(37)フィリス・ロビンソン夫人とのインタヴュー(3)「創造的な雰囲気をこわさないために…」
Mrs. Phyllis Robinson
DDB創業時、バーンバックさんから選ばれたたった1人のコピーライターだったロビンソン夫人は、その後、数多くのコピーライターの名手を育てた。その秘訣を語る。
創造的な雰囲気をこわさないために…
chuukyuu「この雰囲気をこわさないために、どんな努力を払いましたか?」
ロビンソン夫人「いつもこの雰囲気の中にいる自分を意識していました。そして、この雰囲気をこわさないでおくための努力を惜しみませんでした。この雰囲気をこわさないでおくことができたのは、私たちが注意深くやったことも、その理由に数えられると思います。
ここをとても尊いところと考え、決してこわしてはならいと思っていました。そして、築きあげたものをこわしてしまうひとりよがりや自己満足や気まぐれは、絶対にいけない…といましめてきたのです。
もちろん、私たちを軽蔑のまなこで見る外部の人びともいましたし、私たちの失敗を夢見る人たちもいました。彼らは、往々にして、自分はとても賢いと考える預言者気取りの人びとで、こんなことも言ったんですよ。『とてもいい雰囲気には違いないだろうけど、会社が小さいからできることでね。大きくなってもこわさないでおけるかな?』 その上、扱い高が、500万ドル、1,000万ドル、2,000万ドル、5,000万ドルになるまで、待ってやるよ…って。
そういうわけですから、私たちはよけいに慎重な行動をとらざるをえなかったのです。これも、この環境を保っていくための努力を払わせた理由になっています。
バーンバックさんの努力も忘れてはいけません。あの人は、若い人たちを鼓舞する福音者であり、激励演説をするコーチであり、すごくタフで優秀なディレクターであり、先生でもありました。
あの人は、ひとりよかりを決して許しませんでした。
DDBが成功したのも、もとを質(ただ)せば、あの人ひとりによるところが大きいのですが、そのための彼の努力は、口ではとても言い表わすことができないくらいです」
コピーライターの能力をチェックするには…
huukyuu「DDBが大きくなるにつれて、だんだんとコピーライターを採用されていったと思いますが…」
ロビンソン夫人「私はDDBができて13年間、コピー・チーフをやっていたのです。ところが、主人も私も子どもがほしくなり、そのポストを降りて、パート・タイムでコピーの仕事をすることにしたのです。そうすれば子どものめんどうも見られるでしよう。
で、コピー・チーフを降りたころは、コピーライターが35人いたのですが、今の人数はちょっと覚えてしません」
ロビンソン夫人がコピー・チーフをしていた時期というのは、1949年から62年までです。VWのアカウントが入り、そのシリーズによって全米中の注目を集めていたのが1959年から1960年ですから、DDBが急成長をはじめた時期といえます。有能な人材が続々と集まり、ロビンソン夫人は安んじて非常勤にまわれたのでしょう。
chuukyuu「あなたは、どういう基準でコピーライターの能力をチェックし、採否をお決めになっていますか?」
ロビンソン夫人「創立当初しばらくは、能力を見て判断することばむずかしかったのです。というのは、たとえ才能のあるコピーライターでも、その能力を実際に広告で発揮してみせるチャンスがほとんどなかったからです。今とは違っていましたから。
今は、創造性を追及し、尊重する代理店がたくさんあります。ですから、エキサイティングな広告をつくりうるコピーライターなら、すぐに職を見つけることも可能です。
当時、私が採否を決めるに当たってしなければならなかったことは、言外の意味を読み取るということでした。つまり、書かれているものを文字どおり受け取るだけではダメで、そこからコピーライターの能力や技術を読み取らなければならなかったのです。
私が望んだのは、のびのびした創造性、響きのよい文章を書く能力、シンプルでカラフルで、しかも力強く、わずか数行で人に買う気を起こさせる文章でした。
さらに私は、ビジュアルなセンスを持っているコピーライターを望みました。このビジュアルな感覚は、コピーライターの広告やデザインを通して、はたして彼(彼女)の自己満足だけのものなのかそうではないかのを知ることができましたし、また、言葉づかいから察することもできました。さらに、彼(彼女)の持つ想像性イメージからも」
((4)へ)
DDBのみごとなコピーライターたちとの単独インタヴュー(既掲出分)
デビッド・ライダー氏とのインタヴュー
(1)(2)
ロバート・レブンソン氏とのインタヴュー
(1)(2) (3)(追補)
ロン・ローゼンフェルド氏とのインタビュー
(1)(2)(3)(4)(5)(了)