創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

03-20 DDBできっと仕事をしてみせるぞ

すぐれた仕事を続けるように配慮することが、とりもなおさず、よい顧客を引きつけることになると、第1章でお話ししました。
それは、よい顧客を引きつけるだけではなく、よい人材をも引きつけることになるようです。
DDBの幹部コピーライターの一人であるレブンソン氏は、VWの広告の作者として知られている人ですが、彼は私にこう話してくれました。
「(ある広告会社をクビになったあと)DDBで働きたいがために、10ヶ月ほど失業保険で暮らしました。
でも、DDBは私を雇ってくれない。
DDBで働きたいと考えたのは、じつはクビになるより前のことでした。
それはニューヨーク・タイムズを開いて、ELALイスラエル航空の『引きさかれたた大西洋』の広告を見た時にさかのぼります(注・これは1957年12月15日付の紙面に載った、DDB制作による広告で、バーンバック社長が、ホテルのグリルで両親との昼食をすませて、社へ歩いて帰る途中に思いついたという)。

『これは、すごくスマートだ。この会社できっと仕事をしてみせるぞ』と自分自身にいいきかせたものです。それで応募しました。
でも、雇ってくれようとはしないんです。それから何度も何度も応募して、最後には彼らを疲れはてさせちゃって、1959年に雇ってもらうことになりました。
以来、ずっとここにいます」

もう一人、1960年代の最高の広告キャンペーンといわれているエイビス・レンタカーの『エイビスはレンタカー業界で2位にすぎません。だから、もっと一所懸命にやります』という広告をつくったグリーン女史の話を聞いてみましょう。
chuukyuu「あなたがDDBにおはいりになったのは、いつ、なぜ、どうやってですか?」
グリーン「(前の代理店をやめて)ネッド・ドイル(DDBの創設者の1人)に電話しました。私はネッドとその仲間を以前から知っており、彼らと一緒に仕事をしたいと、ずっと前から思っていたのです。
そのとき、彼が助言してくれたのは、ロビンソン夫人を知っているか、知っているならロビンソン夫人に会わないか、ということでした。
で、私は、自分の作品のサンプルなんかを持って、彼女を訪ねて行ったのです。そうしたら彼女とすごく気が合って、彼女は私を雇ってくれたのです」
chuukyuu「それは、いつごろのことですか?」
グリーン「そう…1956年でした。覚えていますが、クリスマスのころでした。
当時、コピー・チーフであったロビンソン夫人が私に電話をくださって、とにかくパーティーにいらっしゃい、ということになって、会社のクリスマス・パーティーに出席して、そこでみんなに会ったのです。
仕事をする前に、まずパーティーでみんなに会ったのね。
とってもいい雰囲気でしたわ。これは今まで、私のDDB生活を通じて、ずっと変わらず思っていることです。
こんなところが、私がDDBにはいることになったいきさつなんですが、DDBにきたかった本当の動機は、私、こころからこの代理店の仕事を尊敬していました。で、いつかこういうところで仕事をしてみたい、ここで要求されているような水準の仕事も、私にならやれる自身がある、そしてぜひここで仕事をしたい、そういう希望を前から持っていたからなのです。
でも、やはりそれは、私に十分な実力がつくまではできなかった」
ひどく恥ずかしがり屋のポーラが、顔を赤らめ、それでも確信的に話すのを聞いていると、すべてが真実味を持って響いてきます。