創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(114)ハワード・ゴーセイジ氏とのインタヴュー(4)

(Mr. Howard Gossage President, Freeman & Gossage inc. Advertising

コビーライターという職能を超えて、同時代の一人の思想家の売り出しに手を貸したのは、「売り出す」「知らせる」という、プロのコミュニケーターとしての手段を使ってみただけではなく、人より先に異才を認めるという、鋭い直観力がさせたこと。
しかし、モノやサーピスを「広める」のとは異なり、「観点」を「広める」にはより強い「共感」が必要だったようだ。カナダの無名の学者---マーシャル・マクルーハンをマスコミに紹介したときの経緯は、パプリシティの本道を教えてくれる。

ハワード・ゴーセイジ氏とのインタヴュー (1) (2) (3)

マクルーハン売出しの舞台裏

chuukyuu 「マーシャル・マクルーハン教授をプロモートなさったときのエピソードを話してください」


ゴーセイジ「マーシャル・マクルーハン教授は、非常に重要な思想家です。現代の最も重要な思想家の一人といえます。
4年前の1964年にマクルーハン教授の『メディアの理解』を読んで、ものすごい共感を覚えたものです。そこで、私は、仲間のフェイゲン博士に同教授のことを話し、招待したいと提案ました。それから、2人で彼が教授をしているカナダのトロント大学へ飛び、会ったのです。
そして、『あなたの時代が来ている』と告げたのです。ぼくは、自分でも嫌になるほど、彼の理論について人びとに説明しましたし、また、彼こそ、アッというまに有名になるべきだと思ったのです。
また、教授を世に出すという点でなら、多少なりとも援助できるとも思いましたからね。それで、教授をニューヨークへ連れて行きました。
そう、3年(1965)ほど前のことです。ぼくたちは、教授のためのカクテル・パーティを開き、その席に高名な編集長たちや出版社を招待しておいたのです。
その時以来です、教授が著述家として認められ、正しく評価され、みんなが彼について書くようになったのは---。6ヶ月後には、彼は家を買うほどの身分になったのです。
ぼくたちがパーティをひらかなかったら、有名になるにはなったとしても、もう少し時間がかかったでしょう。
それからぼくたちは、教授をここ(フリーマン&ゴーセイジ社)へ呼んで、セミナーを開きました。ジャーナリストのウォルフ(Tom Wolf)をはじめ、ライターたちがやってきて、そのことを記事にしてくれました。
マクルーハン夫妻をサン・フランシスコへ呼ぶ費用も、ぼくたちが負担しました。なぜかですって? そうしたかったからです」


(1960年代後半のサン・フランシスコは、一種の思想と芸術の発信地でした。ヒッピーたちが全国から集まって、いろんなコミュニティをつくっていました。彼らの中には、新しい観点---サブ・カルチャー---にもとづく言論やアートや音楽を発信する者がたくさんいたのです。
もしかしたら、サン・フランシスコだったから、マクルーハンの革新的なところのある思想が、いち早く、認められたのかもしれないと、いま、思っています)。


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