創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(458)ポーラ・グリーン夫人とのインタヴュー(連結版)


1976年だから、33年前のこと。送られてきた『DDB NEWS』7月号を手にとっていて次のページに目をとめた。

広告業界誌《Ad Age》が広告の専門家97人に、「この200年間でベストと思う広告キャンペーン」の推薦を依頼、集計してベスト10を選定したのに、DDB創造のものが3点」と誇っている記事であった。
図版の大きさどおりに、1位がVWビートル、10位にエイビス・レンタカー、そしてアルカ・セルツァー。


In Ad Age:
DDB Has Three of Ten Best Ads Ever


Advertising Age, for its Bicentennial issue, asked 97 advertising professionals to name "the best ads or ad campaigns that you've ever seen heard."
Three of the 10 campaines chosen as best ever were created by DDB, more than any other agency produced.


「当然!」と感じた。
このころ、《Ad Age》の定期購読をやめていたので、ほかの7キャンペーンは知らない
その半年前の12月号で、一度DDBから去ったエイビスが1年後にまた戻ってきたという記事と、新しいキャンペーンの一端をみた。


このキャンペーンは、いつかリサーチしたいと思いつつ、そのままにしている。
それで、まず、200年間のベスト10に選ばれたほうのコピーライターであったポーラ・グリーン夫人とのインタヴューを読み返してみることにした。分断掲載されていたものを1回にまとめましたから、ごいっしょにいかが?




Xマス・パーティーでDDBになじんだ


chuukyuu 「DDBにお入りになったのはいつですか? また、なぜ、どうやって?」


グリーン夫人 「わたしは、ある広告代理店で働いていましたが、ある夏、会社から休暇をもらって主人の働いているところへ行っていっしょに過ごしたかったのです。主人は学校へ2度行った人なんですけれど、その時やっと学校を終えたばかりでちょうどその夏は子どもキャンプで働いてたの。


ところが会社は、行くんなら辞めて行け、ってお休みをくれなかったのです。


たまたま、その広告代理店では、わたしのことを個人的には好いていてくれてはいたんですが、どういうふうに扱っていいか、どんな仕事を与えていいか、わからなかったらしく、わたしのほうでも、その会社にどうもぴったりこないとというところだったんです。


そこで、その会社をやめて、その夏を主人といっしょにすごしました。


ところが、夏が終わったら今度は仕事がないということになってしまいました。


そこでわたしは、ネッド(Ned Doyle---DDBのD、創業者の一人)がグレイ広告代理店にいたころから知っていたので、彼に電話しました。
わたしは、ネッドとその仲間を前から知っており、彼らといっしをに仕事をしたいとずっと思ってたんです。
その時、ネッドが助言してくれたのは、ロビンソン夫人を知っているか、ということでした。


わたし、ロビンソン夫人をちょっとだけ知っていましたの。
ネッドは、それならロビンソン夫人に会わないか、ということでした。
で、自分の作品のサンプルなんかを持って彼女を訪ねて行ったんです。
そうしたら、非常にウマがあって、彼女はわたしを雇ってくれたんです」


chuukyuu「それは、何年ごろでした?」


グリーン夫人 「そう、1956年でした。


憶えていますが、わたしがここへきたのは、たまたまクリスマスのころでした。
当時コピー・チーフだったロビンソン夫人が電話をくださって、とにかくパーティへいらっしゃいということになって、DDBのクリスマス・パーティに出席して、そこでみんなに会ったのです。
仕事をする前に、まずパーティでみんなに会ったのね。


とってもいい雰囲気でしたわ。これは、わたしの12年間のDDB生活を通してずっと変わらず思っていることです。
こんなところが、わたしがここへ入ることになったいきさつなんだけど、DDBに来たかった本当の動機は、わたし、心からこの代理店の仕事を尊敬していました。

いつか、DDBで仕事をしてみたい、DDBで要求されているような水準の仕事がわたしにならやれる自信がある。ぜひともDDBで仕事をしたい、という希望を前から持っていたからなのです。

とくに、キー・メンバーたちがグレイにいたころから知っていましたし、あの人たちといっしょに仕事をしたいと、ずうーっと思っていたの。
でも、やはり、わたしに十分な実力がつくまでは、それは実現できなかったのね。


結局、DDBが発足してから6年ぐらい経ってしまってから来たんですが、そのころには、わたしはある程度の自信がついていました。
DDBの要求するようなレベルの仕事ができる、という自信がついたときに、たまたまチャンスがあって、DDBにくることになったんですが、[もしかしたら、あの人たちのほうでわたし個人に興味がないかもしれない。でも、わたしのほうは十分に自信があるんです]という意気込みだったのよ。


DDBでは、始まりは、バーン・アクリランのアカウントのライターでした。
ケムストランド社の製品のひとつで、化学繊維ですが、現在繊維業界では非常に重要な繊維になっています」


chuukyuu 「そのころのDDBの規模は?」


グリーン夫人 そうね---売り上げが2000万ドルぐらいだったんじゃなかったかしら。大体、10人で1000万ドルぐらい稼ぐ割合ですね。


そのクリスマス・パーティに出席していたのが約200人ぐらいで、この中にはもちろんアート関係の人間だけじゃなくて、事務系からアカウント部から全部含めて、会社の人間がおよそ200人ぐらい、という意味です。
two hundreds odd と言っても、決して200人の奇妙な人間たちというんじゃなくって、200人あまりの人たちという意味なのよ(笑)。


わたしは、その当時、DDBに初めからいた8人から9人ぐらいのライターの一人だったのです。


その時は、会社もフロアを2つしか使っていませんでした。
アートとコピーが25階、管理部門らのほうが26階というぐあいでした(笑)。

ポーラ・グリーン夫人とヘルムート・クローン氏のチームは、DDBにもう一つの成功伝説を加えた。




エイビスは、業界で2位のレンタカーです。
それなのに、お使いいただきたい、その理由(わけ)は?


私たちは一所懸命にやります。
(だれでも、最高でないときはそうすべきでしょう)。

私たちは、汚れたままの灰皿をがまんできないのです。
満タンにしてない燃料タンクも、いかれたワイパーも、洗車してない車も、
山欠けタイヤも、調整できないシート、ヒートしないヒーター、霜がとれないデフロスタ…

そんな車はお渡しできません。

はっきりいって、私たちが一所懸命にやっているのは、すばらしくなるためです。(省略)

この次、私たちの車をお使いください。
すいていることでもありますし、ね。

アカウント・ウーマンになりたかった


chuukyuu「DDBにお入りになるまでのキャリアを話してください」


グリーン夫人「ロサンゼルスに生まれカリフォルニアの学校へ行きました。いまのこういう職業に入ったのは偶然だったの。


学校を出たころ、ちょうどわたしの母がニューヨークへ旅行して帰ってきたんです。


そして、〔ポーラ。あなたもニューヨークへ行ってみたらどう?〕なんて言ったので、わたしは〔ニューヨークへ行って一体何をするの?〕と聞き返したの(笑)。

そしたら母は、〔とにかくニューヨークはきっとあなたの気に入るよ〕と、そういったんです(笑)。


そこでまあ、ニューヨークへやってきて、最初は従妹姉のところにいっしょに住んだの。
それからカリフォルニアにいた当時から知っている友だちが何人かやっぱりニューヨークに住んでいましたから、その人たちに連絡したんです。


その人たちはニューヨーク出身で、カリフォルニアに来ていた人たちだったんですが、よく知っていたものですから---。

そしたら、その友だちの一人が、〔広告代理店の仕事ってのは、どうだ? なかなか面白いよ〕と言ってくれたんです。

わたしは〔まあ! それはとってもいい考えみたい〕って賛成しました。

結局、そこで、わたしが就いた仕事っていうのが、ある雑誌のプロモーションのほうのマネジャーの秘書でした。

たまたま、わたしは秘書の技術も持っていましたから、その仕事についたんです。


その人は、非常に立派な人でした。人間的にも、能力の上でも、とてもよくできた人でした。写真もでき、筆もたつ人で、両方自分でやる人でした。
そこのスタッフは、非常に小さなものでしたが、彼が全部ディレクションしていました。
そして、わたしにコピーの書き方だとかレイアウトのことだとかの、いろいろな手ほどきをしてくれました。
この雑誌の名前を言いますと、男性向きの『True』です。非常に成功した雑誌です。
そのプロモーション・ディレクターが、わたしにいろいろ教えてくれたんですが、


chuukyuu「それがコピーライターになる直接のきっかけだったんですね?」


グリーン夫人「ええ、わたし、振り返ってみると、中学から大学まで、いろんな意味で何か書く仕事をやってました。

主に、学校の新聞なんかで---。でも、広告の仕事をするようになるなどとは、全然考えたことはなかったわ。

ロスでは、広告関係の人をだれも知らなかったし、そういう環境にいなかったものですから、自分が広告の文章を書くような仕事に就くなんて、昔は決して思ってもいませんでした。


ニューヨークへ来てから、具体的にこの方面に進むようになり、そのうち、たまたまそのディレクターが辞めたのね。辞めた彼のあとをうけて、わたしが昇格になり、その雑誌のプロモーションのディレクターにされました。

で、ちょうどわたしは、その雑誌に広告を入れていた広告代理店の人たちを知っていましたから、あれこれ話したんですが、彼らを通じてその代理店---つまりグレイ広告代理店のアカウント・エグセクティブと話す機会があったんです。

そのころ、わたしはどこかへ移りたいなと思っていました。

そしたら、そのアカウント・エクゼクティブが、グレイへこないかと言ってくれたんです。
グレイへ行ってからもずいぶんたくさんいろんなアカウントのコピーを書きました。
そうこうするうちに、今度は結婚することになったの。

そして、結婚して、子どもが生まれるということになったので、会社を辞めました。
グレイをやめてしばらくフリーで仕事をしていました。子どもが小さいうちは、グレイでフリーランスでしばらく仕事をしてました。
子どもが小さいうちはいろいろお金のかかりが多くて、その仕事のお蔭でとっても助かったのよ(笑)。
ところが、子どもが少し大きくなってきたころ、主人がもう一度学校へ行くと言い出して、エンジニアリング・スクールへ行くことになりました。そこでわたしがまた仕事にもどったわけなんです」



chuukyuu 「ご主人が再び学校へ入学され、あなたも再びお勤めになったのですが、そこは?」


グリーン夫人「今度は、セブンティーン誌のセールス・プロモーションのほうに入りました。
入ってしばらく経って、その雑誌のプロモーション・マネジャーになってしまいました。
雑誌の宣伝のためいろんなパンフレット類や広告の文章などをディレクティングしながら書くことになりました。


そして、そこでの仕事にも飽きてきたころに、たまたまある広告代理店にいた友人から、自分のところへ来ないか、とても面白いから、と誘われ、それじゃあ行こうかしらという気になったんです」

chuukyuu「その代理店は?」


グリーン夫人「ガンビナーというところ。
で、それが最後で、そのあと、DDBに来ることになったわけなんですけれど、要するに、わたしのキャリアは、雑誌社と広告代理店の両方をあちこち移動していたといえますね。


ここでちょっとつけ加えますと、わたしがDDBに来る前にいたガンビナー代理店では、アカウントのほうの仕事をしていました。アシスタント・アカウント・エグゼクティブをやっていました。
もちろんコピーのほうもやっていましたが、いろいろなことをやっていたんです。
コピー、それからアカウントのほう、そのほかのコンタクトのようなこともね。


ですから、DDBに来ないかというネッド・ドイル(Ned Doyle)さんからの話があった時には、わたしは「アカウントのほうはどうかしら?」と言ったの。
そしたらドイルさんは「それはちょっとね。やっぱり、あなたはコピーのほうが向いてるんじゃないかな」と言うんで、それでロビンソン夫人に会うことになったの。
でも、その当時、アカウント・ウーマンというのはいなかったので、わたしはそちらのほうでやってもいいなと思ったんですよ」


このグリーン夫人の発言には、ちょっと驚きました。
というのは、日本では、コピーライターにアカウントマンになれ---というと、たいていの場合、嫌がられるからです。
(もちろん、コピーライターがクライアントと直接に接触して、方針を確認したり、作品の説明をすることはしょっちゅうですが)。

ポーラ・グリーン夫人の名前を広告界に残すことになったエイビス・シリーズ。




もし、エスビスの車の中に
たばこの吸殻がありましたら
苦情をお寄せください。
それは私たち自身のためになることですから。


私たちは前進するために、あなたのご協力を必要としているのです。エイビスは、この業界ではまだ2位にすぎません。ですから、私たちは一所懸命にやらなくてはならないのです。
たとえばそれが、グラブ・コンパートメントの中の地図がしるしで汚れていたり、お客さまを長く待たせすぎると思われるようなことであっても、私どもにお申しつけください。
肩をすくめたり、「仕方がないや」で済まさないでください。私たちを追いたててください。
当社の関係者は、ちゃんとわかっています。全員に通達してあるんです。全員が、フォードのスーパー・トルクのような生きのいい新車より少しでも劣るようなものをお渡しすることはできないことを知っています。
そして、すべての車は、中も外も完全に整備されていなければならないということも。
そうでなかったら、騒ぎたててください。
ニューヨークのメドウ氏がそうしてくださいました。この方は、ガムの包み紙を見つけて持ってきてくださったのです。

コピーライターという職業の魅力


しかしグリーン夫人は、エイビス・レンタカーをはじめとする数々のすぐれた広告を手がけたのですから、やっぱりドイル氏の見たとおり、コピーライターになってよかったのではないでしょうか。
そこで、言葉を変えて、次のように質問してみました。


chuukyuu「コピー・ライティングという仕事をずっと続けていらっしゃいますが、コピーライターという職業の魅力は?」


グリーン夫人「とにかく、好きなんです。いま自分の持っているバック・グラウンドとか、経験でもってわたしがつけるであろうような職業、その中でもいろんな意味で最も報われることの多い職業だからです。


この仕事は、一般の人生、またビジネスのいろいろな面に、直接、非常に興味深く接触させてくれます。この仕事のクリエイティブな面を通じて現代のアートの世界の、最も生き生きとして、興味深い面に触れることができます。


たとえば、グラフィック、映画、音楽、演劇、才能のあるいろいろな人たち、たとえば俳優さん、カメラマン、ディレクターなどとの接触です。ですからある意味では、生きているフィルム・メーキングに関係しますから、現在、最も生き生きとしているアートじゃないかと思います。


もう一つの面、広告っていうのは、物を売るためのものですから、いま物を売る、ということのためにクリエイティブであるわけですから、当然この仕事は、ビジネスの最もエキサイティングな面にいつも接触するわけですね。


大会社の重役といった人たちと、新しいアイデアのことを話したり、流通の問題だとかマーケティングのことなどをいろいろ話し合う機会があります。
そして、売り込みのためには、どういうものが必要であるということが要求されます。


ですから、こういう仕事をしていますと、ビジネスに対する直感、またそれと同時に、クリエイティブな面に関する直感、この2つが要求されます。


本当に、この仕事ほど、わたしを米国の生活のありとあらゆる面に接触させるものは、ちょっとほかにはないんじゃないかしら。
とくにアーティスティックなひとつの説得というもの、それから、米国におけるビジネスというもの、この両方に対するセンスを同時に要求する---こういう職業は、ほかにはなかなかないと思うの。
あるひとつのアイデアをつくる時には、もちろん、ビジネスのことを考えなきゃあなりませんし、マーケティングがどうなっているかという経済ばかりじゃなくって、もっといっそう広い目でこの国の社会ということを、全体から考えていかなきゃなりません。


ちょっとしたひとつのキャンペーンが、社会的に非常に大きな影響をもつことがあります。


ですから、毎日働いている社会の重要な現象に、これほど密接に接触させる職業を、いまちょっとほかに、わたしには考えあたりません。そういうわけで、わたしはこの仕事が好きです」



エイビスはテレビ・コマーシャル代が
払えません。
喜ばしいことじゃ、ありませんか?


テレビ・コマーシャル1本つくる費用をご存じでしょうか?
約1万5000ドル。
もちろん、その中には、ハイウェイとか、西部の空とか、車、カワイ子ちゃん、
そして音楽好きの心をときめかすような調子のいいコマーシャル・ソング製作費も含まれています。
それを電波に乗せるためには、さらに、放送料も払わないといけません。
エイビスには、そういうお金はありません。
私たちは、2位のレンタカーにすぎないのです。
私たちが持っているものといえば、ピカピカのスーパー・トルクのフォードのような生きのいい車をたくさん。丁重にふるまうことをいとわない娘たちが、お待ちしている受付をたくさん---なのです。
私たちには、テレビ・コマーシャル以外はなんでもあります。
業績も上向いています。
近いうちに、あなたは喜んでばかりはいられなくなるかも。

ライターと広告代理店の雰囲気


chuukyuu「コピーライターにとってのDDBの雰囲気を話してください」


グリーン夫人「たぶん、DDBは最高の雰囲気を持っているところのひとつじゃないかと思うわ。


というのは、上の人たち、経営者の人たちの雰囲気が、そのまま下へ伝わってきているのね。
一言でいえば、率直開放的なことです。


若い人を育てあげる雰囲気を持っていますが、それはどういう形でかといいますと、決してひとつの統一したものにまとめようとしないことです。
上の人たちが、自分なら書くだろう、だからあなたもこうやりなさい、と下の者にら言うんじゃなくて、だれもが、自分のベストさえ尽せばいいのね。


だから、対応性、それぞれに変化があるということがむしろ望まれます。
とにかく、本人が自分のベストを尽くせばいい、ということなんです。


たとえば、あるクライアントが、あるクリエイティブな人のアイデアを買わなかったからといって、それでもう罰をくうようなことは決してありません。


ですから、そこに流れているものは、精神的その他の報酬と、責任、この2つのが基礎の要求としてあるわけなんです。


DDBは、非常にユニークな場所だと思いますよ。
というのは、この会社をつくった人たちが非常にユニークだったからですね。


この雰囲気っていうのは、下から生まれてくるんじゃなくて、上から生まれてきて、それで下のほうへ伝わってきているものなのです。

こういう会社というのは、上の人があるていど自由を与えてくれなければ、下の者は伸びようがないわけなんです。

普通は、上の人たちの与えた枠の範囲内でしか伸びられないものですけれど、ここでは、上の人たちは下の者をできるだけ自由に、良い仕事ができるように伸ばしてくれます。


わたしは、ほかに2つぐらいの広告代理店で働いたことがありますが、よその代理店に比べて、やっぱり、ここがいちばんいいとおもうわ。


外部の人たちの話を聞きましても、だいたい代理店というのは、だんだん大きくなるにつれて、アカウントも大きくなり、そのアカウントを失うことは、すべてに臆病になり、クライアントのわがままを許すことになり、働く人びとをくさらせてしまいがちです。


しかし、それを保身主義と攻撃するのはやさしいのですが、直すのは困難です」


chuukyuu「才能のあるコピーライターであれば、どんな広告代理店にいてもよい仕事ができるでしょうか?」


グリーン夫人「いいえ。雰囲気の悪い代理店だと、コピーライターにどんな才能があっても、よい仕事はできないと思うの。
代理店が与える自由の許容度の範囲の中でしか仕事ができませんもの。


まあ、コピーライターとアートディレクターの場合、雰囲気の悪い代理店だと、その代理店の設定した要件だけはみたすかもしれないないけれど、必ずしもそれが彼のベストの仕事じゃないということがあるんですね。


これでは、すごくフラストレーションを感じます。


何か自分のできることがありながらできない、やらしてもらえない、それはある場合にはクライアント側からの圧力、あるいは代理店の会社としての立場からの圧力、という理由もありますが、そのために、やれる能力を持っていてもやらしてもらえない、などということが起こります。

この時、そういうことがわかっていながらそこにいるというのは、非常に欲求不満を感じさせるもとです。


もちろん、いろいろ環境によっては、ある程度の制約は当然あることです。
これは仕方がないことですね。

そこで、私たちが新人を採用するような場合には、いままで本人が自分のアイデアとして、あるいは自分の仕事としてやってみたけれど、それが受け入れられなかった、というようなものがあったらそれを見せてください、と言って、そういうものを基準にして才能を評価します。

こうすると、やれば彼はどんなことができたか、などということの予測ができるものです。


ところでコピー・ライティングという言葉なんですけれど、これは非常によくない、表現が適切でないと思うんです。

まず第一に、「考える人」でなきゃあならない。私たちは、いかにして商品を売るかということに対して、考える人でなくてはなりません。


その次の段階に、初めてコピー・ライティングということがくるのです。
イデアを言葉に表すという段階です。

コピー・ライティングの仕事をやろうという人たちの中でも、多くの人がとにかく頭がよくって、言葉を巧みに使えばも、それでいいんじゃないかとと思っているようですが、そうじゃないんですね。


「やせたチキンでは薄いスープしかとれない」とヘンリー・ハインツ。「私たちは使ってません」


2ポンドあるは2.5しかか、チキンは発育不足でブロイラーにしか向きません。
スープの鍋には絶対入れるべきではありません。
骨と皮の間に十分な肉がなく、スープにコクが出ません。
肉が淡白で、チキンの豊かな風味が出ません。
やせたチキンは、砂嚢、チキンの皮など残りかすを加えてコクを出さない限り、薄いスープしかと
れません。
たしかにそうすれば安あがりです。
でも私たちは、甘く、不純物のないチキン・ブロスが好きです。余分の物を加えると、ブロスがにごったり、味がしっっこくなってしまいます。私たちはそんなのは好みません。
あなただってそうでしょう。
私の祖父は強い信念を持っていました。「客は一度も会ったことがない友と同じだ。そして友にはケ
チることはできない。」そう言ってたものです。
彼も私たちが買っているスープ用のチキンには、
いたく満足しているでしょう。
すべておいしく、丸々と太っています。(私たちはロードアイランド・レッドの若く、適度な肉のつくチキンが好きです)。私たちのチキンは少なくとも3ポンドはあります。骨にたっぷりと肉がのっています。そして黒い肉も、白肉も、やわらかく、甘味があります。私たちはそんなチキンが好きで、それ以外は使用しません。そのために、他の全社より1ポンドにつき、 3.4セントは多くお金をかけています。
そしてもうひとつ。
あなたは、私たちのチキン・ブロスを食べる時、塩、コショウをかけますか? かけないでしょう。味にムラはありません。私たちがスパイスを加え、野菜の風味もつけ足しているからです。でも香辛料には非常に気をつかっているので、強すぎたり、辛すぎたりすることは絶対にありません。子供はもちろん、大人にも味を十分に堪能していただけると思います。
チキン・ヌードル・スープ、ライス入りチキン、チキン・ベジタブル、チキン・コンソメ、チキン・ガンボ、クリーム・オブ・チキン。全部私たちのおいしいチキン・ブロスが元です。でもそれぞれがそれぞれの味を持っています。
ピッツバーグへお来しの節は、ぜひともハインツ・スープ・キッチンへお立ち寄りください。誇りを持ってご案内できます。


A/D バート・スタインハウザー Bert Steinhauser




"Skinny chickens make thin soup," says Henry Heinz.
"We don't use them."


私たちの唯一の目的は、売ることなのです。

ですから、まずいちばん初めにセールスマンでなければなりません。
それには、マーチャンダイジングに関する広範な知識と、セールスのコンセプトを持っていなければなりません。

また、すぐれた心理的な洞察、動機づけ、こういったもらも持っていなければなりません。

それで初めて、言葉を使うという段になって、コピーライターということになってくるのわけなんです。


多くの人は誤った観念を持っていて、何か書ければ、言葉をうまくあやつれれば、それでもう広告の文章は書けるんだと考えているかもしれませんが、わたしは、これは間違っていると思います


部下のコピーライターの指導法


グリーン夫人の話は、だんだんと核心に触れてきました。コピーライターはどうあるべきかを、優しい言葉で語ってくれ始めたのです。
そこで、急いで次の質問に移りました。グリーン夫人の気分の波が引かないうちに、聞きだしておきたかったからです。


chuukyuu「あなたの部下のコピーライターの指導法は?」


グリーン夫人「そうね---(笑)。特に教授法といえるかどうかわかりませんが、問題があたったらなんでもいいから、とにかく、わたしのところへ持ってきて話し合いましょうと言っています。


わたしもなるべく、彼らの才能を育てるように努力しています。


で、まずいちばん初めに、彼らに与えるアドバイスは、問題の核心をつかみなさいということです。
あるサインがあたえられた時に、そこで勝手にこれこそ問題であるといって、自分の好きな問題だけを見出さないで、真の問題を認識しなさいということです。


これは、この分野にだけ言えることじゃなくて、すべての場合に当てはまることですけれど、とにかく成功するためには、いちはやく問題の核心をつかまえなければなりません。

場合によっては、比較的簡単なものを見つけて、これこそ問題である、という間違った認識をすることがあります。


で、まずいちばん初めに、彼らに与えるアドバイスは、問題の核心をつかみなさいということです。

あるサインがあたえられた時に、そこで勝手にこれこそ問題であるといって、自分の好きな問題だけを見出さないで、真の問題を認識しなさいということです。

これは、この分野にだけ言えることじゃなくて、すべての場合に当てはまることですけれど、とにかく成功するためには、いちはやく問題の核心をつかまえなければなりません。

場合によっては、比較的簡単なものを見つけて、これこそ問題である、という間違った認識をすることがあります。

あとは、わたし、情熱ということも言います。その立場に、ある程度固執してやるということです。しかし、必ずしも独断的であれというものではありません。

ひとつの興味をいだいて、それにこだわれというのではないの。


比較的やかましく言うのは、あいまいなことはだめ、いつでも正確であれ、ということです。それから、明晰さ、簡潔さを好みます。

利口さのための利口さ、そういう小器用なやり方っていうのは、好きじゃないの。

非常にむずかしい組み合わせですが、clear-mind と、そしてopen-mind と、この2つの組み合わせがあれば、非常に望ましいと思います。


わたしは、いままでDDBで接触してきたたくさんの人たちからいろんなものをとてもたくさん得ていますし、それはわたし自身のためにすごくなっていると思っています。

まあ、詳しいことは、わたしの部下たちのところへ行って、皆さんの意見をお聞きになってくださいな(笑)」


グリーン夫人の言葉は、ロン・ローゼンフェルド氏が、バーンバック会長の言葉として銘記していると語ってくれたもの、そのままでした。

仕事と家庭を両立させるコツ


chuukyuu「主婦の仕事とライターの仕事とをうまくやっていくコツは?」


グリーン夫人「わたしは、本当に主婦の立場と仕事がうまく両立しているかどうかということについては、まったく自信がないの(笑)。

でも、もし、そこに何か秘訣があるとすれば、まず第一に、とってもすばらしい夫がいてくれるということ。
その次には、信頼できるハウスキーパーがいること。何年間もお世話になっています。

その前に、基本的には仕事と家庭が両立するかとということになりますと、それは、わたしの収入が上がればそれだけ仕事と家庭がとは両立することになるんじゃないかと思っています。

収入が多くなると、経済的にも生活が安定し、それだけ心配の種が少なくなって、細かい家庭の仕事でも、いろんなことがお金で可能になります。

そう、いろんなことを決める時に、お金のことをあんまり考えなくてもいいので、早く決められますし、それだけ心配の種が少なくなりますね。

ですから、経済状態がよくなれば、仕事と家庭との関係も非常によくなると思います。何か、この方法じゃまずいなと思っても、お金がなければそれを改善できないでそのまま放っておかなきゃならないということがおきますが、お金によってかなり解決できます。


それからまた、すてきな子どもがいますが、まあ、いずれにしても、わたしのまわりにいる人たちかがいろいろ協力してくれるので、わたしが仕事と家庭を両立させていられるんじゃないかと思っているのよ。

また、わたしはできるだけ家庭にいるように心がけています。
仕事に関係ないような社交的なおつきあいは、できるだけ避けるように努めています。
もちろん何か問題がある時は、夫と相談します。

でも、はっきりしたことは、わたしには、あんまり自信がないので、もし、わたしの夫や子どもに直接お聞きになつていただければ、わたしが仕事と家庭をどうやって両立させているか、させていないかということがお分かりになるんじゃないかと思います」


アートディレクターとうまくやっていくコツ


chuukyuu「アートディレクターとうまくやっていくコツは?」


グリーン夫人 「コツかがあるかどうかということはちょっとわからないんですけれど、もし何かあるとすれば、相手がアートディレクターだからというんじゃなくて、誰とでも、要するに人とうまくやっていく秘訣と同じものじゃあないかと思います。


まず第一に、彼らも人間です。
で、普通の人間づきあいということからはじめていかなければならないことだと思います。

アートディレクターたちも、それぞれ、その時どんなものが必要なのかということを持ってくるわけです。

そして、たまたまわたしのものと彼らの要求するところが合えば、それでいっしょに仕事をすることになるんですが、わたしの立場から言えるものは、確かに女であるってことで、ある程度有利なことがあるかもしれませんね。


というのは、アートディレクターたちと理解しあう時に、お互いが必ずしも競争的な立場に立たなくてもできる、つまり、対抗しあうって立場に立たないで話し合いができるということです。
仲間という意識のほうが強いわけですね。

それは、わたしが考えていることですが、男の人のほうでもやっぱりそう思うかもしれませんね。こちらがであるということで、なごやかな雰囲気で話し合いができる、という面があるかもしれません。


秘訣というほどのものは特にありませんが、アートディレクターたちをいい仲間、いい友だちとしてつきあうのがいいんじゃないかしら。

そして、お互い同じ気持ちをもった人間同士が、協力して仕事をするんだという考えに立つことじゃないかしら。そういうエゴがありまいと、あまくいかないと思います。

この質問もむずかしくて、わたしはあまり自信をもって答えられないんですけど、そんなふうに考えていつもやっていますわ---(笑)」



バーンバックさんから得たもの---率直に発言せよ


chuukyuuバーンバックさんがあなたに話したことの中で、最も印象に残っている言葉は?」


グリーン夫人 「そう---わたしがこの会社に来て、大変びつくりしたのは、DDBには、誠実さというものがみなぎっていて、そして、バックボーンとでもいうようなものが一本通っているということです。
たとえば、クライアントに対して、率直にものを言うこと、率直に発言してしかもこちらからの基本的立場を堂々と主張する、シンがあるということです。
もちろん、その裏づけとなっているのは、この代理店の持っている知性、それから熱情、さらにひとつのウィットといゆようなものなんですが---。そういう点で、わたしは、とても深く印象づけられました。


それから、もうひとつ、わたしが来た当時驚いたことは、最初から皆はわたしに、クライアントと折衝の場合にどんなことでも思ったことを言いなさい、好きなことを言いなさい、率直に意見を出しなさいと言ったんです。


そういうようなミーティングでは、むしろ、できるだけ会議そのものに貢献しなさい、質問もできるだけしなさい、なんでもいいから意見を出しなさいということを言われたのです。とにかく、なんでも率直に表現しなさい、ということだったのよ。


バーンバックさんが言った言葉で、いまでも憶えているのは、広告っていうのは、ひとつのアートである(【注】この言葉、チェックされて帰ってきた英文では、1〜2語つけ加っています。
英文でお確かめを)。ひとつのタレントなのだ、ということです。
そして、いつもフレッシュであって、また挑戦的な態度をとること、仕事をする時、いつでもそういう態度でのぞむこと、これが鍵である、と言われたのでした。
また、ものごとの判断、いま自分は何をしているのか、いま自分がやっていることが、どの程度のところまで行けるかということの判断は、やはり直感と経験との2つから出てくるものだと言われました。


バーンバックさんが、広告というものの一面を変えてしまったもということが言えるんじゃないかと思うの。ほかの人の持っていない面、能力を、あの人はたくさん持っていて、広告というものをの一面をすっかり変えてしまった、といえると思います。

好きな作品は、エイビス


chuukyuu「ここ数年間にやった仕事のうちで、最も気に入ったものをあげてください」


グリーン夫人 「そうですね。ほかのものはともかくとして、まず第一にエイビスをあげます。


それには、もちろん、いろんな理由がありますが、わたしはエイビスのキャンペーンを始めたいちばん最初の担当者だったのです。


そのライティングもわたしがやりましたし、このキャンペーンが、わたしのキャリアの中でのひとつの重要な道標になりましたし、またレンタカー業界の中でも、ひとつのマイルストーンになりました。その上さらに、世界中に非常に大きな反響を巻き起こしたものです。
このキャンペーンを始めた当時は、まさかこんなにまで有名になるなどとは、考えてもいなかったんですけれど、これだけ成功するとは、まったく思ってもいませんでした。
ですから、『エイビスは、レンタカー業界で2位にすぎません。なぜお使いいただきたいか?』これが、なんといっても、わたしの最も好きな作品なんです」

ポーラ・グリーン夫人の名前を広告界に残すことになったエイビス・シリーズだが、この作品が彼女の手になったものかどうかは未詳。


]


この広告のコピーは
エイビス全員の
給与袋に入っています。



この国の人びとは、広告が言ってることをまるまる信じるわけではなくなってきています。
どうしてそうなってしまったか。
このごろの広告の多くには、製品はお客さまの期待どおりの結果にいつもなるとは限りません式の言い訳が、大なり小なりついているからです。
エイビスだって、時として、例外ではありません。
ぴっかぴかのプリマスの新車でも、トランクに泥があったり、スペア・タイアの空気が抜けていれば、エイビスの広告がウソになってしまいますからね。
私たちは、この国のすべての広告を監視することはできません。ですが、自分たちの広告に恥じない行動をとることはできます。
次に出す広告では、2分以内に書き終えられる貸出票書式になることを宣言します。
受付の女性たち、大丈夫だよね、しっかり練習したんだから。
さあ、エイビスが広告どおりかどうか、お試しください。


           (訳:染川優太 & chuukyuu)

不採用になった試作の1点googleでAvis advertisingを検索すると、なぜか、最初にこの広告があらわれる)




エイビスは、「いいね」と言われないことを
許しません。


生きのいいスーパー・トルクのフォードの新車をお貸ししないことも、ダラスでどこでおいしいパストラミ・ライ・サンドを買えるかをお教えしないことも。
なぜ? ---って。
あなただって業界最大手でなきゃあ、もっとしっかりやるでしょう。
私たちはやってます。
私たちは、2位にすぎないのです。


エイビスが始めた2位と1位のレンタカー広告戦争から、とげとげしさを和らげているのは、グリーン夫人の今日の言葉にしたがうと、DDBのユーモアかも。