創造と環境

コピーライター西尾忠久の1960年代を中心としたアメリカ広告のアーカイブ

(36)フィリス・ロビンソン夫人とのインタヴュー(2)「いたずらっ子のように飛び出してDDBに参加した」


            Mrs. Phyllis Robinson


DDB創業以来のコピー部の責任者であり、名育成者であるロビンソン夫人を紹介しています。若手コピーライターにとって、指導しいるコピー・チーフにとっても、珠玉のアドヴァイスがいっぱい。


<<フィリス・ロビンソン夫人とのインタヴュー(1)


いたずらっ子のように飛び出してDDBに参加した


chuukyuuバーンバックさんがDDBを設立したころはいかがでしたか? 小さな代理店だったと思いますが…」


ロビンソン夫人「確かに小さな代理店でした。電話の交換手を入れても12人しかいなかったのですから。
当時のクリエイティブ部門を構成していたのは、ヘッドのバーンバックさんと、ヘッド・アートディレクターのボブ・ゲイジさん、コピーチーフの私の3人でした。私にはアシスタントなどいませんでしたが、ボブ・ゲイジさんには仕事の性質上、数人のアシスタントがついていました。
とっても活気があったんですよ。もちろん、偉大なパイオニア精神を意識していたからではありません。あるいは、いま振り返ってみると、そんなところもあったかもしれませんが…。
むしろ、授業をエスケープしたいたずらっ子のように、飛び出そうという気持ちが強かったんです。自由を満喫していたのです。


イオニア精神を意識していたからではないと先ほどいったのは、この言葉はすこし気取った言い方だからです。少なくとも、私たちは気取ってはいませんでしたから。
とにかく、私たちは、まるで足かせを解かれた人のように自由を喜び合ったのです。自由に、自分の思うとおりに仕事ができる…」
DDBのクリエイティブ部門がもっている[自由]については、すでに多くのことが語られていますし、ぼく自身も拙著『想像と環境』(ブレーン・ブックス 1969.5.30)で詳しく発表しているので、ここでの再説はやめましょう。
(注:ロビンソン夫人へのこのインタヴュー記録は、拙著『劇的なコピーライター』(誠文堂新光社 1971.3.10)へ掲載したものの再録なので、上の説明は、いささかの混乱を招きそうですね)。


chuukyuuDDBは、今でもおっしゃったような自由な雰囲気に包まれているのですか?」


ロビンソン夫人DDBは、社の方針として、それを大切にしています。しかし、12人しかいなかった当時と、2,000人以上もの人が働いている今の環境とをまったく同じにしておくことは不可能です。
ただし、大切なことは自由であることです。いかに突飛なアイデアであっても快く迎えること、いいかえれば、クリエイティブの自由を尊重するという点では、今も当時も変わりません。
実際、自由で創造性豊かなアイデアの追求はやむところを知りません。また、私たちには、お互いにあとくされなく批評し合える雰囲気があります。気心を知り合った者同士だけに許されるインフォーマルな雰囲気です。あなたがこの様子をご覧になつたら、きっとそれを米国人気質と解釈なさるでしょう、でも、違うのです。この業界の米国人ですら、この雰囲気には感心するのですから。


かつて、イアンタヴューの申し込みをよくうけました。そして、記者の人たちに手がすくまで待ってもらったことがあったのです。彼らは、その間に感じたDDBの印象を、こう、私に話したものです。
『ここがとっても気に入りました。みんな楽しそうで、だれとでも気軽に話をしているです』って。
DDBには、どの代理店よりも、1対1で話し合えるチャンスがあると思います。昔はよく、堅苦しい組織を重んずる代理店の人びとが、この雰囲気に驚いていたものです。


このように自由な環境の中で、人びとが手に手をとって仕事をすれば、当然、アイデアも豊富になるとおもいます。自由にアイデアの出せるところなのですから、それに、とっても家庭的な雰囲気があるんです」


(>>(3)へ)


DDBのみごとなコピーライターたちとの単独インタヴュー(既掲出分)
デビッド・ライダー氏とのインタヴュー
(1)(2) 
ロバート・レブンソン氏とのインタヴュー
(1)(2) (3)(追補)
ロン・ローゼンフェルド氏とのインタビュー
(1)(2)(3)(4)(5)(了)