創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(115)ハワード・ゴーセイジ氏とのインタヴュー(5)

(Mr. Howard Gossage President, Freeman & Gossage inc. Advertising

この人とは、何時間でも、何日で話しあって聞きだしたいと思ったが、そうもいかない。ゴーセイジは、わざわざインタヴューの時間をとってくれたのである。
もらった資料で、もっと勉強するしかない。


ハワード・ゴーセイジ氏とのインタヴュー (1) (2) (3) (4)

ゴーセイジ氏の風変わりな広告観


ゴーセイジ氏は、広告に関する数多くのエッセイを書いています、「これがいちばんおもしろい」と送ってくれたのが、なんとドイツ語の280ページもあるやつで、『広告は救世主たりうるか?』という書名を読むのがやっと---というありさま。1967年1月にデュッセルドルフのEcon-Verlag書店からでていますから、興味のある方はご注文になってみては---彼は「だーれか、ドイツ語のできる人に読んでもらいなさい」と親切に言ってくれましたが---。


もっとも、彼にしてみれば、フランクフルトのアートディレクター・クラブに招かれて「クリエイティビティ派も過去にとらわれない『環境外的』人間の産物である」という講演をしたとき、ドイツ語のレッスンを3週間つめこみ、ドイツ語でスピーチしたそうだから、ぼくにもそのようなハードワークを強制したのかもしれません。


氏のこのクリエイティビティ論の要旨は(といっても、ぼくが読んだのは英語版のほうですが)、クリエイティビティは、人が自分の環境に気づくようになった時から始まるひとつのプロセスだというのです。ゴーセイジ氏がいう環境とは、(ある任意の瞬間をとってみた場合、そこに働いている組織社会を制限している通常的な一連の条件)というふうに定義づけられています。
そして人が自分の環境に気づくのは、環境自体が変わるか、自分が変わった時だといいます。ヨーロッパ育ちの人間---例えば、オグルビーが成功したのは、英国育ちの人間が米国人向けに広告をつくったからだというのです(さて、この例にはいささか納得がいかない面があります。というのは、いつかこのブログで公開しますが、オグルビー氏が自社のクリエイターたちに配布している『調査から導かれた、守るべき96条』をみると、育った国籍は関係ないみたいにも思えます)。


ゴーセイジ氏の所論へ戻ります。
自分を変えるためには、〔プロセス・シンキング〕をすることだとすすめます。〔プロセス〕とは〔機能〕のことです。原稿用紙にして40枚近くあるスピーチで、たったの数行に要約してしまったのですから、わかってくださいというほうがムリな話ですが、とにかく、別の見方をしろと主張していると思ってください。(氏のこのスピーチの全文は、広告畑から撤退したとき、ダンボール箱につめて倉庫にしまったような気がしています、いつか見つけて、このブログへアップしましょうか。もっとも、ゴーセイジ氏のように日本のウィキペティアにも載っていない人のスピーチは、もう、いい---ということであれば、わざわざ埃っぽい倉庫を探すまでもないのですが。ぼく個人は、再読すれば、これまで気づかなかった卓見を発見するだろうと思ってはいますが---)。


さて。別のところで、氏は、こう、いっています。
「広告の第一のゴールは、残りすべての広告主に、自分に対する関心をもたせることです。
第二は、自分の競争相手に、自分のことを語らせることです。
第三のゴールは、一般大衆です。そうは言っても彼らはなんらかの方法でこっちのことを知ってしまうでしょうがね。
自分の広告をぜひとも見せなければならない相手は、主な競争相手の広告代理店のコピーライターです。彼らを威嚇できれば、つまり、勝ったのです」


考え方によると、これはずいぶん乱暴な意見のようにも見えます。が、ご自分の心の底の底---他人には恥ずかしくていえない醜い部分を、ぎゅっとつかみだし、ルーペで拡大したら、ひょっとしたら、こうなるのかもしれません。ゴーセイジ氏は、誤解を恐れず、変にもったいぶった口調をやめて、直截に、一面の真理を衝(つ)いたともいえますね。


しかし、こうしたゴーセイジ氏の警句的な表現方法は、だれにでも好かれるというわけではなく逃げていくクライアントも多いようです。その時、氏は笑いながらこういうのです。「うん。あれは、ぼくのクライアントとしては大きすぎたようだ」


>>(了)