創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(676)1965年の発言[今年の広告ビジョン?](1)


株式会社オリコミが刊行していたPR誌『広告美術』第47号(1965.03.15)が書庫の隅から、ひょっこり出てきました。


1965年といえば、45年も前です。


この国の広告は、それから、どれほど変化したかを確認するのも興味があるかな---と、
当ブログで問いかけてみました。


発言者の一人が土屋耕一(35歳)くんというのも効いたみたいで、
読んでみたいという声があがりました。


なにごとも記録とおもってつづけているブログです。
まあ、1週間ほど、道草するのもいいかもしれません。


向 秀男さん42歳、村瀬 尚さん36歳、ぼくは35歳。
お3人とも、すでに故人。生存していることが申しわけないみたい。


でも生き証人として、45年前をよみがえらせられます。





座談会
(今年の広告ビジョン)


出席者(順不同)

向 秀男 ライト・パブリシティ企画部長 東京アート・ディレクターズ・クラブ委員
西尾忠久 アド・エンジニアーズ代表取締役 東京コピー・ライターズ・クラブ中央委員
土屋耕一 ライト・パブリシティ企画部副部長 東京コピー・ライターズ・クラブ中央委員
村瀬 尚 森永製菓株式会社広告課長代理 東京コピー・ライターズ・クラブ中央委員

司会
本誌編集部


本誌 昨年(1964)から企業を襲っている不況感が、広告に対して、
各企業の経営陣に、"広告はもっと物を売ってくれなくては"という
ような神経質な声をもらさせているように思います。
(広告は販売なり)というあたりまえのことが、今年はもっと広告の
本質として強くしいられるような気配です。
ここにお集まりの(広告づくりのベテラン)から<広告は販売なり>の
原則を踏まえた上の新しい広告のビジョンをお伺いするのは、大へ
んに有意義と考えて、この座談会のテーマにさせていただきます。
どうぞよろしくお願いします。


<販売する広告>をつくるために


 そうですね。広告の役割として副次的なものはいろいろあるかもしれ
ないけれども、とにかく、<広告は販売なり>ということはあたりまえのこと
で、そのために広告は存在するのだと思うのです。
それをいまさら再確認しようというのもおかしいと思うくらいに、それがま
ず広告を創る最低線のアブローチじゃないですか。
ただ販売に密着した広告を創る手段として、より組織化したはうがいいとい
う考え方も一方にあるのですけれども、一体ほんとうに組織化したほうがよ
り販売に密接なものができるのか、それともほんとうに売る気のある人がそ
ういう手口を持っているというか、西尾流にいうとそういう哲学を持ってい
るというか、そういうクリエーターをつかまえてそれにむきにならせる、
つまり組織の場合だと何となく変な気持ちが出てくるような気がするのです。
それがむきになる人はそのままライフワークになるのですから、むきになる
わけでしょう。
その辺でぼくはアメリカの広告制作の組織論と日本の場合とでは、何か日本
の国土の上の独特なものがあってもいいのではないかと思うのです。
またそういうクリエーターが日本には--- アメリカならみんなにそういう意
織が徹底しているのかもしれませんけれども、日本は必ずしもそうじゃない
でしょう、だからそういう徹底したものを探し出さなければいけない。
それでなければ企業は金をドブの中に捨てるようなことになりますよ。
それから不況になるとハード・セルということが特に広告にいわれるのですけ
れども、企業広告などハード・セルの広告じゃないのだという単純な割り切り
方の発言を聞くことがあるのです。
企業広告、これは完全なハード・セルの広告だと思うのですが、その辺で広告
に対する概念がむしろ依頼者の側でまだ混沌としている。
有能な制作者は常にそれを考え創っているにもかかわらず、逆に依頼者の側
が混沌としたまま依頼していたということもあるのではないかという気がし
ますね。


西尾 <広告は販売なり>という言葉に関して別な見方もあると思うのです。
きょうこうして集まっている顔ぶれは、広告をプランし、創る立場の人です
が、広告というものは創るだけじゃないと思うのです。
それが載る媒体もあるし、商品自体の問題もあると思います。
アメリカでは、広告された商品で売り上げが下がったら広告制作のスタッフ
をかえる、これはその商品のパッケージ制作スタッフのことだろうと思うの
です。
そうでなければそいうことはいえないと思うのです。
だから商品のパッケージ・デザインをやる場合と広告デザインの場合とはおの
ずから違うと思います。
それから、新聞で打つのか雑誌で打つのかテレビかラジオか、あるいは看板
でやるのか、いろいろやり方が違ってくると思います。その媒体選択をめぐ
っても販売が下がる場合もあると思いてます。
販売が上がる、もしくは下がるという要素は、クリエーティブだけではない
という気が最近強くしとます。
全体のあらゆるところをチェックしなければいけないと思うのです。
それを広告が悪かったから、そのクリエートが悪かったから製作者をすげか
えればいいというものでもない。


村瀬 広告を創ると同時に広告が巧みに動くしかけを考えていかなけれ
ばいけないけれども、それがいろいろなところにオンブしているケースもず
いぶんあるわけですね。
だから先ほどの向さんのことばじゃないけれども、いま日本でいわれている
一番困ったことは、広告に関する概念と実体の不一致が一つ、もう一つはやる
人間が細分化し過ぎちゃったと思うのです。
例えば広告の戦術的な面と戦略的な面を動かす人間が全然違ったり、メディア
を買う人間と実際創っている人間が細分化され過ぎちゃったために、かえって
困る面があります。
ぼくはタレントというものはやる気があれば、自分の仕事だから大事にします。
しかしそういう人もやはり戦略的な面やメディアなどというものも深く配慮し
てみていかないとうまくないと思うのです。


 確かにそうですね。
ただ創る表現面だけではなくて、メディアの選択ということまで考えないとぼく
は気が済まないのです。
現実にこういう例があまりました。新聞広告で有力紙一紙に月に半五段出す予算
しかない企業です。
それでもむりやりに新聞広告を1ヶ月おきに全五段でやった。
この激しい御時世に全五段を二カ月に一度打ったってほんとうの効果はないのです。
ぼくは広告の量については限界効用説みたいなものを持っています、つまりある
ところまでいってはじめて、それをちょっと越すことによって突如として効果をあ
らわすもので、それから下の線でやっても、ただやっているという気休めにすぎない。
それをクライアントも感じて、むしろ販売促進の方に金を出す方法は考えられない
のか、つまり新聞広告を出すのだったら、たとえば雑誌のカラーページを使う場合
と新聞に出す場合とは表現方法が全く違ってくるし、印刷の方式も違ってくるので、
そういうものが計算されてつくられるのだけれども、どうせ新聞と同じような表現
でいけそうだったら週刊誌のざら紙ページだっていいのじゃないか。
1ページ独占すれば、新聞に半五段出しているよりよほど独占力が強いわけです。
ほかのたくさん組み込まれた一つの半五段なんかまるで弱いものです。
それで打ってみたらどうかということで予算を組み立て直してみたら、毎週どこか
の週刊誌に1年間ぶっ続けで登場できるでした、有力週刊誌を選んでどこかに毎週出
ている、 1年間ぶっ続けられる、だから4つの週刊誌を選べば一つの週刊誌に1カ月
に1回は必ず出てくる、各週のどこかの週刊誌には出てくる、そういうことができる
わけです。
その作戦を練って、これはビジョンの上からも新聞の印刷方式とほとんど違いはない
し、そのほうがずっと効果が上がるのではないか。
それからもう一つ、その商品は、いわゆる上流、中流下流という3つのランクに生
活程度を分けた場合に、一番下の層には不必要な商品なのです。
そうなると週刊誌の層というのは全く打ってつけの層なんです。
それで週刊誌を選べといってスタートしたところもあるのです。
だからそうなるとただ表現面の問題ではなくて、そこまで突っ込んで考える。
ほんとうはそれをだれかが考えてくれなければいけないのです。
細分化したらもうすこし専門的に、高い見地からそういうセレクトをする技術を持っ
てやってくれるといいのだけれども、なかなかそこがうまくいかない、だから売る気
に徹するということをクリエーターの面だけではなくて、すべての広告制作面に徹し
てもらわなければ困るわけですね。


土屋 細分化の問題ですが人がいたから組織が分かれるのならわかるの
ですけれども、人がいないのにどんどんイスをつくって、首をそこに置くからどうし
てもそうなっちゃうんですね。


 方式を前提として、それじゃうちの中ではだれが当てはまるかという
ことで分けるからおかしいのです。
どこかに人間がいて、その人間を前提にしてそういう組織づくりをするならいいと思
うのです。


西尾 さっき哲学とおっしゃいましたけれども、例のNAAC(全日本広告
技術懇話会)の問題以後いろいろ考えてみたわけです。
向さんは全部おやりになるけれども、ほんとうはそうじゃないんですね。
チームみんなが心を一つにして当たれば、媒体選択の問題もそれでいけるのじゃないか、
これがいわゆる集団哲学じゃないかという気がするのです。
それがまた組織につながるものじゃないかと考えますが、いま土屋君から、組織図を
置いて人をはめていくからおかしくなるのだという話があったけれども、話がちょっ
とそれますが、要するにあるものを売ろうということから広告が始まってくるわけ
でしょう。
それでプランニングが始まり、制作が始まり、メディア選択が始まり、そのすべての
担当者が同じようにあるものを売ろうと思っていなければいけないし、共通の目標を
持って、共通の考え方をしなければいけない。
そこには哲学というものがあると思うのです。
それでどうやって売るかということでそれぞれ差が出てくると思う。
向さんはある商品の場合にはたまたま雑誌の1ページとおっしゃったけれども土屋君
はまた別なことを考えるかもしれない。
またアプローチのしかたで向さんはどうやるか知らないけれども向流というものがあ
るとすればそういうものでお考えになる。
土屋君はまた別にお考えになる。そこの差の問題で、ぼくはどれも正しいと思うので
す。


 西尾教祖の創造哲学という考え方はぼくはよくわかるのです。
ところが日本の中国問題じゃないけれども、一体政経分離というものがうま
くいくかどうかということですよ。
哲学はみんな共通の哲学を持たして、方法論としてそれぞれの流儀があるじゃないか
というけれども、ぼくはその流儀そのものが哲学にもぴしゃっとつながってくるもの
であればだが、これがなかなかむずかしいと思うのです。
だからあるスローガンを掲げて、そのスローガンに何となくみんなが歩調をそろえて
いるようであっても---そのスローガン自体がぼくは哲学だと思うが---方
法論イコールですよ。


西尾 そうです。
DDBの哲学というのは、せんじ詰めると、"広告というのは説得である"ということ
につきます。
説得というものは科学ではなくてアートである、アートだからそこにアーチストがいる、
アートデイレクターとコピーライターが最小限度いる、それ以上ふやしてはおかしい、
最小限度二人で創らせるという組織でしょう。
創造の面ではADとコピーライターを組ますという組織になってくる。そしてその二者の
チェックをどうするかと聞いてみたら、スーパーバイザーがやるのだ、アカウント・グルー
プからこういう絵を使えとか、こういうコピーを使えということは絶対指示してはいけないとい
うのです。
"だめだ"これは使えないとアカウント・エグゼクティブがいったらその理由を述べなければいけない。
自分のほうから"こうだ"と断定してはいけない。
"いけないと思う"というふうにいうだけで、クリエートのアートディレクターとコピーライターの二つの燃焼を一応尊重する、それがDDBのしきたりであり雰囲気ですね。
クリエートからものを育てるための雰囲気ですね。
一つの考え方からその組織ができ、そして雰囲気をつくっていく、それが哲学だ思います。


 いまの組織論、DDBの場合はむしろアメリカの大型代理店が細分
化したでしょう。組織づくりをして細分化をして、それぞれを専門化していったことに対する一
種の反逆作用みたいなもので、それがかえって素朴な形に戻っていったと思うのです。
現実にいまわれわれのやっている進め方を見ていると、やはり考えてみればアートディレクターと
コピーライターですよ。
だからアメリカほど細分化されないままでいる日本で、さらにアメリカ的な組織をここでわあわあ
取り上げて検討する必要があるかどうか。
むしろいまの日本で普通にやっている方法が実はDDBの方法に似ていたりしているのじゃないか。


西尾 きっと形は似てるでしょうね。


土屋 アートディレクターとコピーライターがまず初めにあるでしょう、
しかしそれはまだいまここでいっている組織という言葉に当てはまらないと思うのです。
組織が生まれてくる核みたいなもので、さっき村瀬君が話していたのは、そのペアを中心にしてそれを
がんじがらめにする組織ができつつある弊害をいっていたわけだ。


西尾 今度はその2人の燃焼を生かすために調査部は資料を
提供する。それからメディアに対してもその方針に従ったものを探してきましょうと。それを見て広告を
つくっていくという考え方、この二人のペアを中心にして組織をつくっていくということでしょう。


 だけどいまいった組織というものは、日本のそういう違った
エレメントのことをいったのではなくて、制作面のことをペアといったわけでしょう。
西尾君のいっているのはそうではなくて、アートディレクターとコピーライターの二つのタレントにおぶさる
というか、そこに還元して、力を認識しようということだと思うのです。


土屋 その組織が、その2人のペアを盛り上げるように働いている
のならいいと思います。


 そうですね。


土屋 いまある組織というのはわりと並列しているんですね。


西尾 もう一つあるのです。
向さんは日本ではコピーライターとADが創っているとおっしゃいましたが、
問題はその2人の質の問題で、もちろん質の高い人もいますが、ほんとうに高
いかどうかということ、いまの<広告は販売なり>ということをほんとうにこ
の2人が彼ら流に自覚しているかどうかということです。
それを真から自覚してないペアをつくってみたところで始まらないと思うので
す。


 だからぼくが最初にいった創る人のタレントの問題に戻ってくるの
です。
そういう才能を持っているかどうか、そういう意識に徹しているかどうかという
ことですよ。


村瀬 アートディレクターとコピーライターが核になっているというこ
とはぼくはないと思う。
普通一般の企業においては、大体メディア・バイヤーか何かが一応広告部の核にな
っています。
ということは、日本の場合は銭を使うから何か特別な感情が働いて来るわけですよ。
そうするとさっき西尾さんがいったように、ある商品があって、それを広告しよう
というので発生する広告もないのじゃないか。
何かぼくらあたりになってくると、まず広告になるネタを商品でつくっていかない
とコミュニケーションに乗らない、例えば新聞メディアなら、新聞メディアを一番
有効に生かせる商品をまずつくらなければいけない。
まずテレビのスポットがいい例です。
スポット、スポットといってみんな大騒ぎをするでしょう、ところがもうハイクラ
ンチョコレートなんかスポットをやってもきかない。
たえずスポットに乗せてちょうどいい商品をつくることを先にやらなければぐあいが
悪い。
だからあてがわれたものがあって、それをいかに有効にするかということで広告部が
考えたりするのは、ぼくは恵まれていると思うのです。
だからそれは広告の責任じゃないとおっしゃる人もいるけれども、これをやらないと
ほんとうに何もできなくなってしまう。


土屋 つまり広告というものを通して消費者のほうから商品企画のほ
うに一種のフィードバックされるような時代になってきたということですね。


 逆にいうと、フィードバックを一番まっ先に受けて、それを身近に
感じているのは広告を創っている人たちですよ。
だから広告の担当者が一番消費者の動向をまず先に意識している。
身近にはね返ってきているから、商品計画には広告制作者たちのタレント生かしていか
ないと損だということもあると思います。
それが組織の上一体どういうふうに生かせるルートかできるのか、これがぼくはひとつ
問題だと思うのです。
いままではそのルートがない。
ただ巧みに起用されているだけだから、組織面ではないわけです。
それは人が先行しているのです。


西尾 普通それでいいのじゃないですか。


 組織の大家がそういい出してちゃいけないよ。(笑)


西尾 タレントのない人が組織にはまってみたってしょうがないわけで
しょう。
いまの日本ではタレントのない人を落とす---首のすげかえをやる機関
がないのですよ。
だからタレントのないのが平気で肩で風を切って歩ける。


土屋 そう、何か平均化しているみたいですね。
たとえば村瀬さんがすごい技術を持っていても、そこら辺の街を歩いて
いるコピーライターと大して変わりがない、名前は確かに売れているけ
れども具体的なことをいえば、収入や何かの面で村瀬さんがロールスロ
イスに乗って、そのペーペーが自転車に乗っているかというと実はそう
じゃない。
何かわりと平均しているんですね。


 ぼくは過渡期の現象のような気がするのです。
コピーライターの位置というものを確認させるために、1回そういう混沌
としたところを通っていいのじゃないか。
デザインがかつてそうだった。
いまでは二束三文では使えないというので、だんだん再反省期に入ってき
ている。コピーでも1回はそういう時期を通っていいと思うのです。
その中で本物が残って、淘汰されてはっきり差がわかってくるということ
ですね。


村瀬 不況感の時代というのは、そういうチャンスじゃないですか。
ここで相当ふるいにかかっていくと思う。


土屋 ぼくはそのフルイというのは楽天的には信じられないね。


 そういう審美眼があるかどうかということですね。


村瀬 しかしそれでコピーを見ようとかいうオッサンはだめですよ。
そういう審美眼を持たれたら逆にこっちも迷惑をすると思うのです。


 しかしそういう傾向は出てくると思う。
広告量は減ってくるし、少しでもいいものを出さなければたいへんだということになれ
ば、媒体の掲載料に比べれば高い高いといっても原稿料はしれているから、少しでもよ
いものを出していこうという機運は全体に出てくると思うのです。


土屋 くると思うというのですか。


 そうこなければクライアントに対しては全然失望するよりしょうが
ないけれども、ぼくはそれほどひどく考えてないのです。


村瀬 不況になると付加価値分野を節減しようというので、まず最初にさ
がっているのが広告原稿料とか写真・CMフイルムの制作費、そういうものを節約していくと
いうことが相当起こってくると思います。
だから向さんみたいにあまり楽天的にも考えないけれども、金銭的なことでない何かでの価
値というものは出てくるのじゃないかと思います。


 そこでぼくはそういう姿勢を持つ企業と、のんきな企業との差が
大きくなってくると思います。
ちゃんとセレクトして少しでもいいものをつくろうとするか、そういうことは全然わからない
で、無意識に原稿をパスさせていくかという、その企業の差がここで出てくると思うのです。
少ない金をどううまく生かしていくかというみたいなものを持っているところと持っていない
ところでも、格差が大きく開いてくるのではないかでしょうか。

つづく