(59)『かぶと虫の図版100選』テキスト(4)
1970年3月20日、フォルクスワーゲン・ビートルに関する2冊目の編著書の新書版『かぶと虫の図版100選』をブレーン・ブックスから上梓しました。
そのテキスト部分の転載です。
VWはDDBを求め、DDBはVWを求めた
ノルトホフVW本社社長は、米国から西ドイツへ帰国するや、翌春早々に、米国VW社の総責任者として、カール・H・ハン氏を送り込んだ。ハン氏は、生粋のオーストリア人で、まだ30代半ばの若さであった。
着任早々、ハン氏は、2月から切れたままになっていたJ・M・メイスン代理店との広告契約を再開しないで、新しい広告代理店を物色し始めた。
ソニーの盛田副社長(当時)から聞いたところによると、ハン氏は1年分の雑誌・新聞をめくって、自分が気に入った広告をどんどん切り抜き、それらの広告をつくった広告代理店を秘書に調べさせたという。
切り抜かれた広告の70%がDDBによってつくられたものであった。
一方、GGBもVWに興味を持ち、このアカウントをねらっていた。両者を捕り持ったのは、VWの有力ディーラー、クィーンズボロ・モータース社のアーサー・サタントン社長だといわれている。DDBはこのディーラーのために仕事をしてやったことがあったのだそうである。
1959年4月、米国VW社は正式にDDBを指名し、そのことを5月に公表した。その年の予算100万ドル(当時の換算で3億6,000万円)のうちの80万ドルをかぶと虫とステーション・ワゴンのための広告費としてDDBに与え、残りの20万ドルをトラックと中古車のための広告費として、フラー・スミス&ロス社(注:1968年のニクソン大統領の共和党選挙広告を担当)に与えた。
また、ハン総支配人は、ポール・R・リー氏を引き抜いてきて、広告部長にすえた。リー氏は、シボレーのセールスマンを経験したあと、キャンベル・イワルド広告代理店でアカウント。エクゼクティブ(得意先主任)をやっていた。リー氏の就任によって、スチュワート部長はペシルベニアのアレンタウンに移ってVWのディーラーとなった。
こうして、20世紀最高の広告キャンペーン---と折り紙をつけられたVWのキャンペーンが始まる舞台が整ったのである。
ここで、DDB側の登場人物を紹介しておこう(1959年当時 敬称略)。
ビル・バーンバック | 社長、クリエイティブ・ディレクター |
テッド・ドイル | 筆頭副社長、VWチームの総責任者 |
エド・マクネイリー | VWチームのアカウント・マネジャー(写真) |
ビル・ファイン | VWチームのアカウント・エグゼクティブ |
へルムート・クローン | アートディレクター |
ジョージ・ロイス | アートディレクター |
ジュリアン・ケーニグ | コピーライター |
ボブ・レブンソン | コピーライター |
(注:米国VW社がクライアントになる前に、ハン氏が切り取ったと推定できるDDB制作の雑誌広告は、ポラロイド、フランス観光局、ELALイスラエル航空などであったろう)。
ポラロイドの作品例(当時はモノクロ写真だった)
写真が10秒で仕上がるとなれば、もっと楽しみが増えます。ご家庭のもポラロイド・ランド・カメラをお備えになったほうがいい時期がきているんではありませんか?
この写真は、ポラロイド・ランド・カメラで10秒で仕上がりました。もちろん、普通のカメラでも撮れる写真です。でも、子供たちは、すぐにその写真が見られると知れば、いろんなポーズをとってくれます(以下略)。
この写真は、ポラロイド・ランド・カメラで10秒で仕上がりました。こんな写真を撮るチャンスにぶつかりながら、カメラを棚のどこかに置き忘れて、決定的瞬間を逃したことが幾度もおありでしょう(以下略)。
ポラロイドは、徹底して、「スライス・オブ・ライフ(人生の一断面)」の画面を提示しつづけた。
フランス政府観光局の作品例
ようこそ。
コンコルド広場ぱごしごしと洗われて輝いています。四星レストランの食材庫の責任者はことしはワイン当たり年だといっています(以下略)。
この次の休暇には、いのちの洗たくを。
魅力たっぷりのパリをあとにしましょう。そうですね、自転車ごと、フランスの汽車に乗り入れるのも南仏への早道ですよ(以下略)。
ELALイスラエル航空の作品例
あの最後の2時間というものは最高に長く感じるものです。
ELALのジェット・ブリタニアでヨーロッパへいらっしゃれば、この2時間はカットできるのです。
(以下略)
4月1日から、ブリタニアだと他のジェット機よりも6%安くすみます。
(大意)たとえばロンドンへだと6%の節約になります。