[息抜きタイム](678)1965年の発言[今年の広告ビジョン?](3)
向 利益率低下の根本は、やはり生産の過剰でしょう。
実際に品物がそれだけだぶついているので、ぼくは販売とは何かという
ことがはっきりわかりつつあると思うのです。
つまり販売というものは生産者から問屋まで品物を運んで、その間の口銭
を集めてくるだけであった。
問屋から金を取ってきて売れたといったって、それから先にはけなければ
ちっとも販売になってないわけです。
そこで初めて広告が売ってくれるのですから<<広告は販売なり>ということ
が明確になってくると思う。
これを整理すると、ただ広告の技術とかテクニックとかという問題ではなく
て、もっと生産のところまでさかのぼって考えられるという問題になります.
現実にはカルテルが行なわれたり、操短が業界で申し合わされたりしている
ということは、いままで野放図だったものが、ようやく生産面の調整が行な
われようとしておることだと思うのです。
そうなると、その形の中では、広告が一体どういうビジョンを持っていくの
かということになり、その形を前提とした新しい広告のテクニックというも
のが、われわれの勝負どころになってくると思うのです。
西尾 ぼくはこういうふうに思う。
戦後約20年、初めのうちの5年間は問題にならないとして、朝鮮動乱が
起きてからの15年間という時期は、新しい商品がどんどん開発され、新
しい職場ができて、ものが足りなかった時期だと思うのです。
つくってもつくっても足りなくて、構造的にものが売れた時期です。
だからだれが広告をつくろうと、構造的に問題なく売れたと思うのです。
ところがこれからはいよいよものを売る時期だ、だから今度はほんとうに
販売スピリットを持った者が広告をつくらなければ売れないと思うのです。
そこであまり土屋くんみたいに悲観もしないし楽観もしない。
土屋 販売ということに対する
解釈が企業によってまちまちだと思う。
ばくらの接触している周辺では、小売店あたりまで、もっと近視的にいえ
ば問屋あたりまで、ものが流れていけばいいのであって、とにかくそこに
ものを入れてしまうのが先決だから、そのために働く広告をつくっても
らいたいというか、要するに販売する広告をそういうふうに解釈している
ところもあるわけです。
一方1ページの企業広告でもあれば、それは物を売る広告なのだというビ
ジョンをもつ者もあるわけです。
一方、山のような在庫を広告ではかしてしまおうというせっぱ詰まった
考え方があってそこにすごい距離がある。
いまのところぼくの経験でいえば、そういう販売に対するビジョンの相違
がものすごくあって、それに対してたいへん悩んでいるのです。
向 これはまたたいへん悲観的だ(笑)。
いままでぼくもいろいろな企業とお付き合いしたけれども、平均点をとる
と悲観的な点数のほうが多いですよ。
つまり、広告というものは、販売の援護射撃だと考えているのはよい方で、
日本の超一流企業の経営者でも、いまだに広告は付き合いだと思っている
ところがあるんだから(笑)。
西尾 税金のがれということもある。
向 "フォーチューン"の外国百社にランクされているような日本の超
表的な企業でそういうのがあるわけです。
また、あるところで"安保以後新聞の編集が、全部左がかっていてけしからん。広告など出
してやるな、東京新聞だけはやや穏当であるから広告を出してやれ"といった。
とにかく自分で自分の首を締めているような言動をする経営者があって、広告に対する認識
というものはそのくらいなのです。
西尾 一方に、そういう大変に悠長な昔の殿様みたいなお方が社長をや
っていらっしゃる企業もあれば。一方には、若手経営者グループという人たちが、現在の広告
代理店には販売のための広告というものは相談できない、単なるスペース・ブローカーにすぎな
いと、いまの広告代理業に対する批判が経済界から出てきているということも一つの流れだと思
うのです。
つまり超一流、超ブルーチップスとその次のランクの経営者が出てきている。
土屋 まだ明けの明星ですよ。
向 たとえば傑作なんだ。
社長がそういう考え方を持っているその組織の実際の担当面ではどう考えているかというと、そ
れぞれの事業本部長みたいな者を置いているのだけれども、そこの担当の人は、私は広告の効果
をものすごく信じているのだということをいう人がいるのです。
だが、そこから出てくる要求は何かというと、この商品が売れ残っちゃってしょうがないから、今
度は他の商品は一切やめて、広告のテーマはこれにしてくれという。
調べてみるとその商品は全く魅力がない。
値段は高いし機能的にもよくなくて、同業のもののほうがずっと安くていいものなのです。
広告の効果を信じていると自認している人がそういう答えを出してくる。
だからその時言ったのです、これはどんないい広告の技術でも売れません、やったって広告費をつぎ
込むだけ損だから、商品計画をした人たちが総ざんげをしなければいけない、広告で売ろう、だま
そうといっても絶対に広告しても売れない、お客はその辺は非常に目が高いといいました。
広告の効果を信じているというその担当者が、まだそんな意識を持っているわけですが、
その辺はたいへんな危険性があるわけですね。
土屋 わあっとやって、よければ続ける、悪ければ名前を変えるとか
変な名前をくっつけて売るとか、何か広告効果に対する過当な認識みたいなものがありますね。
西尾 一方、そういう機能的なものではなくて、例えばキャラメルとか
チョコレートみたいなもので、味は同じだがパッケージを変えただけで売れるということも
あるわけですね。
向 それはさっきの調査と関係があると思うのだけれども、モチベーシ
ョンの条件を分析していったときにそういうことは出てくると思いすね。
パッケージングがその品物を選ぶ非常に大きな要因になって
いる場合には、それを変えることはすごく大事だと思いますが、もっとファンクショナルな
商品の場合にはそういうことはいえませんよ。
だって、何でキリンビールが売れるかわからないもん。
西尾 リベートが多いからじゃないのですか。
向 それだけの問題じゃないと思いますね。
土屋 キリンビールが売れるということは、広告をつくる人間にとっては
何か悲観的な話だね.。
向 まったく不思議ですよ。
土屋 だけど、これからもずっと
売れていくかしら。
向 そこだけれども、現状では
なぜキリンがあれだけずっと水をあけ独走体勢に入っていられるのかと
いうことを分析するのは、なかなか興味があると思うのです。
下手くそな広告で広告なんかしていないようなものでしょう。
西尾 宣伝費はうんと低いです
よね。
向 戦前は少ないのです。
しかし戦後は大日本が分離してブランドを分けたでしょう。
75%ぐらいが大日本で、キリンが25%ぐらいですが、大日本の75%が
分かれてほぼ同格になった。
ところがキリンだけが伸びた。
やはりブランドを長く変えなかったということがあると思いますよ。
全然変えなかった。
かつては広告活動をやっていたわけですよ。
村瀬 かつてはやっていたのです。
キリンの例と富士銀行の例がいつも取り上げられていますよね。
名前を変えて安田が富士になった。あとの2つはその後名前を戻しているのに、
あそこだけは戻さない。
それと噂好品の場合は味の問題があるのじゃないですか。
向 ただ現実に、ちょっと話は
余談ですけれども、日本橋のビヤホールみたいなところで毎年ビール飲みく
らべの大会をやるのです。
ラベルを全部はがしてA・B・Cに分けて飲ませ、どれがうまいか、デー
タをとるわけです。
そうすると、たとえばBならBがうまいというとみんな大体それが当たる。
だから噂好というものは間違ってないということはあるのです。
ところがプランドを当てはめてみろというと、全部キリンというのです。
ところがそれはキリンじゃない、そういうデータが出てくるのです。
みんなこのビールはうまいと思って飲んで、それじゃこのうまいビールは
何かというとキリンという。
これが何かということです。
だからキリンのブランドと味のつながりは相当いいかげんなものだと思う。
村瀬 あれと同じじゃないです
か。
例えば調査で、けさの新聞広告に何が出ていましたかというと、大てい松
下とか森永とか、出ていなくてもそういうようなものがあるのじゃないか。
向 調査の名誉にかけてこの
実態を調べてみたらおもしろいと思う。
作戦なんていわれているものは、それなりにすごく効率になると思う。
販売を伸ばすものは広告だと思っていたにもかかわらず、キリンが伸びて
いるのは何ぞやということですね。
村瀬 キリンがわめき出したら
売れなくなる、そんな感じじゃないで
すか。
西尾 いまの話がもし事実とす
れば、一種のマキャベリズムですね。
そういうものが長続きするかしら。商売は修身の教科書じゃないからどう
いう手を使っても悪いことはないけれども、かりにそういうことがばれた
場合に、日本の国民性からいって許すかしら。
村瀬 判官びいきとかいうけれども一ペんきまってしまったものはおそ
ろしいと思う。
うちの会社で苦労しているのは、キャラメルは森永、チョコレートは明
治というイメージが戦前から戦後にかけてできてしまったので、なんぼ
やってもそれを引っくり返すことができない。
とにかく一富士、二鷹、三ナスビみたいなものがあって、その順序を引
っくり返すのって大へんですよ。
銭の問題とかいい広告をたくさんぶったから引っくり返えるかというと、
もうこうなるとなかなかきかないのですね。
土屋 その作戟としては、やは
り広告が一番手っ取り早いんじゃないですか。
なかなか引っくり返らないでしょうけれども---。
向 森永はアメとチョコレートの
二面作戦、明治はアメは見限ってチョコレート一本やりできたと思うのです。
西尾 これは半分は生産体制から
きたんですよ。
向 商品に対する時代の指向性みたいなものを明治のほうが早く見て
とったのか、あるいは予算的にも集中的にそこに持っていったのが逆に成功したのか。
そういうところがあると思うのです。
だからいまのキリンの例を見ると、一体広告というものが一番いい伝達方式
かどうかということもなかなかむずかしいのだけれども、概念としては当然
それは正しいことだと思う。
たとえばデパートの三越だって、いまでこそほかのデパートにくらべてそう
十分な活動をしているとは思わないけれども、昔は相当エキセントリックな
動きをしていたね。
"あしたこのスペースに三越の広告が出る"とい
すかしら.
村瀬判官びいきとかいうけれども一ペんきまってしまったものはおそろしい
と思う。
うちの会社で苦労しているのは、キャラメルは森永、チョコレートは明治と
いうイメージが戦前から戦後にかけてできてしまったので、なんばやっても
それを引っくり返えすことができない。
とにかく、一富士、二贋、三ナスビみたいなものがあって、その順序を引っ
くり返すことは大へんですよ。
銭の問題とか、いい広告をたくさんぶったから引っくり返えるかというと、
もうこうなるとなかなかきかないのですね。
土屋 その作戟としては、やはり広告が一番手っ取り早いんじゃないですか。
なかなか引っくり返らないでしょうけれども---。
向 森永はアメとチョコレートの二面作戦、明治はアメは見限ってチョコレ
ート一本やりできたと思うのです。
西尾 半分は生産体制からきてないですか。
向 商品に対する時代の志向性みたいなものを、明治のほうが早く見てとっ
たのか、あるいは予算的にも集中的にそこに持っていったのが逆に成功したのか。
そういうところがあると思います。
だからいまのキリンの例を見ると、一体広告というものが一番いい伝達方式かどうか
いうこともなかなかむずかしいのだけれども、概念としては当然それは正しいことだ
と思うのてす。
たとえばデパートの三越だって、いまでこそほかのデパートにくらべてそう十分な活
動をしているとは思わないけれども、昔は相当ユキセントリックな動きをしていたね。
"あしたこのスペースに三越の広告が出る"とい空自の広告を出したり---。
そういうものがいまの三越を築き上げて、その遺産を食っているような気もする。
だからキリンビールがいまの状態でいくと、いまは何となく金利が大くなっていって
いるけれども、あるところでころっといけなくなると、先達の遺産をどんどん食い始
めるという時がこないとも限らないと思う。
土屋 三越は若い女のものが売れない。
何か貴金属だとか金の彫刻で何万というものは売れるけれども、若い女の子の洋品が
売れないということは、デパートにとって致命的なことで、さっきの販売の詰ではない
けれども、三越だって長い目で販売というものを考えて的確に広告を積み上げていか
ないと、若い層から見放されたらたいへんだと思う。
向 これはモチベーション・リサーチ----ぼくはリサーチは反対なのだけ
れども、クリエーティブ以前のものとしてリサーチというものはひじょうに重視してい
るのです。
例えばいまの三越の場合でも、昔の消費者の構造といまの消費者の金を使う構造が変化
していると思うのです。
いまは若い女がすごく金を使う。
消費力がひじょうにあるわけです。
昔はデパートは祖母の代からのお得意様に向かっておればドル箱になったけれども、いまは
デパートのドル箱は若い子です。
すごく消費力をもっている。
働いてお金を手にして、そのお金をつぎ込む。
男よりも女の子のほうが使う。
だから確かに若い女性をつかまえなければいけない。
それに対して三越がそういう購買動機というものちゃんと見、店の中の商品の選択とか売り
場の配置とか、広告の表現がそれに合っているかどうかということに問題があると思う。
西尾 三越で貴金属が売れるというけれども、貴金属商とか時計店が行き
詰まってしまって、いままで時計店と称していた力のあるところがほとんど貴金属商になって
しまった。
そうすると三越で買うかどうか、やはり専門店で買う人がたふえる。
そうすると下から押されてしまうということになる。
だからもっと長い目で商売というものを見たほうがいいという気がしますね。
村瀬三越だってすごく出ていたのは贈答品だった。
昔は贈答品で三越のラベルと小田急のラベルでは、同じ品物をもらうのでも三越でなけれ
ばぐあいが悪かった。
ところがいまみたいに運賃がかかってしまってもうからないとなると、贈答品はドル箱でなく
なってきている。これも相当こたえるでしょうね。
西尾 配達ということで、売れば売るほど損をするということがあるのですね。
村瀬 三越はデポを持っている。
べらぼうに銭がかかって、それでほかのところももうからなくなっている。
それがある時代がきて贈答品はもうからないようになると、もっともっと差がついてくるのじゃ
ないかな。
土屋 デパートの広告というのはあらゆる広告の中で一番販売の場に近いと
思うのです。
最も遠いのは、東レというようなケースだと思うのです。
西尾 東レは、糸と似つかないものを広告している(笑)。
向 あれを販売と関係あらしめたところが東レの広告の全く独創的なところ
なのです。
土屋 デパートは小売店ですから売りと結びついているでしょう。そのデパー
トで西武なんかが中心になってああいう新しいイメージをつくって、とにかく上位のランクに入るデパートに仕上げたということは、広告にとってはたいへん明るい一つの実績だと思います。
(つづく)
【予告】
3連休明けの22日(火)からは、『シーモア・クワスト作品集』(1973刊 アイデア別冊)から代表作品を順次紹介。↓は、氏がこの作品集のために寄せた表紙。
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