創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

[20分間の道草](271)ハワード・ゴーセイジ氏とのインタヴュー (連結篇)


 ニューヨークとDDBを、ちょっと、離れます。行き先はサン・フランシスコ。山ノ手の閑静な地区の、以前は消防署だった小さな2階建てのビルです
「サン・フランシスコのソクラテスとの尊称をたてまつられている偉大なコピーライター---ゴーセイジ氏との対話です。
<このインタヴューが、氏を、日本に最初に紹介したのでした。しかし、これによって日本の広告ジャーナリズムが氏に注目した気配はまったくありませんでした。小さいままの規模をまもっていることは、当時の広告ジャーナリズムにとっては、歯牙にもかけない存在だったのですね。

<このブログで再登場ねがわなければ、氏の存在は、日本の広告人の念頭からは完全に消えていたことでしょう。大げさにいうと、『みごとなコピーライター』誠文堂新光社 ブレーンシリーズ 1969.7.15)の最大の功績は、氏の記録を残したことかもしれません。DDBの紹介なら、ぼくがやらなければ、ほかの誰かがやったでしょうから。


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Mr.Howard Gossage President, Freeman&Gossage inc. Advertising)

ゴーセイジ氏と並ぶのは生涯の光栄


ゴーセイジ氏を知ったのは、40数年前、神田の古書店で求めた『ニューヨーカー』誌から広告を切りとっていて、イーグル・シャツのシリーズを見つけた時からでした。


オグルビー氏の黒眼帯貴族のハサウェイ・シャツの広告(右の写真)ほど、イーグル・シャツの広告シリーズは特異ではありませんから、これまで、日本の広告界に紹介されたことはなかったのです。しかし、その単純なレイアウトで組まれたコピーを読むと、企業の姿勢の正しさというか、多くの広告に特有の仰々しさ、騒々しさ、幼稚さがなくて、大人の文章を感じさせました。このイーグルの広告をずいぶん集めて、楽しんでいました(が、広告の世界に背を向けたときに、もう、ゴーセイジ氏について語ることはあるまいと断じて、廃棄してしまいました)。もっとも、その時は、コピーを書いた人がゴーセイジ氏とは、知らなかったのですが---。


1966年春、DDBのロン・ローゼンフェルド氏と話していて、
「サン・フランシスコはこの国で最も美しい街だよ。chuukyuu。サン・フランシスコへ行ったら、ゴーセイジ氏に会うべきだ」
「ゴーセイジ氏って?」
「すごいコピーライターだよ。ぼくも尊敬しているんだ。chuukyuu。イーグル・シャツの広告を知ってるかい?」
「知ってる、知ってる」
「あれを創っているのが、ゴーセイジ氏さ」


カール・アリー社のダーフィ社長も、民主党マッカーシー上院議員の大統領予備選の広告代理店として忙しい彼が、「ゴーセイジ氏のような偉大なライターと同じ本で並べられるのは、生涯の光栄」と、喜んで取材に応じてくれたものでした。この事実からも、ゴーセイジ氏の名声がしのばれのす。
余談はさておき、サン・フランシスコで、フリーマン&ゴーセイジ社へ電話して会見を申しこむと、あいにくとゴーセイジ氏は留守で、ボブ・フリーマン氏が会うという返事。訪ねると、この広告代理店は、古い消防署を改造した画廊の2階にあり、奥まった趣味的な家具の部屋にフリーマン氏がいました。
その後、注意していると、ゴーセイジ氏の名がいろいろと目につきだしました。

適性検査なしに広告界へ入った。


その前に、氏自身の手になると思われる経歴書が送られてきているので、翻訳・転記しておきます。


「ハワード・ラック・ゴーセイジは、フリーマン&ゴーセイジ広告社と、コンサルティング会社---ジェネラリスト社の社長。両社ともサン・フランシスコにある。
シカゴ生まれ。ニューヨーク、デンバーニューオーリンズカンザス・シティで成長。カンザス・シティ、パリ、ジュネーブの各大学で学ぶ。ペンシルベニア州立大学で招待教授でもあった。
しばしば、ハーパース、サタデー・レビュー、ランバーツの全国誌に寄稿。
1940年空軍入隊。飛行士となる。数年の飛行経験をもったが、適性検査の結果、才能なしと判定されたため、30歳で断念。
その後、広告界に入り、現在にいたる。この時は、適性検査なし。
とくに誇りとしているものは---、
・女優のサリー・キャンプと結婚したこと。
・18歳の時、ガンザス・シティからニューオーリンズまでの1,800マイルをカヌーで下ったこと。
ともに、適性検査を必要としなかった」

サン・フランシスコのソクラテス


1966年11月20日の『ニューヨーク・タイムス』のビクター・ナバスキーの「広告は、科学か、アートか、ビジネスか?("Advertising Is A Science? An Art? A Business?")」と題したコラムによると、ゴーセイジ氏は、高級誌『ニューヨーカー』誌の記者から「広告業界にわずかしかいない天才の一人」と呼ばれ、「サン・フランシスコのソクラテス」との尊称をたてまつられていると。
「旅行者がシスティーナ教会の天井にたやすく近づけるように、洪水を起こしましょうか?」という政府に対する抗議広告をぶっぱなして、2つのダム工事を中止させたこともあります。工事中にグランド・キャニオンの数ヶ所が洪水になると予想された工事でした。


氏が、マクルーハン(Marshall McLuhan)売り出しの張本人であることは、日本ではほとんど知られていません。(先日、「テレビはマッサージ」というマクルーハンの理論を日本に紹介した畏友・竹村健一氏に、このこと知ってた?と訊いたら、知らなかったと答えられたので、この記事とインタヴューのコピーを送ろうか、といいました。見たいとのことだったので、自宅あてに送りました。その後会ってないので。感想はきいてません)。


ゴーセイジ氏は、ジェネラリスト社での仲間である内科医で精神病理学者のG・M・フェイゲン博士とともに、トロント大学の無名教授であったマクルーハン氏を6,000ドル(216万円---当時の換算率)から8,000ドルも使って売り出したのです。『メディアの理解』というマクルーハンの著書の装丁のやりなおしたり、『マクルーハンの理解』というエッセイを雑誌に寄稿したり、彼のために3回もカクテル・パーティを開いてやったりして、彼の人柄とメディアに関する独特の見解をコミュニケーション・ビジネスと結びつけてやったのです。その結果は、ご存じのとおりです。


ゴーセイジ氏の変わった趣味はほかにもあって、1967年2月27日から5日間にわたって、例の消防署を改造したオフィスで「サン・フランシスコ;都市国家か?」と題するセミナーを開いています。これは、同地区の地方政治化が行った数回の舗世論調査のからくりをあばくという目的をもつていました。
同じ年の4月、人類学者A・モンターグ氏によって指導されている成人病医学セミナーをイスポンサードしています。


また、ロサンジェルスの一学生のために、ヴェトナムでの戦いが終わるまで「黒ネクタイをしめ、ヘッドライトをつけて走る」という広告コピーを書いてやりもした。これは、その学生が貯めた小遣いをはたいて新聞の広告欄のスペースを買い、個人的なアピールを載せたものです。

紙飛行機を折るのも仕事のうち


ゴーセイジ氏が送ってきてくれた『紙飛行機の国際試合の本 The Great International Paper Airplane Bookは、じつに楽しい本です。氏のほかに2人が加わって作ったもので、世界中から紙飛行機の作り方を応募させて、その中の数10機を紹介しています。


日本からも、福岡市の三角君が少年らしい手で、「僕は英語が話せません。だから日本語で書かせていただきます。僕は6日の西日本新聞でこの事をしりました。興味がとてもわき出し、いてもたってもいられず、紙でこんな飛行機を作りました。僕はこのコンテストの規則を全々(原文のまま)しりません。もしさしつかえなければこのコンテストにくわえてください」と書いて応募した手紙がそのまま収録されてもいる。


この時は、ゴーセイジ氏自身もたくさんの紙飛行機をデザインし、オフィスの中を飛ばして遊んだという。しかし、それは仕事だったのです。


洗練された科学雑誌『サイエンティック・アメリカン』の出版人が、サン・フランシスコの広告主に、この雑誌を広告媒体として周知させてほしいと、ゴーセイジ氏に依頼してきたのです。
「『サイエンティック・アメリカン』をより多くの人びと知ってもらうための、創造性に富む手段は、飛行機旅行にあるという結論に達しました。
それは、飛行機に乗るということが科学時代である現代を知る最短コースであり、また飛行機に乗ったことのない人がたくさんいるからであります。
この人たちに共通していることは、みんな飛行機を設計したことがあるということです、紙の飛行機を---ね。
だれでも作っているくせに、だれもが他人の設計を知らない---ということもじじつでしょう?
とにかく、超音速機のデザインは、80年も昔に私たちが折った紙飛行機にやっとたどりついてる段階ですよ」と、ゴーセイジ氏は語りました。


募集広告が『タイムス』ほか数紙に載るや、たいへんな反響がまきおこり、日本でも西日本新聞をはじめ数紙が紹介記事を載せたほどです。
しかし、ゴーセイジ氏は広告代理店の社長ですから当然媒体マージンとクリエイティブ・フィーをもらっています。
媒体費を含めて総額4万ドル(1,440万円 1ドル=360円時代)がフリーマン・ゴーセイジ社に支払われたはずです。
もっとも、同社は15%というきまった扱い手数料をとっていません。フィー制なのです。


氏はいいます。「大きな広告代理店は、慎重にふるまわなければならないという危険をはらんでいる」から、フリーマン&ゴーセイジ社が小さくっても、ちっとも気にしていません。むしろ、それに満足しているようです。


1968年秋、サン・フランシスコで同社を再訪しました。


chuukyuu 「サン・フランシスコに住んでいらっしゃる理由をお聞かせくださいますか?」


ゴーセイジ氏「ほかへ住む理由が見つからないからです。戦争が終わった翌年の1946年に、ここへ来ました。その前の3,4年は、海の上にいましたし、それまでに住んだどこよりもサン・フランシスコが好きですし、魅力的な町ですからね。それで居ついてしまったのです。


chuukyuu 「ニューヨークかロサンジェルスへ進出なされば、会社をもっと大きくすることができるでしょうにね」


ゴーセイジ氏「どこでだって大きくできるでしょうよ。でも、小さいままでいることのほうが難しいですよ。いま以上に大きくしようとは思っていないのです。ちょうど手ごろな規模です。
もちろん、サン・フランシスコにいること利点のひとつは、ここが大広告都市じゃないってこともあります。うちのクライアントはみな、ニューヨークやヨーロッパのそれとは、どこか違うわけです。人びともぼくの言おうとする以上のものを信じてくれるのです。ですから、仕事も効果的にできます」


chuukyuu 「ぼくも、小さい代理店のほうが大きい代理店よりも生き生きとしており、少なくとも人間味があると信じているのですが---」


ゴーセイジ「そう、たしかにそのとおりだと思いますよ。大きな代理店で、生き生きしたものがでてくるとしたら、それは、その中にいる誰かが、その人自身の小さな王国をつくりあげて、その中で積極的に動いているからでしようね。
そして、他の人びとは彼を放っておくでしょう。だって、その人のやっててることが分からないんだから。でも、そういうふうに振るまえる人は、大きな代理店の中にはまれにしかいません。ところで、クライアントはその小さな王国がしているすぐれた仕事に目をつけるようになるのです。これは、どこの代理店でも同じことだと思いますが、でも、人びとが、小さな王国のっていることを公式化しようとするので、まもなくそれは、魔法でもなんでもなくなってしまいます」


chuukyuu 「大規模であるよりも、小さくて生き生きしたほうを選ぶと言われましたが、これは、米国では一般的な考え方じゃないんじゃありませんか?」


ゴーセイジ氏「戦術的に小さいままにしているのです。あなたもご存じのように、フレキシブルにしておきたかったら、大きくしてはいけないのです。なぜって、人がふえると、その一人一人に対して、突飛なことをやってはいけないとか、あたり前のことをやるべきだとかと、いちいち説いて回らなければならなくなるでしょう?
とにかく、二流の人材、平均的な人間の数を増やすことだけは避けるべきです。しかるに、広告代理店は平均的な人間をどんどん増やして大きくなり、その凡庸化に拍車をかけていく傾向にあります。
小さいままでいるというのは、きびしいことですよ。特に、一度成功してしまうとね」

広告のクリエイティビティとは


chuukyuu 「コピーライターになろうと決心なさった理由をおきかせいただけますか?」


ゴーセイジ氏「コピーライターになろうなどと決心したことはありませんよ。復員してきて、ある放送局のプロモーション・マネジャーをやっていたんですが、辞めて、1年半ほど、ヨーロッパへ行ってバリの大学に入って大学院課程をやったのです。35歳の手習いでした。
帰ってきて仕事を探すためにある広告代理店へ行ったら、コピーライターの口だけがあいていたのです。『OK』って返事をしましたが、それがぼくにできる唯一の仕事だったのです。ほんとうの話ですよ」


chuukyuu 「若いコピーライターへの忠告を---」


ゴーセイジ氏「ぼくに言えることは、代理店に入ったらまず、誰も見向きもしていないアカウントを見つけて、受け持つんですね。それがたいへんな勉強になりますよ。誰も『ノー』っていわないんだから---」


これは、これまで、だれも口にしたことのない策でした。たしかに、誰にとっても魅力のないアカウントを受け持って、それを自分のアイデアで飛躍させる---こんな、うまいテを教われたなんて。
これまで取材してきたDDBのみごとなコピーライターたちの発言も有用だけど、そのほとんどはDDBという強い日傘の下にいてこそのものだったような気がしてまきました。
氏のこれは、サン・フランシスコという美しい町ではあるけれど、経済規模はニューヨークなどとははるかに劣る地方都市で才能を発揮したコピーライターなればこその、ユニークな着眼点です。


chuukyuu  「コビーライターにとって、最も大切な才能はなんだとお考えでしょう? また、どうすれば訓練できますか?」


ゴーセイジ氏「考えというほどのものは持ってはいませんが---こうではないかと思うのです。
ほかの人が見ないものを見る---ということです。そう---1人の男が入って来た時、ほかの人びとがぜんぜん見ないものを見ることでしようね。ぼくは、広告に用いられているクリエイティビティというのは、100頭の馬が駆けている時に、シマ馬が1頭混じっていると言える能力だと説明しているんですよ。そして、このシマ馬をどうするか、99頭のシマ馬じゃないほうの馬をどうするかということです。
これがほかの人が見ないものを見るということですし、クリエイティビティだと考えます。しかし、訓練の方法については、わかりません」


この99頭の馬対1頭のゼブラのたとえは、さすがに含蓄に富んでいます。広告のクリエイティブ論としてではなく、すべての分野のクリエイティブ畑の人に通じます。もっともこのブログの目的は、このような個人のクリエイティビティ開発を目指しているのではなく、クリエイティブな環境のあり方の論議を目的としているのですが。


chuukyuu 「いまでも、イーグル・シャツのコピーを書いていらっしゃる?」


ゴーセイジ氏「ええ。この広告が始まって以来、ぼくがずっと書いています。このアカウントは、8年前にこの代理店に来ました。このシャツは40年間も、広告というものをやったことがなかったのですが、ここへ頼みに来たのです」

10数年前、広告に背をむけようと決心したとき、切り抜いて置いたイーグル・シャツの色刷りの広告をすべて処分してしまったので、残っているのは『みごとなコピーライター』に収録したこのモノクロに還元したこれだけ。陳謝・自省。




IF YOU WANT TO LOOK AS SUAVE AS A 1935 BAND LEADER HERE'S YOUR CHANCE!

[イーグル・ファーストの品製品:ボタンなしのボタンダウン
1935年のバンド・リーダーの小粋をご希望なら、チャンスです!


羽根ボタン・落っこちのヒントはクリーニング店です! でも、そうしたら、とてもシンプルで美しいのです。シンプルってすてきですね。そこで私たちは、わが社のすてきなボタン・ダウンの襟羽根からボタンを取り去ってみました。なぜ?って、イーグルのスナッフ・ストライプのボタンレス・ボタン・ダウンは、カラー・ピンをすると最高ににイカして見えるからです。パティ、クレイ、パール、バックなど、その他のすてきなアースカラーの最近よみがえったグレイト・ギャツビー風のギャバジン・スーツにとても映えるのです。(以下少略)


Eagle Shirtmakers © "The New Yoker" May 29, 1965

マクルーハン売出しの舞台裏


chuukyuu 「マーシャル・マクルーハン教授をプロモートなさったときのエピソードを話してください」


ゴーセイジ氏「マーシャル・マクルーハン教授は、非常に重要な思想家です。現代の最も重要な思想家の一人といえます。
4年前の1964年にマクルーハン教授の『メディアの理解』を読んで、ものすごい共感を覚えたものです。そこで、私は、仲間のフェイゲン博士に同教授のことを話し、招待したいと提案ました。それから、2人で彼が教授をしているカナダのトロント大学へ飛び、会ったのです。
そして、『あなたの時代が来ている』と告げたのです。ぼくは、自分でも嫌になるほど、彼の理論について人びとに説明しましたし、また、彼こそ、アッというまに有名になるべきだと思ったのです。
また、教授を世に出すという点でなら、多少なりとも援助できるとも思いましたからね。それで、教授をニューヨークへ連れて行きました。
そう、3年(1965)ほど前のことです。ぼくたちは、教授のためのカクテル・パーティを開き、その席に高名な編集長たちや出版社を招待しておいたのです。
その時以来です、教授が著述家として認められ、正しく評価され、みんなが彼について書くようになったのは---。6ヶ月後には、彼は家を買うほどの身分になったのです。
ぼくたちがパーティをひらかなかったら、有名になるにはなったとしても、もう少し時間がかかったでしょう。
それからぼくたちは、教授をここ(フリーマン&ゴーセイジ社)へ呼んで、セミナーを開きました。ジャーナリストのウォルフ(Tom Wolf)をはじめ、ライターたちがやってきて、そのことを記事にしてくれました。
マクルーハン夫妻をサン・フランシスコへ呼ぶ費用も、ぼくたちが負担しました。なぜかですって? そうしたかったからです」
(1960年代後半のサン・フランシスコは、一種の思想と芸術の発信地でした。ヒッピーたちが全国から集まって、いろんなコミュニティをつくっていました。彼らの中には、新しい観点---サブ・カルチャー---にもとづく言論やアートや音楽を発信する者がたくさんいたのです。
もしかしたら、サン・フランシスコだったから、マクルーハンの革新的なところのある思想が、いち早く、認められたのかもしれないと、いま、思っています)。

ゴーセイジ氏の風変わりな広告観


ゴーセイジ氏は、広告に関する数多くのエッセイを書いています、「これがいちばんおもしろい」と送ってくれたのが、なんとドイツ語の280ページもあるやつで、『広告は救世主たりうるか?』という書名を読むのがやっと---というありさま。1967年1月にデュッセルドルフのEcon-Verlag書店からでていますから、興味のある方はご注文になってみては---彼は「だーれか、ドイツ語のできる人に読んでもらいなさい」と親切に言ってくれましたが---。


もっとも、彼にしてみれば、フランクフルトのアートディレクター・クラブに招かれて「クリエイティビティ派も過去にとらわれない『環境外的』人間の産物である」という講演をしたとき、ドイツ語のレッスンを3週間つめこみ、ドイツ語でスピーチしたそうだから、ぼくにもそのようなハードワークを強制したのかもしれません。


氏のこのクリエイティビティ論の要旨は(といっても、ぼくが読んだのは英語版のほうですが)、クリエイティビティは、人が自分の環境に気づくようになった時から始まるひとつのプロセスだというのです。ゴーセイジ氏がいう環境とは、(ある任意の瞬間をとってみた場合、そこに働いている組織社会を制限している通常的な一連の条件)というふうに定義づけられています。
そして人が自分の環境に気づくのは、環境自体が変わるか、自分が変わった時だといいます。ヨーロッパ育ちの人間---例えば、オグルビーが成功したのは、英国育ちの人間が米国人向けに広告をつくったからだというのです(さて、この例にはいささか納得がいかない面があります。というのは、いつかこのブログで公開しますが、オグルビー氏が自社のクリエイターたちに配布している『調査から導かれた、守るべき96条』をみると、育った国籍は関係ないみたいにも思えます)。


ゴーセイジ氏の所論へ戻ります。
自分を変えるためには、〔プロセス・シンキング〕をすることだとすすめます。〔プロセス〕とは〔機能〕のことです。原稿用紙にして40枚近くあるスピーチで、たったの数行に要約してしまったのですから、わかってくださいというほうがムリな話ですが、とにかく、別の見方しろと主張していると思ってください。(氏のこのスピーチの全文は、広告畑から撤退したとき、ダンボール箱につめて倉庫にしまったような気がしています、いつか見つけて、このブログへアップしましょうか。もっとも、ゴーセイジ氏のように日本のウィキペティアにも載っていない人のスピーチは、もう、いい---ということであれば、わざわざ埃っぽい倉庫を探すまでもないのですが。ぼく個人は、再読すれば、これまで気づかなかった卓見を発見するだろうと思ってはいますが---)。


さて。別のところで、氏は、こう、いっています。
「広告の第一のゴールは、残りすべての広告主に、自分に対する関心をもたせることです。
第二は、自分の競争相手に、自分のことを語らせることです。
第三のゴールは、一般大衆です。そうは言っても彼らはなんらかの方法でこっちのことを知ってしまうでしょうがね。
自分の広告をぜひとも見せなければならない相手は、主な競争相手の広告代理店のコピーライターです。彼らを威嚇できれば、つまり、勝ったのです」


考え方によると、これはずいぶん乱暴な意見のようにも見えます。が、ご自分の心の底の底---他人には恥ずかしくていえない醜い部分を、ぎゅっとつかみだし、ルーペで拡大したら、ひょっとしたら、こうなるのかもしれません。ゴーセイジ氏は、誤解を恐れず、変にもったいぶった口調をやめて、直截に、一面の真理を衝(つ)いたともいえますね。


しかし、こうしたゴーセイジ氏の警句的な表現方法は、だれにでも好かれるというわけではなく逃げていくクライアントも多いようです。その時、氏は笑いながらこういうのです。「うん。あれは、ぼくのクライアントとしては大きすぎたようだ」