インタヴュー」
ボブ・レブンソン 「インタヴュー」
1966年にモービルが、創業100周年を記念した企業広告を依頼してきた時、バーンバックはシローイッツのチームに、単なる祝賀企業広告の代わりに、ソーシャル・サービス(社会奉仕)広告の手本となるキャンペーンを助言した。それは、米国全体の問題となっている高速道路での安全運転に注意を向させるためのキャンペーンで、印刷とテレビによる衝撃的な一連の広告は、モービルの企業イメージを高揚させ、企業への消費者の支持を大いに高めた。それらは「死が2人を別つまで」とか、家の近くでもたらされた「殺されたばかりのチキン(鶏肉)」などの広告である。
左;死が2人を別つまで
右;殺されたばかりのチキン(鶏肉)
テレビで衝撃的だったのは、ラトガース大学から企業による最もすぐれた社会奉仕キャンペーンとしても表彰を受けた、10階建てのビルの屋上から車を落とし、時速100kmで起こした事故のものすごさ表現してみせたフィルムである。
ベター・ビジョン協会(Better Vision Institute)は、シローイッツが視力の問題を個人化(ごく身近な問題化)した別の例であった、視力障害をもっている人びとの苦しみを表現するために、シローイッツは写真家たちの「新しい」才能---ディック・リチャーズ、フィル・マルコ、スティーブ・ホーンらを起用、黒板の字をピンボケで掲げて「ジョニーは、なぜ、読めないか?」、斜視の少女の顔をクロースアップにした「アン・フリンの両親が、この写真の使用を許したわけは?」などで見た人たちの感情移入を大きくゆさぶった。
左;ジョニーはなぜ読めないか?
右;アン・フリンの両親は、なぜ、この写真の使用を許したか?
60年代の半ばソニー製品を米国人の消費社会市場へ浸透させたのものシローイッツとローゼンフェルドの才能である。2人は、高価ではあるが驚異的な製品---4インチ・テレビを、携帯性を強調した実用的な視聴シーン紹介した。---腹の上につっけて観る「ぽんぽんテレビ」膝に乗せて観ている「ピー・ウィー・ティー・ヴィー」、首から吊った「歩きながら観る」などの傑作作品群がそれである。
左;膝っこティー・ヴィー
右;洗いながら昼ドラ
フォルクスワーゲンのアカウントは、シローイッツにとってはより厳しい挑戦の一つであった。 彼が1962年にヘルムート・クローンからこのアカウントを引き継いだとき、VW広告の基本的でうまくいっているフォーマットはクローンによってきっちりと確立されていた。シローイッツはそのフォーマットを踏襲しながら、彼自身の感性ととユーモアを混入させた。「私たちはかぶと虫を殺すでしょうか?」と、死んだふりして寝っころがっているVWの写真を載せた広告には、笑いを止められない。
ヘルムート・クローンが制定したVWキャンペーン・フォーマットの一つ私たちはかぶと虫を殺すことがあるでしょうか?
シローイッツは、クライアントのためにセールス・アングルを見つける天才である。例えばパーカー万年筆は、安価なボールペンの市場で万年筆を売るための新しい考えを必要としていた。シローイッツは、万年筆は作家の感情を伝え、潤色する力をコンセプト化したテレビのキャンペーンを創りあげた。「あなたが書くものは、とにかく新しい意味がある」パーカー万年筆は結局、雄弁な愛や怒りを伝えるコンベアとなった。
1ドル98セントのパーカー・ジョッターは、ほかのどんな値段のボールペンよりもたくさん書けます。
コピーライターのボブ・レベンソンと共に、シローイッツは非常に覚えやすいフレーズと歌、「人には好きじゃなゃないものもあるけど、サラ・リーが好きじゃない人はいない」のようなサラリー・パン製品の忘れがたいテレビのキャンペーンを考案した。
U.S.A.は新しい悪習にそまった。
DDBでのシローイッツの地域(西海岸)アカウントは、彼の全国広告のものと同様に注目された。西海岸のローラ・スカダ・ポテト・チップスは、製品を噛むときの乾燥音に目(耳)をつけて強調し「世界でもっとも音のうるさいポテト・チップス」のフレーズとともに、テレビCMの音声効果を利用した。 「世界でもつとも音のうるさいチップ」では、信じらほど子供はその真似をして音を強調した。
また、米国西海岸に位置するレイニア・ピールでは、地元新聞に1ページ大のスペースをとってポスター然とした広告を載せ、60年代前半のカラー印刷新聞広告賞をかっさらったのである。
左;待て
私たちはいつもこうしてビールを醸造してきました。
待て! 急ぐな! 時間よ置け! 自然にまかせろ。
右;禁煙
私たちの醸造所内に煙があったら大騒ぎです。
たバコの煙は、ビールの香りにとって大敵です。
シローイッツは、DDBで磨いた広告技能を、政治広告にも転用した。SANE(核使用規制委員会)のような組織のための働いたり、民主党の大統領予選運動でユージン・マッカーシー候補のキャンペーンの制作に参加、また、サイレント・マジョリティに反戦運動への参加を呼びかけるプロテスト(抗議)広告にもその才能を注ぎ込んだ。「戦争に反対する神父とともに息子も」が「戦争を終わらせるためにボタンを押す」「人間対機械」 などがそれである。