創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(493)パーカー夫人のスピーチ(了)

パーカー夫人のポートレイトを変えました。ぼくはパーカー夫人の年齢を気にしたことはなかった。
ポートレイトは、彼女がDDBで Senior Vice President に昇進したことを報じた『DDB News』1974年8月号に載っていたものです。
Senior Vice President を先任副社長と訳すか、取締役副社長と訳すか---まあ、どっちでもいいけど、とにかく、「おめでとう」と海のこちらでつぶやきました。

きょうの英文で、スキップされている2,3行があります。パーカー夫人はドイツ生まれで、英国で大学を終え、米国へ渡り、仕事に就いたという部分です。あの太平洋戦争のさなかです。週末、「これから母のところで食事」と言ったから、15〜6歳前後で、お母さんといっしょに英国へ逃れたのでしょう。お父さんのことは聞いたことがありません。どんな職業だったのか?この数行は、母国語はドイツ語(+イディシュ語)、英国語をまなび、米国語のコピーライターをしている---つまり、努力と感性の人を暗黙のうちに語っています。


            講演者:ローリー・パーカー夫人
            DDB 副社長兼 コピー・スーパバイザー(1966当時



DDBスタイルは変化する


最後にお話ししたいことは、DDBが1949年に創立されてから1966年の現在にいたるまでの過去17年間に、どのような変化をとげたかということです。
創立当時と同じ代理店ではありません。
これは、社の規模や扱い高という点だけではありません。


DDBの「スタイル」が年々変化に変化を重ねてきたのです。


スタイルと云っても、レイアウトや活字のスタイルのことではありません。
むしろ、モノの見方、あるいは消費者に対する態度と云ったほうが適切かもしれません。


消費者が洗練されてくると、同時に市場も変化してきました。
と同時に、DDBも円熟してき<また私たちの作品もそれとともに発展して釆ました。この変化の中で最も重要なことは、私たちが行なった広告表現上の改革が、他の人間によって真似されたということです。
真似をされた以上、何か新しい物をまた見つける必要があったのです。
DDBでは、告表現上のスタイルを、最も全盛期であった年代をとり、「DDB1956年型」「DDB1962年型」と呼んでおります。
いわば、ぶどう酒の年代を呼ぶみたいにしています。
私の家には、茶色に変色した広告の清刷のファイルを山一杯しまってあります。
これは、私が10年以上の間に作った、すべてを集めたものです。
しかし、これを見たくはありません。
5年あるいは3年前に自慢していた作品でも、今見ると当惑します。
このことは健全なしるしではないかと思います。
私のクリエイティブ水準が、他のクリエティブ水準と共に年々向上していることを示しているからです。
前のほうで、ビル・バーンバックが彼のリーダーシップのもとに働くクリエテイブの人たちを育て上げたと申しました。
彼もまた、DDBと共に変化してきたのです。 あるいは、彼とともにDDBが変化してきたと申しし上げたほうがいいかもれしれません。


ビルはもはや反逆者でも偶像破壊者でもありません。
立派な政治家になりました。
つい最近のこと、情けようしゃなく競合商品をこきおろしたコマーシャルを見せたところ、それはいけないと言って、彼が拒否したのを見て、たいへん驚きました。
彼が言うには、「良い広告よりも、もう一つ重要なものがある。それは、お互いに紳士でなければならないことです」と。
ビル・バーンバックの広告代理店は、もはや広告界の神童ではありません。私たちには中年初期の円熟さが出て釆ました。
人間の歳で云えは、DDBは40歳といったところでしょう。私たちはジョン・F・ケネディの世代に属しています。ケネディが好んで使ったコトバは、「活力」です。このコトバこそDDBの今日をよく表わしていると思います。


DDB出身の広告代理店


ここ数年間(注:1960〜66)、ニューヨークのいたるところに、想像力に富んだ新しい広告代理店が讃生してきました。
業界紙はこういった広告代理店がDDBにとって、手ごわい競争相手になると報道しております。
しかし、ほとんどの人が理解していないのは、こういった広告代理店で活躍している人たちは、以前DDBで働いていたということです。
パパート・ケーニグ・ロイスもそうです。
ジャック・ティンカー&パートナーズもそうです。
また、ウェルズ・リッチ・グリーンもそうです。
ギルバートもそうです。


DDBで働いていた以前の友人たちが、これらの新しいクリエティブ・エイジェンシーでの指導灯になっているのです。
このような優れた若い広告代理店が、あちこちに生れたということは、たいへんによいこといです。
もはやDDBだけが賞を独占するわけにはいかなくなったことは、たいへんよいことです。
そして、DDBの人間たちは、賞を受りとる代りに、選考委員に指名されたり、大学で広告の講座を教えたり、講演をしたりしています。
(おわり



参照
ロール・パーカー夫人とのインタヴュー
(123456)

パーカー夫人は、自分もガン体験者なので、公共広告のガン協会のキャンペーン製作者として志願し、協会への寄付ほ訴えた、この広告を制作。

生きているあいだに、ガンをワイプ・アウト(払いのける)するために---。

wipe---車のワイパーの動きを表現しています。