(103)ポーラ・グリーン夫人とのインタヴュー(2)
日本人は対話形か好きではないし、どんな重大な思想がそこに語られていても、それが対話形であるというだけで軽く見る傾向がある------いささか気負って前書きに書いている『みごとなコピーライター』 (誠文堂新光社 ブレーンシリーズ 1969.7.15)は、米国の12人のコピーライターとのインタビューであった。
司馬遼太郎さんが対話編で語るようになるまでの思いあがりだったとはお許しいただきたい。日本のコピーライターの地位をすこしでもあげておければという気持ちから、ニューヨークをはじめサンフランシスコまで取材してまとめた。
収録したうち5人はすでに紹介ずみ。ポーラ・グリーン夫人は6人目(もっとも、この順番にはなんの企みもない)。
ポーラ・グリーン夫人とのインタヴュー(1)(2)
アカウント・ウーマンになりたかった
chuukyuu「DDBにお入りになるまでのキャリアを話してください」
グリーン「ロサンゼルスに生まれカリフォルニアの学校へ行きました。いまのこういう職業に入ったのは偶然だったの。
学校を出たころ、ちょうどわたしの母がニューヨークへ旅行して帰ってきたんです。そして、〔ポーラ。あなたもニューヨークへ行ってみたらどう?〕なんて言ったので、わたしは〔ニューヨークへ行って一体何をするの?〕と聞き返したの(笑)。そしたら母は、〔とにかくニューヨークはきっとあなたの気に入るらよ〕と、そういったんです(笑)。
そこでまあ、ニューヨークへやってきて、最初は従妹姉のところにいっしょに済んだの。それからカリフォルニアにいた当時から知っている友だちが何人かやっぱりニューヨークに住んでいましたから、その人たちに連絡したんです。その人たちはニューヨーク出身で、カリフォルニアに来ていた人たちだったんですが、よく知っていたものですから---。
そしたら、その友だちの一人が、〔広告代理店の仕事ってのは、どうだ? なかなか面白いよ〕と言ってくれたんです。わたしは〔まあ! それはとってもいい考えみたい〕って賛成しました。
結局、そこで、わたしが就いた仕事っていうのが、ある雑誌のプロモーションのほうのマネジャーの秘書でした。たまたま、わたしは秘書の技術も持っていましたから、その仕事についたんです。
その人は、非常に立派な人でした。人間的にも、能力の上でも、とてもよくできた人でした。写真もでき、筆もたつ人で、両方自分でやる人でした。そこのスタッフは、非常に小さなものでしたが、彼が全部ディレクションしていました。そして、わたしにコピーの書き方だとかレイアウトのことだとかの、いろいろな手ほどきをしてくれました。
この雑誌の名前を言いますと、男性向きの『True』です。非常に成功した雑誌です。
そのプロモーション・ディレクターが、わたしにいろいろ教えてくれたんですが、そのうちに、そこのプロモーションの資料を書くと、彼がそれに手をいれてくれるということになったのです」
chuukyuu「それがコピーライターになる直接のきっかけだったんですね?」
グリーン「ええ、わたし、振り返ってみると、中学から大学まで、いろんな意味で何か書く仕事をやってました。主に、学校の新聞なんかで---。でも、広告の仕事をするようになるなどとは、全然考えたことはなかったわ。
ロスでは、広告関係の人しだれも知らなかったし、そういう環境にいなかったものですから、自分が広告の文章を書くような仕事に就くなんて、昔は決して思ってもいませんでした。ニューヨークへ来てから、具体的にこの方面に進むようになり
そのうち、たまたまそのディレクターが辞めたのね。辞めた彼のあとをうけて、わたしが昇格になり、その雑誌のプロモーションのディレクターにされました。
で、ちょうどわたしは、その雑誌に広告を入れていた広告代理店の人たちを知っていましたから、あれこれ話したんですが、彼らを通じてその代理店---つまりグレイ広告代理店のアカウント・エグセクティブと話す機会があったんです。
そのころ、わたしはどこかへ移りたいなと思っていました。そしたら、そのアカウント・エクゼクティブが、グレイへこないかと言ってくれたんです。グレイへ行ってからもずいぶんたくさんいろんなアカウントのコピーを書きました。
そうこうするうちに、今度は結婚することになったの。そして、結婚して、子どもが生まれるということになったので、会社を辞めました。グレイをやめてしばらくフリーいで仕事をしていました。子どもが小さいうちは、グレイでフリーランスででしばらく仕事をしてました。子どもが小さいうちはいろいろお金のかかりが多くて、その仕事のお蔭でとっても助かったのよ(笑)。
ところが、子どもが少し大きくなってきたころ、主人がもう一度学校へ行くと言い出して、エンジニアリング・スクールへ行くことになりました。そこでわたしがまた仕事にもどったわけなんです」
ポーラ・グリーン夫人の名前を広告界に末長く残すことになったのが、エイビス・キャンペーンだった。
Avis still believes in the American dream.
エイビスは、いまなお、
アメリカン・ドリームを
信じています。
アメリカン・ドリームへの機会は、過去のことではありません。
この10年間で、およそ5,000人の新百万長者が、高額納税者リストに記入されました。
そう、成功することはできるのです。もっと一所懸命に働くことを厭いさえしなければ。
エイビスのこの考え方は、いささか時代遅れに聞こえるでしょうか。
最近では、もっと一所懸命に働くことでビジネスを成功させようとしている人は、堅物と呼ばれかねません。
なるほど。しかし、私たちは富んだ堅物になるつもりです。
ですからエイビスのお客さまは、電磁式ドアロック、ウォッシャー液やスペアタイヤの空気もしっかりと入ったプリマスを借りられます。おまけに車体はぴっかぴかに磨かれています。
世間は、私たちが一気に成り上がろうとしていると言うかもしれませんね。(訳:原田 剛志 & chuukyuu)
ポーラ・グリーン夫人との、もう一つのインタヴュー記録。
いわゆる「DDBルック」を語る(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)(9) (10) (了)
これまでにアーカイブしたエイビス・キャンペーン
[DDBの広告]エイビス(01) (02) (03) (04) (05) (06) (07)
DDBのみごとなコピーライターたちとの単独インタヴュー(既掲出分)
ロバート・レブンソン氏とのインタヴュー
(1) (2) (3) (追補)
ロン・ローゼンフェルド氏とのインタビュー
(1) (2) (3) (4) (5) (了)