創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(189)大もの---ジョージ・ロイス氏(21)

Great art director Mr.George Lois

ジョージ・ロイスへの道(1)


ジョージ・ロイス氏は、1978年、第57回目のニューヨーク・アートディレクターズ・クラブから「名誉の殿堂入り」の指名を受けた。この制度は始まって7年目で、翌年がヘルムート・クローン氏、1年置いてウィリアム・トウビン氏、次の年が写真家のリチャード・アヴェドン氏、さらに3年後がレン・シローイッツ氏だから、いかに早かったかわかる。
指名された年の『ニョーヨークADC年鑑』に、表題の文章が載った。大要を数回にわたって紹介してみたい。




(ビル・ピッツは、ジョージ・ロイスの広く称賛された『広告美術』を紹介した。ピッツとロイスは3つの代理店で一緒に働いてきたのだ。そして最後にロイスの名を冠したロイス・ピッツ・ガーション社を立ち上げたのである)。


はじめに語りかくありき---ジョージ・ロイスは、工芸品のアートディレクターであり、特に本業の広告製作の面では第一級の人と目されている。 語りかけ、ビジュアルによる語りかけ、語りかけのあるビジュアルを駆使することで新しい世界に挑戦し、創造的な個性を発揮した者は、彼以前にはいない。
彼はアートディレクターの役割を、デザインの専門家たるにとどめず、アイデアの創造者にまで持ち上げたのである。


彼は、たぶん、米国で最も才略にたけたアートディレクターで、その資質は尽きるところを知らない。
「歴史家と考古学者は、いつの日か、われわれの時代の広告が最も豊かで、生活のすべての面を忠実に反映させていることを発見するであろう」といっているマーシャル・マクルーハンの見解に同意するなら、ジョージ・ロイスの、50年代、60年代、および70年代のアメリカでの仕事がまさにそれである。
1963年に彼が、ソニー・リストンをサンタクロースに擬した『エスクァイヤ』の表紙写真は、「ピカソゲルニカ以来の造形芸術の最大級の社会的な声明の一つ」と呼ばれた。


1969年の彼のブラニフ航空のキャンペーンは、のるかそるか「それを得たとき、それを見せびらかしてください!」というフレーズに結晶した。

(アンディ・ウォーホルソニー・リストン)


ルービン・H・カーターのための彼の情熱的なボランティアによる1975年のキャンペーンは、友人、同僚、およびクライアントからの批判の坩堝を招いたが、避雷針を作った。 コミュニケーション過剰のカーテンを貫きつづける仕事を擾乱して、武装を解除すること。
それは、広告ですか?
それは、商業美術ですか?
それは、コマーシャル?
それは、芸術ですか?
確かに、それは年代もののロイスです、私たちのディフェンスを蜂の巣状にして、単語の巧みな蒸留、およびイメージの雄弁な使用をかき乱す先鋭なメッセージ。それはメディアによって急襲された文化で主張する最も明確な方法の一つです。


ジョージ・ロイスは、旧名"Haralampos"が示すとおり、ギリシアからの移民の花屋の息子である。"Vasilike"が彼の母方の姓である。2人姉たちの名---"Hariclea"と"Paraskeve"。 彼は、真正ギリシア東方正教会の若者として、ブロンクス区のアイルランド系の多いキングスブーリッジ地区で生まれ育った。彼の座右の銘の一つは「ラブレーのメモリを寄付する」(大ぼら吹きをだまさないでくれ)である。ロイスの半分折れている鼻は、北ブロンクスでのギリシア系の少年たちとゲルト系の少年たちとの10年におよぶ乱闘の記念である(彼は、「ほくは、ぼく自身の9つに折れている鼻を決して忘れない」という)。


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